いきなりですが、キリスト教三大巡礼地がどこだかご存じですか?

答えは、エルサレム、ローマ、そしてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラです。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、イベリア半島の西側、現在のガリシア州にある街です。地図上では、ポルトガルの上の方にある場所です。

このキリスト教三大巡礼地の一つサンティアゴ・デ・コンポステーラへと巡礼する人の数が、2025年には前年2024年の人数を3万人以上増え、53万人を超えたとニュース等で報道されていました。サンティアゴ巡礼の旅をする人たちは、徒歩で100km以上連続して歩いて巡礼地にたどり着くと「巡礼証明書」がもらえるので(自転車の人は200㎞、車椅子や馬等で行く人もいます)、徒歩でいくという人がほどんどなので、年間50万人を超える巡礼者たちがサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かって歩いて巡礼の旅をしたとは、凄い数ですよね。

この年間50万人という数は、ヨーロッパ中から多くの巡礼者が集まり、最盛期の12世紀に西の果てのこの地へ向かった巡礼者の数に匹敵するものです。

アラメダ公園から見るサンティアゴ大聖堂(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

キリスト教三大巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラとは?

何故、そんなに多くの人達がサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して巡礼の旅をするのでしょうか。一体、サンティアゴ・デ・コンポステーラには何があるのでしょうか?

少し、歴史を紐解いてみましょう。

今から1200年以上前、814年頃にイエス・キリストの12使徒の一人聖ヤコブ(スペイン語ではサンティアゴ)の墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されました。でも、イエス・キリストの12使徒ということは、キリストと同時代の人のはず。何故、キリストの死から800年以上も経って、その弟子の墓が発見されたのでしょうか。それも、エルサレムからは程遠いスペインの地で。

最初の殉教者サンティアゴ(聖ヤコブ)

サンティアゴ(聖ヤコブ)は、紀元44年頃に、当時のユダヤ王ヘロデ・アグリッパ1世に迫害され斬首されました。彼は、キリスト教での最初の殉教者となります。

巡教する以前に、サンティアゴ(聖ヤコブ)は、他のイエスの弟子たちと同様に、世界中で福音宣教を始め、イベリア半島西北部(現在のガリシア州)に赴いて信仰を解き始めました。その後、イスラエルに戻り殉教しました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラにあるフォンセカ宮殿(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

サンティアゴ(聖ヤコブ)の遺体は何処へ?

言い伝えに寄れば、処刑後、サンティアゴ(聖ヤコブ)の弟子たちがその遺体を回収し、石の船に乗せました。その舟は神の導きにより地中海を渡り、ガリシアの海岸(現在のパドロンに近いイリア・フラビア)に到達したのです。以前、サンティアゴ(聖ヤコブ)が福音宣教をしていたので、地元の信者たちが弟子たちを助け、遺体を目立たない場所に埋葬し、当時はローマ支配下にあったので、ローマの迫害から遺体を守ったのでした。そして、その秘密の場所は数世紀の間忘れ去られていたという訳です。

忘れ去られていた間の歴史背景

月日は流れ、キリスト教を迫害していたローマでしたが、313年のミラノ勅令にてコンスタンティヌス帝がキリスト教の信仰を認め迫害を終結させると、392年には、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教以外の伝統的な神々の信仰(異教)を禁止し、実質的な国教化が完成しました。そして、キリスト教が国教化されてわずか3年後の395年にはローマ帝国は西と東に分裂し、476年には西ローマ帝国が滅亡しました。この辺りの歴史は、皆さんも世界史で勉強されたのではないでしょうか。

西ローマ帝国が滅亡すると、イベリア半島は西ゴード人による支配が始まりましたが、イスラム教徒のウマイヤ朝はエジプトから西方に進出、そして北アフリカを征服し、さらに711年にイベリア半島に侵入し、イベリア半島でのイスラム支配が始まりました。西ゴード王国は滅亡したましたが、王族とキリスト教徒の一部がイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込み、アストゥリアス王国を建国します。そして、イベリア半島北部では、彼らによるレコンキスタ(国土回復運動)が繰り広げられることになりました。

ボタフメイロ(Botafumeiro)と呼ばれる巨大な香炉(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

墓、発見される!!

813年頃、隠者ペラージョが近くの山を照らす不思議な光を目撃しました。興味を引かれた彼は、イリア・フラビアの司教テオドミロに知らせ、調査の結果、ローマ時代の墓が発見され、そこには三つの遺体が安置されていて、使徒ヤコブとその二人の弟子であると特定されました。

この発見は、キリスト教徒であったアストゥリアス王国の王アルフォンソ2世に伝えられ、王はその墓が本当にサンティアゴ(聖ヤコブ)の墓であるかどうかを確認するために自ら出向いていきました。そして、サンティアゴ(聖ヤコブ)に捧げる小さな教会の建設を命じました。この出来事が、サンティアゴ・デ・コンポステーラが世界的な信仰の中心地となる始まりとなったのです。そして、アルフォンソ2世は最初の巡礼者になりました。

中世のキリスト教にとってのサンティアゴ(聖ヤコブ)の墓の発見の意味とは?

中世のキリスト教徒にとって、サンティアゴ(聖ヤコブ)の墓は、信仰が世界の西の果てに根を下ろしたことを意味していました。それは、キリストのメッセージが「地の果て」——当時ガリシアと理解されていた場所——にまで届いたことの証左であったのです。

さらに、この墓はヨーロッパの精神的結束の象徴となりました。中世の真っ只中、戦争や王国、言語によって分断された大陸は、サンティアゴにおいて共通の目的を見出したのです。サンティアゴ(聖ヤコブ)の墓への巡礼を通じて、赦し、癒やし、そして神との出会いを求めたのです。

また、9世紀のサンティアゴ(聖ヤコブ)の墓の発見は、前述したように、当時イベリア半島を支配していたイスラム教国へのレコンキスタ(国土回復運動)にも関わってきます。墓の発見はキリスト教軍の士気をあげたと共に、伝説では白馬に乗った聖ヤコブが各地の戦闘の際にキリスト教軍の応援に現れ、イスラム教軍を蹴散らしキリスト教軍を勝利に導きキリスト教を守り続けたと言われています。このことから聖ヤコブはスペインでのキリスト教のシンボルとなり、国の守護聖人と祀られるようになりました。(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会より)

サンティアゴ・デ・コンポステーラにあるインマクラーダ広場(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

ヨーロッパ各地からサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼へ

やがて信仰と免罪符の約束に導かれ、ヨーロッパ各地から何千人もの巡礼者が道程を歩き始めました。そして、ピレネー山脈を越えてスペインに入ってサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうサンティアゴの道(フランスの道)沿いには、教会や修道院など宗教的な建築物だけではなく、巡礼者が寝泊まりした宿泊施設、途中で病気になった人たちのための病院、道沿いの市場などが次々と現れました。

最盛期の12世紀には、前述したように年間50万人もの人々がヨーロッパ中からサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して巡礼の旅をしていたのです。サンティアゴ巡礼が盛んだった12世紀は、ヨーロッパでロマネスク芸術が花開いた時期でもありました。サンティアゴ巡礼の道を通ってスペインにやって来た人の中には、教会や修道院の建築に携わった石工もいて、彼らもその建造に貢献しました。

ちなみに現在、サンティアゴ巡礼の道は複数形で語られますが、この時代は、サンティアゴ巡礼の道と言えばソンポートとロンセスバジェスからサンティアゴへと至るルートのことを指していました。

サンティアゴ(聖ヤコブ)の遺骸が無くなった⁈

最盛期の12世紀をピークに、やがて少しずつ巡礼の旅のフィーバーぶりも下火になっていきました。その理由としては、14世紀に起こったペストの流行、16世紀の宗教改革、ヨーロッパ各地での戦争、18世紀の啓蒙主義と合理主義等が挙げられていますが、その中でも興味深いものの一つとして、1589年にサンティアゴ大司教が行ったサンティアゴ(聖ヤコブ)の遺骸の秘匿があります。イングランドと戦っていたスペインは戦いに敗れ、フランシス・ドレイク率いるイギリス海賊にサンティアゴ(聖ヤコブ)の遺骸を略奪されてしまうことを恐れたサンティアゴ大司教は、その遺骸を隠すことを命じます。そして、なんと1879年まで約3世紀にわたり隠され続け、これにより巡礼路の魅力は低下してしまったというのが、巡礼の旅を下火にした理由の一つなのです。実は、隠され続けたというより、一体どこに遺骸を隠したのか忘れてしまって300年もの間紛失状態にあったというから驚くやら、笑っちゃうやらです。さらに、1879年1月29日の夜にサンティアゴ大聖堂の中から見つかったというからまるで小説に出てくるようなオチです。でも、ちょっとスペイン人ぽいかもとも思ってしまいます。(笑)

とにかく、サンティアゴ(聖ヤコブ)は亡くなった後、約8世紀もの間その墓がある秘密の場所が忘れ去られ、さらには、約3世紀に渡り遺骸の隠し場所が分からなくなっていたという、秘密にしすぎて2度もどこにあるのか分からなくなったという笑うに笑えないような運命を背負うことになりました。

サンティアゴ大聖堂の内庭回廊(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

再び巡礼の旅がブームに!

そして、1980年代末からスペインで始められた現在のサンティアゴ巡礼の復興によって、現在、再び巡礼ブームが起きています。

12世紀の巡礼と比べるとかなり異なる形となっていますが、世界中から様々なサンティアゴ巡礼の道を歩く人たちがいます。ちなみに、昨年の最も多い外国人巡礼者はアメリカ合衆国から来た人達で約4,4万人にも上ります。次いでイタリアからの巡礼者が約2,7万人だそうです。スペイン国内からは約28万人がサンティアゴ巡礼をしました。最近は、中国、韓国、そして日本からもサンティアゴ巡礼をする人が増えてきているとのことです。(ウエブサイト「Ven a Galicia」より)

サンティアゴ巡礼をする人たちの目的

昔の巡礼者のように宗教的な意味だけでサンティアゴ巡礼をするのではなく、キリスト教という宗教を超えて、自分の内面と向き合う、都会の喧騒から離れ自然の中に身を置く、他の巡礼者の人達との出会いを楽しむ、文化的・歴史的なものを学ぶ等々、様々な理由から巡礼の道を歩く人が増えているそうです。きっと、巡礼の動機は巡礼者の数だけあるのでしょう。

私が歩いた30年以上も前には、「サンティアゴ巡礼をすると一生の伴侶に出会える」という話もよく聞きました。実際に、私の周りでもサンティアゴ巡礼をする前は単なる友人だった人が、一緒に長い間歩き貴重な体験を共有することによって、サンティアゴ・デ・コンポステーラに着くころには、お互いに惹かれ合う存在になり、結婚した人もいます。そういう私もその中の一人です。(^^♪

サンティアゴ・デ・コンポステーラにある市場(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

今年も多くの国からサンティアゴへの巡礼者が

去年、巡礼者の数の記録更新がなされましたが、今年も多くの巡礼者がサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す旅に出かけていきそうです。個人的な挑戦、文化への探求心、自然との触れ合い、精神的な旅等、色々な目的を抱え、色々な国からたった一つの目的地を目指してただひたすらに旅していく。2000年も前に亡くなったサンティアゴ(聖ヤコブ)の遺骸を収めてあるサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を目指して、灼熱の太陽の下のサンティアゴ巡礼の道(フランスの道)や雨風の悪天候の中の北の道、アップダウンでかなり過酷なプリミティボの道をもろともせず旅をするというこの経験は、一生に一度はやってみる価値がある体験だといえるでしょう。

スペイン人だけではなく、同じゴール地点を共有する多様な文化の人達との出会いもきっとかけがえのない貴重な体験となることでしょう。一つの旅の形としてサンティアゴ巡礼の道を旅してみるのも一興かもしれませんね。巡礼の仕方は人により様々ですが、徒歩が一番多く、自転車や少数ながら車いすや中世のように馬やロバを使う人も見られます。歩くのが大変でも、巡礼の道をなぞって車や列車で旅していくことも楽しいかもしれません。サンティアゴ巡礼の旅をしてみませんか。