以前から訪れてみたかった、大西洋に面して建っているガリシア州にあるオイアのサンタ・マリア修道院 (Monasterio de Santa María de Oia)が、2026年は夏の間(7月と8月)だけガイドの説明付きで一般公開されていると聞き、訪ねてみることにした。

教会の裏側から望む(写真: 筆者撮影)

大西洋の波打ち際に佇む修道院

海岸沿いに建てられた修道院と言えば、フランスのモン・サン・ミッシェル修道院が一番最初に頭に浮かんでくる。まるで海に浮かぶモン・サン・ミッシェル修道院とは異なるが、海辺沿いに建てられた修道院としては、スペインではサンタ・マリア・デ・オイア王立修道院 (Monasterio de Santa María de Oia)が唯一無二のものだろう。

確かに、大西洋のビスケー湾にある「岩山の城」と呼ばれる島の上に佇むガステルガチェのサン・フアン礼拝堂(Ermita de San Juan de Gaztelugatxe)はあるが、これは人里離れた場所に建てられた礼拝堂(Ermita)であり修道院ではないので、矢張りスペインの中で海辺に佇む修道院は珍しいものだ。

そして、サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院は、この周辺で唯一の投錨できる浜際に建設されている。そのことが、他の修道院とは異なる任務を兼ね備える修道院、数奇な歴史をたどる運命を背負う修道院となった理由でもある。

修道院の目の前には大西洋が広がっている(写真: 筆者撮影)

シトー修道院

サンタ・マリア・デ・オイア修道院 (Monasterio de Santa María de Oia)は12世紀半ばにガリシア王アルフォンソ7世の治世中に創立され、ポルトガル国境まで20㎞程に位置するシトー会修道院だ。11世紀にフランスで始まった修道士の団体シトー会の、世俗から離れ自給自足の厳格な生活を送りながら清貧、労働、祈りの毎日を送るという考えが、スペインガリシア地方に入って来たのは1142年。そして、サンタ・マリア・デ・オイア修道院は1185年にシトー会の修道院として加入している。

11世紀、12世紀は、ヨーロッパ中から聖ヤコブが眠るサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指して、多くの巡礼者達がサンティアゴ・デ・コンポステーラの地を目指した。一番多かったと言われる12世紀には、年間50万人もの巡礼者たちがいたというので、きっと、サンティアゴ巡礼の道(特にフランス人の道)を通って来た人たちによってシトー会の考えが紹介されていったのだろう。

サンティアゴ巡礼の道についてはこちらもどうぞ。

因みに、長い歴史の中で多くの人がサンタ・マリア・デ・オイア王立修道院に立ち寄っているが、イギリスのカンタベリーの聖トマスとして有名なカンタベリー大司教トマス・ベケットも1167年に、ポルトガルの道を通ってサンティアゴ巡礼をした際、オイア修道院を宿にしたことが記録として残っている。

カンタベリー大司教トマス・ベケットについてはこちらもどうぞ。

シトー会修道院というと、華美な装飾を排除し、ロマネスク様式特有の様々な不思議な図像や動物像等が修道士たちの祈りを妨げるとして、そういった装飾は全くない機能性を追求した簡素な造りであることが良く知られているが、ここも例外ではなかった。そして、12世紀に創設され、16世紀に増改築され、更に最終的には18世紀に拡張されたので、建物の建築様式もロマネスク様式、ルネッサンス様式、バロック様式の要素が見られるが、いずれもシトー会の精神を貫く厳格ですっきりとしたものである。

静謐なる祈りの場

訪れた時に買い求めた「オイア王立修道院(Real Monasterio de Oia)」という本を読んでみると、世俗から離れ自給自足をしながら厳格な生活を送り、清貧、労働、祈りの毎日を送る修道士たちの静謐なる祈りの場であるはずの修道院が、その実かなり世俗的であったことが書かれている。修道院創設当時から様々な経済的優遇措置等を受けていたので、他の教会や土地を所有する貴族たちからは妬まれ、はたまた修道院に雇われて働く農民たちからは不満を抱かれていて、13世紀にはかなり頻繁に訴えや反乱等が起きていたことが紹介されている。どうも静かな祈りの生活というイメージからはかなりかけ離れた当時の状況が描かれていて、思わず苦笑してしまった。

修道院の敷地内にある並木(写真: 筆者撮影)

修道院の任務

大西洋の白波が打ち寄せる荒磯にあるこの修道院は、海辺のすぐそばに位置しているという戦略的な立地のため、沿岸防衛においてその長い歴史の中で重要な役割を果たしてきた。明確な歴史的文書等は残されていないが、修道院を建設する以前には、海からやってくる侵入者たちへの防御策として城が建っていたと言われている。実際、修道院の紋章には城が表されており、多くの歴史家たちはその信憑性は高いと考えている。

修道院建設前の9世紀から11世紀にかけては、北から荒くれ者のバイキング達がガリシア地方の沿岸に何度も現れては略奪行為を働いていたことが、様々な文書等に残されている。修道院建設を後押ししたガリシア王アルフォンソ7世自身、サンタ・マリア・デ・オイア修道院の修道士たちにオイアの村人たちの保護や海岸周辺の警備の任務を背負ってくれることを期待していたらしい。その見返りとして様々な特権を修道院に与えていた。

また、周辺の海で遭難した船から救助された船員たちを介抱する役目も担っていたらしい。そのため、この修道院では医療技術や薬草等の薬の技術や医療についての知見が蓄積されていたというから、興味深い事だ。

砲兵としての修道士たち

1624年3月14日、2隻の船が修道院のある沿岸にやって来た。1隻はフランス船、そしてもう1隻はイギリス船だった。2隻の船は、北アフリカに住むベルベル人の海賊たちに追跡されていた。ベルベル人の海賊たちは、フランス船に乗り込み、自分たちの船に繋ぎ、フランス人たちを捕虜にした。それを見た修道士たちは、修道院の下男たちやマスケット銃を持った村人たちと共に、救出に乗り出した。そして、修道院が所有する大砲(砲台が11あったので大砲も11あったのでは、と言われている)を用いて、フランス船と捕虜を乗せたベルベル人たちの船を沈没させるに至った。それによって、8人のベルベル人が捕獲され、残りのベルベル人たちは海の中で溺死したという。一体、フランス人とイギリス人何人が救出されたかは資料に残っていないようなので、詳しい事は分からないが、修道士たちのお陰で少なくとも全滅は避けられたようだ。

更に、約1ヶ月後の4月20日に、今度はトルコ人の海賊が5隻の艦隊を組んで海岸に近づいてきた。この時も、修道士たち自身が砲兵として海賊船に向かって砲弾を次々と打ち、砲弾を打つごとにその砲弾が船の近くに落ちるようになり、遂には2隻の船に命中し沈没させた。修道士たちは、「この砲弾は、オイアの聖母マリアとその息子である我が父聖ベルナルド(12世紀フランスのシトー会修道士)に捧ぐ!!」と叫びながら打ったとか。それにしても、なんと、当時の修道士たちは勇ましかったことか!

これらの業績を称え、当時のスペイン王フェリペ4世は修道院に「王立(Real)」の称号を授与し、サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院 (Real Monasterio de Santa María de Oia)となった。

修道士たちが砲兵として活躍する様子を描いた絵が販売されていた(写真: 筆者撮影)

16世紀と18世紀の増改築工事

12世紀に創立されたこの修道院は、その長い歴史の中で2度の大々的な増改築が行われた。

第1回目の増築工事は16世紀に行われた。これにより修道院の内庭回廊(Claustro procesional)、参事会室(Sala Capitular)、食堂(Refectorio)、そして教会の二階聖歌隊席(Coro alto)が現在の外観になった。内庭回廊の天井は、スペインにおけるルネッサンス様式で均整美が特徴とされるエレリアーノ様式による装飾が施されている。

エレリアーノ様式による装飾は、シトー会の精神に沿ったシンプルな中にも調和と優美を感じさせられる(写真: 筆者撮影)

修道院に入ると階段部分を通るが、積み上げられた石には幾つかの印が見える。ロマネスク様式時代の12世紀にはキリストを表す魚が、ルネッサンス様式の16世紀に増築された部分の石には丸印などが彫られている。ガイドの説明によると、12世紀部分の魚については意味は不明のままだが、16世紀の丸印については、石を積んだ石工達が自分が積んだ石に印を付けることにより、後に工賃として請求するための目印として付けられたのではないかということだった。12世紀の石工達はキリストを表す魚を彫ることにより、自分が積んだ石にキリストの魂が宿ることを祈っていたのだろうか⁈と想像したりしてみた。それにしても16世紀の石工達はもっと実利的だったようだ。

16世紀に建て増しされた壁は、石の大きさが異なっているのが分かる(写真: 筆者撮影)
12世紀の魚印(写真: 筆者撮影)
16世紀の丸印(写真: 筆者撮影)

内庭回廊はつい最近ガイドツアーのコースに組み込まれたらしく、現在、床部分を調査中だという。床部分には有力貴族などの墓があるので、墓の一つ一つを調査した後で、もう一度復元する予定だそうだ。因みに、墓所が教会に近いほど修道院に支払う料金も割高だったらしい。

足場が悪いため入口から覗くだけだったが、なかなか見れない光景だ。シトー会の修道院なのでロマネスク様式の半円アーチには装飾は無かった(写真: 筆者撮影)

内庭回廊の二階にも上ることができた。屋根部分の老朽化がかなりひどく、崩壊してしまわないように改築工事が進んでいるとのことだった。また、二階から内庭回廊を見ると、半円アーチが特徴のロマネスク様式の上に、16世紀にルネッサンス様式の二階を増築したことがハッキリと見て取れる。

慎重な修復工事が続けられている様子を窺い見ることができる(写真: 筆者撮影)
一階部分は12世紀に造られた半円アーチのロマネスク様式、二階部分は16世紀に増築・改装されたルネッサンス様式、そして奥に見える鐘楼塔は18世紀に新たに建築されたバロック様式(写真: 筆者撮影)

第2回目の増築工事は18世紀に行われた。西側のファサード(Fachada oeste)、鐘楼塔(Torre-campanario)、二つの長く伸びる北側歩廊(Galería norte)と南側歩廊(Galería sur)を増築した。また、その二つの歩廊(Galerías)には新たに食堂と台所(Refectorio y Cocina)、酒倉(Bodega)、ブドウやオリーブ等を搾る圧搾場(Lagar)、厩舎(Caballeriza)、看護室(Enfermería)、修道士たち用の個室(Celdas)が造られた。

教会の西側のファサード(Fachada oeste)が現在の外観になった(写真: 筆者撮影)
北側歩廊(Galería norte)。一階全部分は厩舎(Caballeriza)として使用され、二階部分は修道士たち用の個室(Celdas)や本棚(Librería)等があったが、現在は完全に崩壊している(写真: 筆者撮影)
南側歩廊(Galería sur)は保存状態がよく、特に食堂(Refectorio)は展示室として現在使われている(写真: 筆者撮影)

1492年の新大陸発見以来アメリカ大陸から様々な植物がヨーロッパにもたらされたが、トウモロコシもその一つだった。そしてガリシア地方でもトウモロコシ栽培が17世紀に導入されたが、ガリシア地方の土地にこのトウモロコシ栽培は適していた。そのため、修道院があるオイア村でも食糧事情がよくなったそうだ。

そうして18世紀になり、修道院の経済状況は劇的に好転したため、大規模な増築工事が行われた。その当時の建築様式はバロック様式であったので、増築された部分は明らかに異なる様式の建築になっているが、時代時代の様式を取り入れながらもシトー会の精神に沿う装飾が施されているので、ちぐはぐな印象は受けず、全体的な建物の調和がとれていて美しい。

鐘楼塔(Torre-campanario)と右側と左側には長く伸びる北側歩廊(Galería norte)と南側歩廊(Galería sur)(写真: 筆者撮影)

メンディサバルの教会財産の没収

1836年、サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院 (Real Monasterio de Santa María de Oia)は、強制的に修道院として突然の終焉を迎えることになる。それは、スペインのメンディサバル政権下で教会財産が没収され、国有化プロセスが開始されたためであった。何故このようなことが行われたのだろうか。目的は、その当時スペイン国家が背負っていた負債を返済すること、そして、王位継承と政治体制を巡り3度に渡り戦われた内戦であるカルリスタ戦争(Guerras carlistas)の軍資金を調達するために行われたものだった(ウィキペディア参照)。この措置によって、スペイン中の教会や修道院の土地や建物、財産が没収されることになり、と同時に修道士たちは修道院から追い出される運命となった。

サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院は、約700年に亘る修道院としての幕を閉じた。そしてその後、修道士たちの誰一人も想像していなかった運命が待っていた。

強制収容所としての修道院

修道士たちが祈りを捧げることも絶えてしまった修道院は、その後ブルジュワ階級の人達によって購入・売却が繰り返された。しばらく別荘として使用されていた時期やポルトガルから逃れてきたイエズス会の修道士たちの学校として使われた時期もあるが、忘れ去られ、尊敬の念も失われ、打ち捨てられたかのような状態であった。メンディサバルの強制没収を免れた物も略奪され、更には教会に埋葬されていた貴族や僧侶たちの棺桶の蓋石(がいせき)までもが持ち出され、村人たちがリサイクル活用していたという。実際、村の家畜小屋の入口に蓋石が使用されていることが判明し、修道院の改築工事の一環として、その蓋石を埋葬されていた人の棺桶を探して元通りにする予定だということだった。草葉の陰で嘆いていた蓋石の持ち主もやっと安眠できることだろう。

しかし20世紀に入って、もっと陰惨な使用方法がこの修道院には課されることになる。

スペインは1936年7月17日に内戦に突入し、1939年4月1日までこのスペイン内戦は続いた。これは、左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派)とフランシスコ・フランコ率いる右派の反乱軍(ナショナリスト派)の間で戦われた内戦である。(ウィキペディア参照)

そして、サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院は左派の共和国人民戦線政府の囚人たちの刑務所として使用されたのだった。収容された人数は4580人にも上った。この数は、単に人数の多さだけを表すものではなく、修道院の収容できる人数が僅か250名だったことを鑑みると、劣悪な環境状態で収容されていたことが容易に想像できる。この修道院で銃殺された囚人たちは僅かで、多くの囚人たちは飢えと病気によって死亡したと記録されている。囚人たちが残した100枚余りの手記や絵等のうちの幾つかは、歴史の証人として修道院の中に展示されている。

800年前の修道院創始者であった修道士たちの一体誰がこのような使われ方をされることを想像しただろうか⁈ まさに歴史に翻弄された修道院であった。

南側歩廊(Galería sur)の食堂(Refectorio)には、収容されていた囚人たちが残した手記や絵等が展示されている(写真: 筆者撮影)
空腹に苛まれた囚人たちは、食べ物の絵を描くことで想像の中で空腹を満たしていたのだろう(写真: 筆者撮影)
1939年1月12日からこの強制収容所に入れられた囚人だろう。日付と丸形カレンダーが描かれている(写真: 筆者撮影)

最後に

サンタ・マリア・デ・オイア王立修道院 (Real Monasterio de Santa María de Oia)は現在、再建中である。1836年のメンディサバルの教会財産没収により修道院としての活動を終了して以来、前述したように別荘や学校、刑務所としても使用されたが、長い間放置され、保存状態は最悪で、このまま崩れ落ちて朽ち果てていくのではないかと懸念されていた。しかし、2004年11月、修道院から約50㎞程の距離にあるガリシア州で最も大きな街の一つビーゴ(Vigo)を拠点とする企業グループ「バスコ・ガジェガ(Vasco Gallega)」(現在は「グループ・マレ(Grupo MARE)」)が、歴史あるオイア王立修道院を240万ユーロ(約4億5000万円)で買収した。

修道院を再建し、ホテルとして生まれ変わらせる予定だという。ブレタル財団(Fundación BRETAL)を設立し、オイア王立修道院を再建しながら、修道院の歴史等を紹介する本の出版や季節限定の観光ガイド、修道院の敷地内の調査等を行っている。

私が参加したガイドツアーでは、つい最近一般公開されたという内庭回廊を見学出来たり、今年の始めに敷地内の植物が病気になったのでその手当として根元に薬を入れるために土をどかしていたら出てきたという石畳の小道等も見ることができた。現在進行形で行われている再建によって新たに発見されたり、補修されて見学することができる場所が増えたりと、とても興味深いガイドツアーだった。

両脇の木々の病気により新たに発見された石畳の小道(写真: 筆者撮影)
教会横を掘っているとこの写真の様な円形の遺跡が現れた。現在一体何の遺跡なのか調査中だということだった(写真: 筆者撮影)

ブレタル財団の公式サイトに「私たちの目的は、忘れ去られていた有形・無形の文化遺産に再び命を吹き込み、その価値を再評価し、周辺環境と調和させながら、その未来を保証すること」とあるように、朽ちかけていた文化遺産を生き返らせ、忘れ去られていた歴史や当時の営み等に光を当て、後世に伝えていくことの大切さと、国ができなかったことを私企業やその目的に賛同する人達の想いや努力によって偉業がなされつつある現場に、私も身を置くことができたことは幸いだったと痛感した。

参考

ブレタル財団の公式サイト。英語版もある。

https://www.mosteirodeoia.com/