歴史の街トルデシージャス(Tordesillas)

首都マドリードから車で北西180㎞に歴史の街トルデシージャス(Tordesillas)はあります。バジャドリード県にある人口約8000人(2024年)の街には、長く複雑な歴史が詰まっていて、ビックリさせられます。

夕方のトルデシ―ジャス(写真: ウィキペディア・ドメイン)

スペインとポルトガル間で取り決められたデマルカシオン(demarcación)

デマルカシオン(demarcación)という言葉を聞いたことがありますか?これは、「境界、画定された土地」等という言う意味のスペイン語ですが、歴史的には大航海時代、新大陸でのスペインとポルトガル間の国境線を確定したものを指します。この境界-デマルカシオン(demarcación)-を定めた条約をこのトルデシ―ジャスの街で結んだことにより、この条約は「トルデシ―ジャス条約(Tratatdo de Tordesilas)」と呼ばれていますが、「トルデシ―ジャス条約(Tratatdo de Tordesilas)」に関する資料などを集めて説明した博物館が街にはあります。

コロンブスが新大陸に向かった最初の航海時のキャラベル船ピンタ号(La Pinta)の模型(写真: 筆者撮影)

博物館の中の説明では、

「トルデシ―ジャス条約の要点は、大西洋に極から極までの境界線を引いたことである。ポルトガルは、カーボべルデ岬諸島の西に370レグア(約2000km)を設定することを望んだが、この要求は、カスティーリャ地域を侵略することなくアフリカのラ・ミナ要塞から帰還する必要性によって正当化された。厳しい議論の末、この提案はカスティーリャ王国の君主たちに受け入れられ、交渉は終了した。和平が双方によって調印されると、代表者たちはさらに、ローマ教皇が合意した条件を確認し、100日以内に両国の国王が、羊皮紙に鉛の印章と君主の自筆署名が押された厳粛な文書によって条約を承認し、批准することを願った。ポルトガル側は、王位継承者であるドン・ファン皇太子もカスティーリャ王国の証書に署名するよう要請し、これを取り付けた。」

とありました。

1545年スペイン人ペドロ・デ・メディーナ(Pedro de Medina)が書いた、初めての「航海術」に関する本。その中には、良い航海に必要で、知っておくべきすべての規則、宣言、秘密、警告が含まれていました(写真: 筆者撮影)

つまり、本条約によって、2国間が勝手にカーボべルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められたという内容です。これによって現在のブラジルはポルトガル領に、それ以外の南米はスペイン領になり、今でもブラジルではポルトガル語、それ以外の南米の国々はスペイン語を話しているという訳です。

1494年6月7日、トルデシージャズの街でスペイン君主代表とポルトガル王ジョアン2世の間で調印された条約の批准を記した文書。(写真: 筆者撮影)

ちなみに、条約証書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録されています。

サンタ・クララ王立修道院(Real Monasterio de Santa Clara)

1931年に国の文化財に指定されたこのサンタ・クララ王立修道院(Real Monasterio de Santa Clara)は、ムデハル様式のファサード、アラブ様式の浴場、ゴシック様式の礼拝堂等、12世紀から18世紀までの様々な様式の集合体です。1363年に修道院として生まれ変わるまでは、宮殿として使われていました。この宮殿は、ムデハル様式の建築でした。

アラブ様式の中庭(Patio árabe)の美しい柱と漆喰装飾(写真: 筆者撮影)

イスラム教徒の支配を800年にも亘り受けてきたスペイン特有の芸術にムデハル芸術があります。これは、イベリア半島のキリスト教王国で発展した芸術様式で、イスパノ=イスラム様式の影響や要素、素材を取り入れたものです。(ウィキペディア参照)

イスラム様式の建物の壁には磔刑のキリストの絵が描かれていました(写真: 筆者撮影)

イスラム様式の影響を受けた宮殿には、アラブ様式の浴場がありました。今も、その浴場が残っていて見学することができました。

アラブ様式の浴場ではイスラム建築でよくみられる星型の明かり窓が印象的(写真: 筆者撮影)

サンタ・クララ王立修道院(Real Monasterio de Santa Clara)で絶対に見てほしいものは、黄金礼拝堂です。その素晴らしい天井装飾には思わず息を呑みました。こんなに素晴らしい芸術品が小さな街トルデシ―ジャスに、あまり知られることもなく存在していたことに驚嘆しました。実際、一緒に訪れたスペイン人友人のうち、誰もこの至宝のことを知っている人はいなかったのです。とにかく、礼拝堂に入ったらまるで別世界へ来たような感覚を覚えました。

緻密な天井装飾は見応え十分!!(写真: 筆者撮影)

幽閉された狂女王フアナ

スペイン史で最も有名な女性の一人に「狂女フアナ(Juana la Loca)」と呼ばれる王女がいます。プラド美術館にあるフランシスコ・プラディージャ・イ・オルティス(Francisco Pradilla y Ortiz)の絵画「狂女フアナ」を思い出す方もいらっしゃることでしょう。

「狂女フアナ(Juana la Loca)」フランシスコ・プラディージャ・イ・オルティス(Francisco Pradilla y Ortiz)(Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado)

カスティージャ王国のイサベル女王を母に、アラゴン王国のフェルナンド王を父に持つフアナは、1479年に第2王女として生まれました。そして17歳の時にハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男ブルゴーニュ公フィリップと結婚しました。「端麗公フィリップ」と呼ばれるほどのハンサムな彼に一目ぼれしたフアナと、今まで見てきた女性とは全く異なるタイプのフアナにすぐに惹かれたフィリップは、最初こそ上手くいっていったものの、浮気っぽいフィリップの不実を敬虔なカトリック信者として育てられてきたフアナには許すことができず、人目も気にせず嫉妬するようになり、フィリップの手に余る妻となっていきました。更には、フィリップの心はフアナから離れていき、夫への猜疑心へ駆られ、次第にフアナの精神状態は不安定になっていきました。

端麗公フィリップとフアナ (ウィキペディア・ドメイン)

そんな中、兄フアンそして姉イサベルとその子供ミゲルの早世によって、フアナは王位継承順位が1位となりました。しかし、夫との関係の中で精神異常が顕著となり、更には母イサベル女王の崩御によってカスティージャ王国の女王に即位したものの、夫の突然死により決定的にフアナの精神状態は破壊されてしまいます。そんなフアナを見た父フェルナンド王は、フアナにはカスティージャ王国とアラゴン王国の女王には到底相応しくないと考え、フアナを排除するに至ります。実際には、女王フアナとフアナの長男カルロス1世を、名目上の共同統治者としたのです。但し、フアナはトルデシ―ジャスの街の館に幽閉されてしまいます。そして、なんと約40年という長い年月を館に幽閉されたまま、1555年、76歳の生涯を終えます。

因みに共同統治者であった長男カルロス1世は、最後の神聖ローマ皇帝カール5世 のことで、日本ではこちらの名前の方が有名かもしれません。

こんな人生を送ったフアナですが、何故「狂女」と呼ばれるようになったかというと、様々な異常な言動があった中で、最愛の夫の死に直面して取った行動が決定的となったと思われます。それは、夫の埋葬を許さず、棺を運び出し、数年間各地を放浪して周った奇怪なものでした。前述したフランシスコ・プラディージャ・イ・オルティス(Francisco Pradilla y Ortiz)の「狂女フアナ」の絵の通り、喪服に身を包んだフアナは気が狂うほど愛していた夫フィリップの遺体を収めた棺をお付きの者たちに担がせ、自分は身重であったにもかかわらず、歩き回る生活を送っていたのです。そしてその途中で、最後の子供を産むのです。一般的には、グラナダに向かっていたと言われていますが、目的地に着くことはなく、前述した通り、父フェルナンド王に捕らえられ生まれた娘と共にトルデシ―ジャスの街に幽閉されてしまいました。

「娘のカタリナ王女とともにトルデシーリャスに幽閉される狂女フアナ王妃(La reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la infanta Catalina)」フランシスコ・プラディージャ・イ・オルティス(Francisco Pradilla y Ortiz)(Copyright de la imagen ©Museo Nacional del Prado)

悲哀を誘うことの一つに、フアナは、正式には崩御するまで退位を拒み、幽閉の身でありながら女王であり続けたことです。そして、公式文書に署名する際、最後まで「我、女王(Yo la reina)」の言葉を添えてサインしていたことです。そのことから、今もフアナは実は狂っていたわけではなく、狂っているふりをしていただけではないか、という説もあります。確かに、フアナが唯一育てた最後の娘カタリーナには、きちんとしたプリンセスとしての教育をし、カタリーナは成長した後ポルトガル王に嫁いでいくことになります。そして、ポルトガルで王を支え、積極的に政治に関与する重要な存在となったことを鑑みると、少なくとも完全に狂っていたわけではなかったかもしれません。権力の座から引きずりおろされた政治的な犠牲者だったのかもしれません。

トルデシ―ジャスの街にあるフアナの像。ここには、「カスティージャ王国の王女」と記されている(写真: 筆者撮影)

歴史好きの人にはこの街は興味深いものになると思います。現在も南米の文化圏を二分するその起源が、この小さな街で取り決められたことも今のトルデシ―ジャスの街を歩いていると不思議な気持ちにさせられました。

参考

・サンタ・クララ王立修道院(Real Monasterio de Santa Clara)公式サイト英語版です。

https://www.patrimonionacional.es/en/visita/royal-monastery-santa-clara-tordesillas