3月は有名なバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」の月です。クライマックスの3月19日に向けて、今現在、様々な催し物や出店や屋台で賑わっているバレンシア。実はこのお祭りでは、バレンシア地方のとても豪華で美しい民族衣装をお目にかかれるチャンスです!
今回は、バレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」に華を添える民族衣装と切っても切れない関係がある絹の生産について、バレンシアの絹の歴史などを見ることができる「シルク博物館(Museo de Seda)」について紹介します。
西の果てスペインと東の果て日本での絹
絹の起源は中国で、紀元前6000年とも紀元前3000年とも言われています。蚕や絹製造技術は門外不出で中国は長い間独占的に絹を海外へ輸出していました。日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたといいます。ただし、品質は中国絹にははるかに及ばなかったそうです。(参照: ウイキペディア)
ヨーロッパに絹製造技術が伝わったのはもっとずいぶん後のこと。6世紀から7世紀にかけて、二人の修道士が繭を隠し持ってビザンツ皇帝ユスティニアヌスの宮廷に乱入したという伝説が残っています。中国で何世紀もの間にわたって門外不出であった繭が持ち出され、その絹製造の秘密が東ローマ帝国に漏れてしまったので、中国以外の国でも絹製造が発達するのは時間の問題でした。そして、モンゴル、ペルシャ、アラビア、シリア、トルコ、北アフリカを結ぶ全域に広がり、徐々にヨーロッパに到達していきました。地中海に養蚕を伝えたのはアラブ人で、9世紀にはコルドバやグラナダ、その後トレドやバレンシアを経由してイベリア半島に到達しました。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)
バレンシア地方では15世紀から盛んに養蚕が行われ、絹を生産し、絹製品を作り出していました。18世紀から19世紀にかけてバレンシア地方での重要な経済活動の中心だった絹工業は、この街に大きなな富を生み出しました。前述したスペインの三大祭りの一つバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」でみられる「火祭り(ファージャス)の衣装(Traje de fallera)」は、この頃に今のような衣装になったようです。
一方日本では、200年以上も続いた鎖国が終わり、19世紀には絹貿易も開始されました。丁度、フランスやイタリアで蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足していた事もあり、瞬く間に蚕種や生糸は最大の輸出品になりました。これが日本の蚕糸業の飛躍の始まりでした。大正時代、第1次世界大戦後のアメリカの経済は益々発達して絹の需要が高まり、わが国の蚕糸業は空前絶後の黄金時代を迎えました。この頃、全国平均で農家の約4割が養蚕を行っていました。(「富岡製糸場と絹産業遺産群」ユネスコ文化無形遺産ホームページより)
バレンシアでは民族衣装を、日本では着物や帯というそれぞれ美しい絹製品が用いられています。丁度1年前の2022年2月には31着の着物がこの博物館で披露されていました。展示されていた着物を見たい方はこちらをどうぞ。(https://www.museodelasedavalencia.com/exposicion-kimono/) 私たちがバレンシアの豪華な民族衣装にため息をつくように、日本の美しい着物や帯はきっとスペインの人達を魅了したことでしょう。
バレンシアのシルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda -バレンシア語では Col·legi de l’Art Major de la Seda)
現在の「シルク博物館」は、バレンシアの「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の建物を修復したものです。この「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の前身だった「ビロード織物師組合 (Tejedores de terciopelo-バレンシア語では Gremi de Velluters)」は1479年に発足しました。これは、一部の生産者の品質不足により生じた対立から、バレンシアの絹織物生産の基準を統一する必要があったからです。そして、1479年2月16日にギルドの最初の条例が承認され、これらの条例はカトリック王フェルナンドによって1479年10月13日に公式に批准され、その後、1686年にはカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされました。
「ベジュテルス(Velluters)」と呼ばれるビロード織職人がたくさん住んでいた地区が、今でも同じ名前の地区名でバレンシアの市内に残っています。そこにカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされた組合の建物があります。建物自体は15世紀建築のバロック様式で1981年には国の歴史・芸術遺産に指定されますが、長い年月の間にすっかり廃れた状態にあったこの建物は大掛かりな修復工事が行われ、2016年に「バレンシア シルク博物館」として生まれ変わりました。
スペイン語ですが、バレンシア シルク博物館に至る修復工事プロジェクトについての動画を見たい方はこちらをどうぞ。修復される前の建物の様子が分かり、興味深い動画です。
ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史的アーカイブ
「シルク博物館」の中には、ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史を知ることができる歴史資料室があります。48枚の羊皮紙、660冊の書籍、97個のアーカイブボックスからなり、5世紀以上にわたって保管されてきました。その中には、ギルドの歴史や条例、議事録、親方・職工・徒弟の帳簿、工場や店の管理・検査に関する帳簿などが含まれています。興味深いことには、規格に適合しない布地を没収して焼却するという検査業務もあり、ギルドは絹製品の品質管理、品質保証も担っていました。
「シルク博物館」のアーカイブは、15世紀から20世紀末までのバレンシア経済の変遷を研究する基礎資料の一つとして重要視されています。特に、15世紀バレンシアの商業や社会構造、そして当時の交易路や条約とのあらゆる関係を理解することに重要な役割を果たしています。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)
また、18世紀後半のバレンシア市内の人口は10万人程でしたが、バレンシアのシルクアート組合は約4万人の人達に仕事の機会を与えていたので、人口の4割の人が絹産業に携わっていました。
美しいバレンシアの民族衣装と博多織
個人的な話で恐縮ですが、昨年日本に里帰りした際、福岡の博多を訪れる機会がありました。そして、「博多町家ふるさと館」という博多の伝統工芸を紹介する博物館に行った際、博多織の実演を見ることができました。
興味のある方は、こちらでも見れます。
バレンシアの「シルク博物館」では、ベジュテルと呼ばれるビロード織の実演を見ることはできませんでした。というのも、昨年2022年に「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏が他界したため、もう2度とバレンシアの伝統工芸ビロード織の実演を見ることができなくなったからです。本当に残念なことです。
スペイン語では、ビロード織のことを「テルシオペロ(terciopelo)」と言います。「テルシオ(tercio)」は「3番目」、「ペロ(pelo)」は「毛」のことを意味するスペイン語です。説明によると、3番目の糸を切って毛羽立たせていく技術を使ってビロード織は織られていくので、この名前がついたそうです。3本ごとに一本一本手作業で糸を切っていきながら生地を織っていく様子を想像すると気が遠くなりました。1枚のドレスを作るのに2ヵ月かかり、その値段は20万ユーロ(現在日本円で約280万円)もするのも納得いきます。
「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏の動画です。繊細な作業の様子が見て取れます。
バレンシアの「シルク博物館」では、繭から糸を紡いていく実演を見ることができました。実演していたスペイン人の方が色々な説明をして下さり、興味深く学び多いものとなりました。
2~3㎝の一つの繭からなんと、1000メートルもの絹糸が取れるそうです‼驚きました。一つの繭は1本の糸からできていて、その長さは1000~1500メートルに及び、天然繊維で唯一の長繊維です。そして、その糸の太さは、髪の毛の約10分の1という超極細糸です。
絹糸を作るには以下の3つの工程(Tres baños)から成っています。
第1工程(Primer baño)繭を湯に漬けた状態で一本一本の糸を取り出していきます。
第2工程(Segundo baño)セリシン(sericina)を取り去ります。セリシンとは、蚕が絹の生産の際に作るタンパク質で、セリシンが残っている状態では肌触りが硬いので、糸にする際にお湯で煮て表面のセリシンを落とす精錬作業を行います。
第3工程(Tercero baño)染色します。
この3工程を経ることにより、手触りがざらざらした糸から心地よい手触りの糸へと変わっていくのです。そして、ここでは、各工程ごとの糸を実際に触らせてくれます。繭も触ることができて、初めての体験を楽しみました。子供さんたちと一緒に行っても、学習体験型の思い出多い博物館見学となること間違いなしです!
19世紀の機織り機が置いてありますが、この機織り機は博多織の機織り機と瓜二つのものでした。いわゆる紋紙と呼ばれる織物の模様に応じて穴をあけた紙を用いて織るものです。
染色の材料となるもの
さて、絹糸の染料に使われる材料となるものは色々ありますが、私の目を引いたのは紫がかった赤色、赤紫色(púrpura)です。ヨーロッパでは高貴な色、貴重な色として重用されていましたが、贅沢や権力を表現する色としても扱われてきました。その染料の原料は、スペインカナリア諸島でとれる巻貝です。貝から染料を取る技術を開発したのはフィニキア人だったようで、ローマ時代からカナリア諸島のイスロテ・デ・ロボスという島へこの貝を採りに行っていました。この巻貝からとれる僅かな染料からあのゴージャスな赤紫色(púrpura)が作り出されていたのです。
日本では「貝紫染め」と呼ばれていて、「草木染め」と比べあまり一般的ではありませんが、現在独自の技術で「貝紫染め」を行っている工房があります。宮崎県にある「綾の手紬染織工房」です。興味深い内容ですのでこちらをどうぞ。
https://www.ayasilk.com/workshop/royal_purple.html
シルク博物館内の説明文によると、中世に染色技術が完成の域に達したのはユダヤ人染色家たちのお陰ったらしく、15世紀にバレンシアにやってきたジェノバ人の絹織物職人がこの染色のやり方を伝えたものと考えられています。当時一般的だった染料は、次のようなものでした。
赤紫色(púrpura)-貝
黒(negro)-ブナ科の植物の若芽が変形し瘤になった没食子(もっしょくし、agallas de roble)、クルミ(nuez)、アーモンド(almendra)、漆(zumaque)等
深紅色(rojo carmesí)-コチニールカイガラムシ(cochinilla)、ケルメス(虫 quermes)
黄色-サフラン (azafran)、エニシダ (retama de tintoreros) 等
青色 (azúl)-ホソバタイセイ(hierba pastel)、インディゴ (indigo)
本当に様々な材料を使って生地を染めていたようです。染料について草木染め以外には知識がなかったので、貝や虫、クルミや虫こぶなどの没食子なども染料として使っていたことは、新鮮な驚きであり、人間の知恵の奥深さを感じさせられました。
最後に
日本の民族衣装「着物」もバレンシアの民族衣装も、中国から渡ってきた絹の技術に端を発し、独自の形に発展してきたことに興味をそそられました。西と東の端の国で経済的にも文化的にも重要な位置を占め、そこに住む人々に対して多大な影響を与えた「絹」が紡ぐ物語を知ることができたバレンシアの「シルク博物館」は、訪れる価値のあるものでした。
バレンシアは「絹」と共に成長した街で、他にも絹の商品取引所で世界遺産にもなっている「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(La Lonja de la Seda)」は必見です。
バレンシアを訪れる際は、「シルク博物館」に是非立ち寄ってみてくださいね。
バレンシアの「シルク博物館」情報
住所:オスピタル通り7番地(Calle Hospital, 7)
電話:(34)697 155 299 / 96 351 19 51 E-mail:reservas@museodelasedavalencia.com
開館時間:火~土 10:00~19:00 日曜日 10:00~14:30 *月曜日は休館 入場料:8€ 学生(国際学生証必要) 7€ 無料-12歳までの子供 特別パス(シルク博物館+サン・ニコラス教会+サントス・フアネス教会) 12€
参考
・バレンシアの「シルク博物館」の公式サイト。
https://www.museodelasedavalencia.com/
・富岡製糸場と絹産業遺産群
https://worldheritage.pref.gunma.jp/tomikinu/index.php/silkindustry/
・バレンシア州制作の「バレンシアのシルクロード」の公式サイト。
https://ruta-seda.comunitatvalenciana.com/ruta-seda
・「博多町家」ふるさと館の公式サイト。福岡に行かれた時は是非お寄りください。
https://www.hakatamachiya.com/
・スペイン観光公式サイト。
https://www.spain.info/ja/supein-tankyuu/barenshia-ruto-shiruku/
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