ロマネスクへのいざない (10)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県(7) – ピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)

柱廊のある玄関部分から(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

柱廊のある玄関(Galería porticada)の中から見える風景

キリスト教最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられたこの教会は、12世紀前半に第一期の建設が始められ、半円形の後陣、プレスビテリオ(Presbiterio)と呼ばれる祭壇、正門を含む身廊の最初の二つの部分(主扉を含む)が造られた。12世紀末には、柱廊のある玄関が造られ、最終的には16世紀に教会の拡張並びに修復工事が行われ、塔が造り替えられた。

この教会を見た時、がっしりとした、力強い教会という印象を抱いた。近くにあるハラミ―ジョ・デ・ラ・フエンテ教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora de Jaramillo de la Fuente) のような調和の取れた美しさには欠けるが、柱廊のある玄関の中に入り、そこから見る村は、いくつものアーチとその間に村の家々、山々がある周りの自然が溶け込んだ美しく、心落ち着く風景だった。

ハラミ―ジョ・デ・ラ・フエンテ教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora de Jaramillo de la Fuente)についてはこちらをどうぞ。

教会の入口(Portada)

柱廊のある玄関(Galería porticada)部分に入ると、教会の入口(Portada)がある。半円形の5層から成るアーキボルトは、教会の中へいざなうかのように立体的だ。

自然と教会の中に足を踏み入れたくなるような入口(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

教会が建てられている地形の傾斜のため入口には数段の階段があるが、5層のアーキボルトとこの階段がまるで教会の中の祭壇部分の一点に導いているような錯覚を受ける。

左右の柱頭には様々な彫刻が施されているが、建築当初から柱廊のある玄関(Galería porticada)によって入口(Portada)部分は風雪から守られてきたこともあり、比較的保存状態は良い。900年という歳月を経ていることを考えると保存状態の良さは驚きでもある。

興味深い彫刻としては、石棺に納められた遺体を見守る二人の女性の姿と、それを祝福する教会関係者の姿が三面的に構成されているシーンがある。これは、今も何を表現しているのか議論が分かれているようだ。一説によると聖ニコラウスの生涯の一つのシーンに関連していると言われているが、他の説では地元の伝統的なものを表現しているのではないかとも言われている。(arteguias.com より)

遺体が横たわる石棺を飾る布の襞(ひだ)の表現は素晴らしいものだ。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

他にも保存状態の良い「東方三博士(三賢王)の礼拝」場面を確認することができる。聖母マリアの膝に抱かれ贈り物に興味を抱く幼子イエスを見ると、普通の子供と同じようで微笑ましくなる。贈り物を捧げる博士の後ろで、もう二人の博士が軽い雑談でもしながら順番待ちしている姿も、見る私たちに親近感を抱かせる構図だ。それにしても、まるで自分は関係ないよとでも言いそうな聖ヨゼフはちょっと気になる。

ロマネスクで特に好まれた「三方博士の礼拝」の構図。白髭をたくわえた跪く老人、その後ろに後ろを向く若者、最後が老人でも若者でもない成人男性の姿をした三方博士たち。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

ロマネスクの彫刻によくみられる二つに分かれた尾の部分を握る人魚やその人魚に弓を向けているケンタウロスの姿もある。手元にある「Iconografía y simbolismo Románico」(「ロマネスク 図像と象徴(筆者訳)」 出版社 arteguias)によると、男性を象徴するケンタウロスと女性を象徴する人魚という観点から、生殖性やエロチシズムを表現している。その一方で他の解釈として、罪深いものとしての象徴である人魚に対してケンタウロスが信仰の矢を放つことで、人魚を回心させる役割を担っているという。

ロマネスクの彫刻で人気があった人魚とケンタウロス(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こちらもロマネスクの彫刻によくみられる旧約聖書の中の登場人物として、怪力の持ち主サムソンがいる

怪力サムソンは、古代イスラエル人にとっては英雄的な存在の士師で、髪の毛に力が宿っていた。サムソンは、サムソンの妻デリラに口説かれ、彼の怪力はどこから来るのかを尋ねられて最終的には怪力の秘密を明かしてしまい、デリラに寝ている間に髪の毛を切られて宿っていた力を抜き取られる。こうして金に目がくらんだデリラはサムソンを裏切り、サムソンは敵のペレシテ人達に捕らえられ悲劇的な最期を遂げる。サムソンとデリラを扱った絵やオペラ、小説、映画など多数あるので、ご存じの方も多いかもしれない。

ロマネスクの彫刻では、ライオンにまたがったり、組み伏せたりした長い髪の男として描かれているが、ここでは怪力サムソンがライオンの顎を掴んで倒す場面が描かれている。

狭い柱頭の中に見る人たちがすぐ認識できる構図に上手くまとめられている(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アーキボルトの外側に左右二つの浅浮彫りがある。左側の浅浮彫りは不思議な生き物と何を意味しているのか分からない場面で、これについて言及しているものを見つけることができなかったのは残念だ。マントを羽織った聖職者(?)がまるで1982年のアメリカのSF映画「E.T.」に出てくる迷子の宇宙人そっくり!な生き物に何か与えているようだ。左側にはオオトカゲのような生き物が逆立ちしたような状態で描かれている。うーん、なんとも言えない不思議な場面だ。

謎の多い浅浮彫り。実は聖女ユリアナとドラゴン、そしてもう一つの生物は…?(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

このブログを公開した後、ブルゴスの観光部に別の件で質問した際、つい最近デマンダ連峰にあるロマネスク建築についての動画を youtube にアップしたということでその動画が送られてきた。その動画の中で簡単にアーキボルトの外側にある左右二つの浅浮彫りについて言及されていた。この謎の人物はマントを羽織った「聖職者」ではなく、聖女ユリアナ(Santa Juliana)だと判明。そして、この聖女ユリアナを中世の絵画や教会の中では、翼のあるドラゴンと戦っている姿や足元にドラゴンを従えている姿で描かれているとのこと。(ウィキペディアより)ということは、左側の逆立ちしたオオトカゲのような生き物は聖女ユリアナに服従するドラゴンを表しているようだ。しかし、右側の「E.T.」に出てくる迷子の宇宙人の正体はまだ不明なままなので、今後正体が判明したら報告したいと思う。

ピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)の動画。中も少し見れる。

柱廊のある玄関(Galería porticada)

サン・エステバン・プロトマルティール教会の特徴である柱廊のある玄関(Galería porticada)は、前述したように12世紀末の第2次工事で建てられたものだ。同地方のビスカイノス・デ・ラ・シエラにあるトゥールの聖マルタン教会(Iglesia de San Martín de Tours en Viscaínos de la Sierra)やハラミージョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教会(Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora en Jaramillo de la Fuente)との、様式的な同一性が見られる。これは、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monasterio de Santo Domingo de Silos)の影響を受けているからだという。(arteguias.com より)

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monasterio de Santo Domingo de Silos)についてはこちらをどうぞ。

外から見た柱廊のある玄関。矢張りこの教会の一番美しい部分だろう。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

柱廊部分は、向かって右側(東側)に5つ、左側(西側)には6つ、合計11のアーチから成り、ほぼ中央に入口用のアーチがある。柱頭の装飾は植物の装飾が中心で、アカンサスの葉、パルメットと呼ばれる棕櫚葉文、果実がぶら下がっているものなど、さまざまな種類のものがある。

果実がぶら下がっている植物(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

最後に

この地方には、シエラ派(筆者訳 La escuela de la Sierra)と呼ばれるロマネスクの教会や修道院を造った人たちがいた。「シエラ」スペイン語で「Sierra」は、「(比較的低い)連峰、山脈、山」という意味で、この地方がシエラ・デ・ラ・デマンダ(Sierra de la Demanda)というデマンダ連峰の位置することから由来する名前だ。

このシエラ派の人達が造った興味深く、美しい教会が多数この地方にはある。その上、デマンダ連峰の素晴らしい自然、風景は、教会に興味がない人達をもきっと魅了する所だろう。是非、一度、この地方に足を延ばされることをお勧めする。

参考

ここで紹介したピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にしてほしい。

・ブルゴスの観光サイト。英語もあります。

https://turismoburgos.org/iglesia-de-san-esteban-protomartir-de-pineda-de-la-sierra/

・arteguias のウエブサイト。スペイン語ですが、詳しく説明されています。

https://www.arteguias.com/iglesia/pinedasierra.htm

・デマンダ連峰の観光案内。残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/

・デマンダ連峰にあるロマネスク建築のパンフレット。これも残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/wp-content/uploads/2019/01/FOLLETO-ROMA%CC%81NICO-SERRANO.pdf

参考文献:

-「Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)」出版社:Encuentro Ediciones

– 「Iconografía y simbolismo Románico」 出版社: arteguias)

パスクワ(Pascua)はイースター?それともクリスマス?

今年ももうすぐ聖週間(Semana Santa)が始まります。今年2023年は、4月2日(日)から4月9日(日)の1週間です。スペインに旅行される方に気を付けてほしいのは、4月6日(木)の聖木曜日、7日(金)聖金曜日、8日(聖土曜日)そして9日(復活祭、イースター)の4日間は殆どの職場で休みとなるので、観光地やレストラン、ホテル等混雑することです。また、レンタカーなどで旅行しようとされている方も、交通量がかなり増加するのでご注意くださいね。

アストゥリアス地方ビジャビシオサ(Villaviciosa)の「サンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)」にある十字架にかけられるキリスト(写真:筆者撮影)

パスクワ(Pascua)はイースター?それともクリスマス?

知人から「Pascua」って「イースター」のことだと思っていたけど、クリスマスでも使うの?という疑問を投げかけられ、うーん、そういえば「ナビダ(Navidad)」以外で「パスクワ(Pascua)」も耳にすることがあるな、と今更ながら気づきました。(笑) それ以来、色々調べてみると興味深い内容のことが分かってきたので共有したいと思います。

調べてみると、クリスマスのことも「パスクワ・デ・ナビダ(Pascua de Navidad)」と言うし、主の御公現の祝日(1月6日の三賢王の日)のことも「パスクワ・デ・ロス・レージェス・マゴス(Pascua de Los Reyes Magos)」聖霊降臨の大祝日-復活祭後の第7日曜日-のことも、「パスクワ・デ・ペンテコステス(Pascua de Pentecostés)」と言います。

色んな場面で「パスクワ(Pascua)」という言葉は使われています。

¡Feliz Pascua!¡Felices Pascuas!は、単数形と複数形の違いですが、意味はかなり異なります。

単数形の場合は、復活祭(イースター)のことを表し、「ご復活おめでとうございます!」という意味です。キリストが復活したという聖日曜日(イースター)のミサの後などで使われる挨拶です。複数形の場合は、クリスマスのことを表し、「クリスマスおめでとう!」という意味で使われています。これは、クリスマスの当日だけに使われる言葉ではなく、クリスマス期間中(スペインでは12月24日のイブから1月6日の三賢王の日までずっとクリスマス期間です)には、いつでも使える挨拶です。

以上の通り、パスクワ(Pascua)はイースターでもあり、クリスマスでもあるのです。

サラマンカ新大聖堂にある東方三博士の礼拝(写真:筆者撮影)

パスクワ(Pascua)の語源は?

こんなにいろんな場面でパスクワ(Pascua)という言葉が使われていますが、語源は何でしょうか?

手元にある「Breve Diccionario Etimológico de la Lengua Castellana」というカスティジャー語の簡易語源辞典には、『ヘブライ語のPESACHA ído.、propte.の変形に由来し、ギリシャ語を経て、ラテン語のPASCHAから。【通過、移動】、ユダヤ人がエジプトからの脱出を記念する祭事である。スペイン語では、ラテン語のPASCUA、PASCUUM「動物の食べ物」の複数形(イースターの断食が終わったことによる混乱)の影響を受けて、この言葉が変化した。』と書かれています。

Pascua, 1090. Del latin, PASCHA, que por conducto del griego, procede de una variante del hebreo PESACHA ído., propte. “paso, tránsito”, fiesta con que los judíos conmemoraban la salida de Egípto. En castellano el vocablo se alteró por influjo del latin, PASCUA, plural de PASCUUM “alimento de los animales” (confisión sugerida por la terminación de los ayunos en Pascua).

旧約聖書の「出エジプト記」の中に、預言者モーセが、エジプトで奴隷として虐げられていたユダヤの民を脱出させたことが書かれています。エジプトのファラオが、脱出中のモーセとユダヤ人たちを捕えるために大軍を送りますが、モーセが海を割って道を作り無事脱出します。追ってきたエジプトの軍隊も道を通って海を渡ろうとしますが、再び海水が戻りエジプトの軍隊は海に飲み込まれてしまいます。これが有名な「モーセの海割り」の場面です。本や映画などで見聞きしている方も多いかと思います。このエジプト脱出をお祝いした祭りのことを指しています。

それにしても、このユダヤ教のお祭りが起源の言葉「パスクワ(Pascua)」が何故キリスト教で「クリスマス」や「復活祭」、そして「三賢王の日」や「聖霊降臨」の日にも使われるようになったのかは、まだ理解できませんよね。

カスティージャ・イ・レオン地方ブルゴス県のサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院にある
聖霊降臨(Pentecostés)の浅浮彫り (写真: アルベルト・F・メダルデ)

納得できたパスクワ(Pascua)の語源はこれ!

どうも納得できない私は、高名な神父(レオン大聖堂の前オルガン奏者のサムエル神父)にパスクワ(Pascua)の意味を尋ねてみました。すると、次のような答えが返ってきました。

パスクワ(Pascua)には、もともと食事、食べ物、宴会などの意味があった。祭事に欠かせないのは食事、宴会。それが「お祝い事」という意味に発展していき、キリスト教の中でのお祝い事に使われる言葉となった。だから、おめでたい事のみに使われる言葉で、例えば、キリストが死んだ聖金曜日などは、Pascua とは呼ばない。

確かに、前述したパスクワ(Pascua)の意味をもう一度見てみると、全てキリスト教にとっておめでたいことに使われ、「クリスマスのお祝い」「主の御公現(三賢王)のお祝い」「聖霊降臨のお祝い」、「復活のお祝い」という意味でパスクワ(Pascua)が使われていることが分かります。

クリスマス-「パスクワ・デ・ナビダ(Pascua de Navidad)」

復活祭-パスクワ・デ・レスレクシオン (Pascua de Resurrección)

主の御公現の祝日(1月6日の三賢王の日)-「パスクワ・デ・ロス・レージェス・マゴス(Pascua de Los Reyes Magos)

聖霊降臨の大祝日(復活祭後の第7日曜日)-「パスクワ・デ・ペンテコステス(Pascua de Pentecostés)

これで、私もすっきりと納得できました!

2000年以上前の言葉の語源になるのでどこまで真実かはわかりませんが、この理由が一番しっくりする語源でした。それにしても、ユダヤ教とキリスト教の切っても切れない繋がりを感じさせられた一語でした。

レオン大聖堂(写真:筆者撮影)

バレンシア シルク博物館(Museo de Seda)-絹が紡ぐ物語 西へ東へ 

3月は有名なバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」の月です。クライマックスの3月19日に向けて、今現在、様々な催し物や出店や屋台で賑わっているバレンシア。実はこのお祭りでは、バレンシア地方のとても豪華で美しい民族衣装をお目にかかれるチャンスです!

今回は、バレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」に華を添える民族衣装と切っても切れない関係がある絹の生産について、バレンシアの絹の歴史などを見ることができる「シルク博物館(Museo de Seda)」について紹介します。

「シルク博物館」の入口(写真:筆者撮影)

西の果てスペインと東の果て日本での絹

絹の起源は中国で、紀元前6000年とも紀元前3000年とも言われています。蚕や絹製造技術は門外不出で中国は長い間独占的に絹を海外へ輸出していました。日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたといいます。ただし、品質は中国絹にははるかに及ばなかったそうです。(参照: ウイキペディア)

ヨーロッパに絹製造技術が伝わったのはもっとずいぶん後のこと。6世紀から7世紀にかけて、二人の修道士が繭を隠し持ってビザンツ皇帝ユスティニアヌスの宮廷に乱入したという伝説が残っています。中国で何世紀もの間にわたって門外不出であった繭が持ち出され、その絹製造の秘密が東ローマ帝国に漏れてしまったので、中国以外の国でも絹製造が発達するのは時間の問題でした。そして、モンゴル、ペルシャ、アラビア、シリア、トルコ、北アフリカを結ぶ全域に広がり、徐々にヨーロッパに到達していきました。地中海に養蚕を伝えたのはアラブ人で、9世紀にはコルドバやグラナダ、その後トレドやバレンシアを経由してイベリア半島に到達しました。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)

バレンシア地方では15世紀から盛んに養蚕が行われ、絹を生産し、絹製品を作り出していました。18世紀から19世紀にかけてバレンシア地方での重要な経済活動の中心だった絹工業は、この街に大きなな富を生み出しました。前述したスペインの三大祭りの一つバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」でみられる「火祭り(ファージャス)の衣装(Traje de fallera)」は、この頃に今のような衣装になったようです。

一方日本では、200年以上も続いた鎖国が終わり、19世紀には絹貿易も開始されました。丁度、フランスやイタリアで蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足していた事もあり、瞬く間に蚕種や生糸は最大の輸出品になりました。これが日本の蚕糸業の飛躍の始まりでした。大正時代、第1次世界大戦後のアメリカの経済は益々発達して絹の需要が高まり、わが国の蚕糸業は空前絶後の黄金時代を迎えました。この頃、全国平均で農家の約4割が養蚕を行っていました。(「富岡製糸場と絹産業遺産群」ユネスコ文化無形遺産ホームページより)

バレンシアでは民族衣装を、日本では着物や帯というそれぞれ美しい絹製品が用いられています。丁度1年前の2022年2月には31着の着物がこの博物館で披露されていました。展示されていた着物を見たい方はこちらをどうぞ。(https://www.museodelasedavalencia.com/exposicion-kimono/) 私たちがバレンシアの豪華な民族衣装にため息をつくように、日本の美しい着物や帯はきっとスペインの人達を魅了したことでしょう。

プリント用の意匠(写真:筆者撮影)

バレンシアのシルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda -バレンシア語では Col·legi de l’Art Major de la Seda)

現在の「シルク博物館」は、バレンシアの「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の建物を修復したものです。この「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の前身だった「ビロード織物師組合 (Tejedores de terciopelo-バレンシア語では Gremi de Velluters)」は1479年に発足しました。これは、一部の生産者の品質不足により生じた対立から、バレンシアの絹織物生産の基準を統一する必要があったからです。そして、1479年2月16日にギルドの最初の条例が承認され、これらの条例はカトリック王フェルナンドによって1479年10月13日に公式に批准され、その後、1686年にはカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされました。

「ベジュテルス(Velluters)」と呼ばれるビロード織職人がたくさん住んでいた地区が、今でも同じ名前の地区名でバレンシアの市内に残っています。そこにカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされた組合の建物があります。建物自体は15世紀建築のバロック様式で1981年には国の歴史・芸術遺産に指定されますが、長い年月の間にすっかり廃れた状態にあったこの建物は大掛かりな修復工事が行われ、2016年に「バレンシア シルク博物館」として生まれ変わりました。

スペイン語ですが、バレンシア シルク博物館に至る修復工事プロジェクトについての動画を見たい方はこちらをどうぞ。修復される前の建物の様子が分かり、興味深い動画です。

ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史的アーカイブ

「シルク博物館」の中には、ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史を知ることができる歴史資料室があります。48枚の羊皮紙、660冊の書籍、97個のアーカイブボックスからなり、5世紀以上にわたって保管されてきました。その中には、ギルドの歴史や条例、議事録、親方・職工・徒弟の帳簿、工場や店の管理・検査に関する帳簿などが含まれています。興味深いことには、規格に適合しない布地を没収して焼却するという検査業務もあり、ギルドは絹製品の品質管理、品質保証も担っていました。

「シルク博物館」のアーカイブは、15世紀から20世紀末までのバレンシア経済の変遷を研究する基礎資料の一つとして重要視されています。特に、15世紀バレンシアの商業や社会構造、そして当時の交易路や条約とのあらゆる関係を理解することに重要な役割を果たしています。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)

また、18世紀後半のバレンシア市内の人口は10万人程でしたが、バレンシアのシルクアート組合は約4万人の人達に仕事の機会を与えていたので、人口の4割の人が絹産業に携わっていました。

歴史資料室にて(写真:筆者撮影)

美しいバレンシアの民族衣装と博多織

個人的な話で恐縮ですが、昨年日本に里帰りした際、福岡の博多を訪れる機会がありました。そして、「博多町家ふるさと館」という博多の伝統工芸を紹介する博物館に行った際、博多織の実演を見ることができました。

「博多町家ふるさと館」に展示されていた7種類の博多織 (写真:筆者撮影)

興味のある方は、こちらでも見れます。

バレンシアの「シルク博物館」では、ベジュテルと呼ばれるビロード織の実演を見ることはできませんでした。というのも、昨年2022年に「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏が他界したため、もう2度とバレンシアの伝統工芸ビロード織の実演を見ることができなくなったからです。本当に残念なことです。

スペイン語では、ビロード織のことを「テルシオペロ(terciopelo)」と言います。「テルシオ(tercio)」は「3番目」、「ペロ(pelo)」は「毛」のことを意味するスペイン語です。説明によると、3番目の糸を切って毛羽立たせていく技術を使ってビロード織は織られていくので、この名前がついたそうです。3本ごとに一本一本手作業で糸を切っていきながら生地を織っていく様子を想像すると気が遠くなりました。1枚のドレスを作るのに2ヵ月かかり、その値段は20万ユーロ(現在日本円で約280万円)もするのも納得いきます。

バレンシア 「シルク博物館」に展示してあった布地(写真:筆者撮影)

「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏の動画です。繊細な作業の様子が見て取れます。

バレンシアの「シルク博物館」では、繭から糸を紡いていく実演を見ることができました。実演していたスペイン人の方が色々な説明をして下さり、興味深く学び多いものとなりました。

2~3㎝の一つの繭からなんと、1000メートルもの絹糸が取れるそうです‼驚きました。一つの繭は1本の糸からできていて、その長さは1000~1500メートルに及び、天然繊維で唯一の長繊維です。そして、その糸の太さは、髪の毛の約10分の1という超極細糸です。

絹糸を作るには以下の3つの工程(Tres baños)から成っています。

第1工程(Primer baño)繭を湯に漬けた状態で一本一本の糸を取り出していきます。

第2工程(Segundo baño)セリシン(sericina)を取り去ります。セリシンとは、蚕が絹の生産の際に作るタンパク質で、セリシンが残っている状態では肌触りが硬いので、糸にする際にお湯で煮て表面のセリシンを落とす精錬作業を行います。

第3工程(Tercero baño)染色します。

この3工程を経ることにより、手触りがざらざらした糸から心地よい手触りの糸へと変わっていくのです。そして、ここでは、各工程ごとの糸を実際に触らせてくれます。繭も触ることができて、初めての体験を楽しみました。子供さんたちと一緒に行っても、学習体験型思い出多い博物館見学となること間違いなしです!

第1工程 繭を湯に漬けた状態で一本一本糸を取り出していく(写真:筆者撮影)

19世紀の機織り機が置いてありますが、この機織り機は博多織の機織り機と瓜二つのものでした。いわゆる紋紙と呼ばれる織物の模様に応じて穴をあけた紙を用いて織るものです。

博多織の動画と見比べてみてください よく似ています (写真:筆者撮影)

染色の材料となるもの

さて、絹糸の染料に使われる材料となるものは色々ありますが、私の目を引いたのは紫がかった赤色、赤紫色(púrpura)です。ヨーロッパでは高貴な色、貴重な色として重用されていましたが、贅沢や権力を表現する色としても扱われてきました。その染料の原料は、スペインカナリア諸島でとれる巻貝です。貝から染料を取る技術を開発したのはフィニキア人だったようで、ローマ時代からカナリア諸島のイスロテ・デ・ロボスという島へこの貝を採りに行っていました。この巻貝からとれる僅かな染料からあのゴージャスな赤紫色(púrpura)が作り出されていたのです。

展示してあった染料の貝(写真:筆者撮影)

日本では「貝紫染め」と呼ばれていて、「草木染め」と比べあまり一般的ではありませんが、現在独自の技術で「貝紫染め」を行っている工房があります。宮崎県にある「綾の手紬染織工房」です。興味深い内容ですのでこちらをどうぞ。

https://www.ayasilk.com/workshop/royal_purple.html

シルク博物館内の説明文によると、中世に染色技術が完成の域に達したのはユダヤ人染色家たちのお陰ったらしく、15世紀にバレンシアにやってきたジェノバ人の絹織物職人がこの染色のやり方を伝えたものと考えられています。当時一般的だった染料は、次のようなものでした。

赤紫色(púrpura)

黒(negro)-ブナ科の植物の若芽が変形し瘤になった没食子(もっしょくし、agallas de roble)、クルミ(nuez)、アーモンド(almendra)、漆(zumaque)等

深紅色(rojo carmesíコチニールカイガラムシ(cochinilla)、ケルメス(虫 quermes)

黄色サフラン (azafran)、エニシダ (retama de tintoreros) 等

青色 (azúl)ホソバタイセイ(hierba pastel)、インディゴ (indigo)

本当に様々な材料を使って生地を染めていたようです。染料について草木染め以外には知識がなかったので、貝や虫、クルミや虫こぶなどの没食子なども染料として使っていたことは、新鮮な驚きであり、人間の知恵の奥深さを感じさせられました。

博多織の染色で使われている木附子(写真:筆者撮影)

最後に

日本の民族衣装「着物」もバレンシアの民族衣装も、中国から渡ってきた絹の技術に端を発し、独自の形に発展してきたことに興味をそそられました。西と東の端の国で経済的にも文化的にも重要な位置を占め、そこに住む人々に対して多大な影響を与えた「絹」が紡ぐ物語を知ることができたバレンシアの「シルク博物館」は、訪れる価値のあるものでした。

バレンシアは「絹」と共に成長した街で、他にも絹の商品取引所で世界遺産にもなっている「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(La Lonja de la Seda)」は必見です。

バレンシアを訪れる際は、「シルク博物館」に是非立ち寄ってみてくださいね。

美しく豪華なバレンシアの民族衣装(写真:筆者撮影)

バレンシアの「シルク博物館」情報

住所:オスピタル通り7番地(Calle Hospital, 7)
電話:(34)697 155 299 / 96 351 19 51 E-mail:reservas@museodelasedavalencia.com     
開館時間:火~土 10:00~19:00 日曜日 10:00~14:30 *月曜日は休館                                     入場料:8€    学生(国際学生証必要) 7€   無料-12歳までの子供                       特別パス(シルク博物館+サン・ニコラス教会+サントス・フアネス教会) 12€  

参考

・バレンシアの「シルク博物館」の公式サイト。

https://www.museodelasedavalencia.com/

・富岡製糸場と絹産業遺産群

https://worldheritage.pref.gunma.jp/tomikinu/index.php/silkindustry/

・バレンシア州制作の「バレンシアのシルクロード」の公式サイト。

https://ruta-seda.comunitatvalenciana.com/ruta-seda

・「博多町家」ふるさと館の公式サイト。福岡に行かれた時は是非お寄りください。

https://www.hakatamachiya.com/

・スペイン観光公式サイト。

https://www.spain.info/ja/supein-tankyuu/barenshia-ruto-shiruku/

スペイン版除夜の鐘と年越しそば?大晦日の12個のブドウとは?

今年も残すところ2週間をきりました。スペインに住んでいると12月24日のクリスマス・イブを皮切りに、年が明けて1月6日までの三賢王の日までの2週間は、何かと家族や友人が集まり食べて飲んで歌って踊ってと、賑やかかつ胃腸にはハードな時期です。私は「マラソン・クリスマス」と勝手に呼んでいます。(笑)

「マラソン・クリスマス」の丁度中間地点にあたる大晦日。スペインでは、大晦日の夜は家族みんなや友人たちと一緒にワイワイといつもより豪華な食事をとるのが一般的です。普段はスペインの夜ご飯が始まる時間は遅いのですが、この日は0時の鐘の音とともに12個のブドウを食べなければならないので、余裕をもって夕食会を始めるスペイン人が多いようです。

大晦日の12時の鐘に合わせて食べる12個のブドウ

ひとしきり大晦日の夜ご飯が終わると、各人が12個のブドウを手にしてテレビの前に集まります。遅くても0時15分前にはテレビにスイッチを入れます。テレビをつけると、スペイン国営放送がマドリードのソル広場(Puerta del Sol) にある王立郵便局 (Real Casa de Correos) の時計台と、新年を迎えようとソル広場に詰め掛けている人々の姿が映し出されます。

ソル広場(Puerta del Sol) にある王立郵便局 (Real Casa de Correos) の時計台(写真: 筆者撮影)

12時の鐘が鳴る直前には、鐘が鳴ると同時に食べ始められるように、皆テレビの前でブドウを手にして待ち構えています。そして、鐘が鳴り始めると一斉に12個のブドウを次々と口の中に入れていくのです。最初の2~3個を食べている間は、「今年はいけるかも!!」と思うのですが、どんどん口に入れるにつれ、噛んで飲み込む時間が無くなってきて、口いっぱいに頬張りながら10個目くらいで12の鐘が鳴り終わってしまうことが多いですね。スペインのブドウは大粒なものが多く、皮と種もそのまま全部食べるのが一般的です。私は、これでは絶対無理!と悟り、ここ数年は事前に皮をむいて種もとった12個のブドウを自分用に用意しています。(笑) 最近では、種無し皮をむいたブドウの入った缶詰が売られていますよ。皆、考えることは同じですね。(笑)

そして、12の鐘が鳴り終わってブドウ12個を食べ終わったらすぐに、皆で抱き合って、両方の頬にキスをして「新年おめでとう!(¡Feliz año nuevo!)」と言いながら、シャンパンでお祝いします。

その始まり

この12個のブドウを鐘の音と一緒に食べて新年を迎えるという習慣は、一体いつ頃どういう理由で誕生したのでしょうか。

1895年、ブドウ農家の人達がその年特に豊作だったブドウを売りさばくために始めたという説や、フランスから輸入された習慣だという説、12粒のブドウを食べると1年の幸運と繁栄につながるという、もともと古くからの言い伝えがあったという説、地域によってはブドウを食べることで魔女や悪一般を追い払うと信じられていたという説など、いろいろな説があるようです

(写真: 筆者撮影)

何はともあれ、今は12個のブドウを12の鐘の音が鳴り終わるまでに食べてしまうと、新年は豊作、良い年、幸せになると言われていて、皆12の鐘の音が鳴り終わるまでに12個のブドウを食べ終わられるよう懸命です。今年も12個のブドウの皮と種を取って準備万端で大晦日を迎えるつもりです。(笑)

終わりに

もし大晦日の日にマドリードに滞在する機会があれば、あなたも是非12個のブドウ持参で王立郵便局 (Real Casa de Correos) 前でスペイン式に新年をお祝いしてみてはいかがでしょうか。きっと忘れられない一生の楽しい思い出になること間違いなしです!ブドウの皮をむいて種を取っておく準備をお忘れなく!

レオン(León)へ行こう!(4)―クリスマスツリーの前身か⁈「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」

12月に入り、スペインの街は一気に賑やか、華やかになってきています。街には色鮮やかなクリスマス・イルミネーションが始まり、クリスマスの飾り付けがお店屋さんや街角でもお目見えしてきています。最近のスペインの傾向としては、伝統的ないわゆるキリスト教に関係するイエス誕生にまつわる場面の飾り付け等はどんどん影をひそめ、もっと商業的でニュートラルなデザインのイルミネーションや飾り付けが幅を利かせています。個人的には華やかなイルミネーションではなく、原点に立ち返ったイエス誕生を祝う喜びの祭典、長く寒く暗い冬を生活する庶民の楽しみでもあり喜びでもあったクリスマスを祝うもっと素朴で精神的で伝統的な飾り付けの方に心を惹かれます。

古くて新しいクリスマスの飾り

実は、レオン市ではここ20~25年位前からお目見えした古くて新しいレオン特有のクリスマスの飾り付けがあります。「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」と呼ばれる飾り付けです。最近では、レオンの街中に大きなこの飾り付けが立てられたり、街中を歩いていると様々な店先でこの飾り付けを見ることができます。私が最初に留学した90年代前半には見たことも聞いたこともないものでしたが、今ではとてもポピュラーな飾り付けとなっています。

レオン街中の公園に今年も現れた巨大なレオンのラモ・レオネス (写真: 筆者撮影)

クリスマスのラモ・レオネスは木製のフレームを使用しますが、その形は日本の相合傘のイラストを思い出していただくとわかりやすいかと思います。三角形の真ん中から出ている木製の一本足が台に乗っているというイメージです。上の写真をご覧ください。百聞は一見に如かずですね。三角形部分は、半円形や四角形のものもありますが、私が実際に見たものは殆ど三角形のものでした。そして、その三角形の2等辺部分には1年12ヶ月を表す12本のロウソクを飾り、三角形の底辺部分にはリボン、毛糸、刺繍、レース、果物、ビスケットなど、さまざまな種類の供物を吊るします。一本足が乗る台には、栗や木の実を入れた籠などが飾れれていることもあります。

クリスマスのラモ・レオネスの起源

クリスマスのラモ・レオネスの起源は、キリスト教以前の時代まで遡ります。「ラモ・レオネス」の「ラモ(ramo)」とはスペイン語では木の枝という意味の言葉ですが、「Ramo leonés de Navidad」を直訳すると「クリスマスのレオンの枝」という意味です。つまりその起源には、キリスト教以前のヨーロッパ諸国で一般的だった自然崇拝があり、特に樹木崇拝があります。樹木崇拝は、春を迎える前兆としてまた冬至にまつわる祭事で豊穣の象徴として一般的なものでした。レオンにおける「ラモ・レオネス」も、豊穣を祈り春への序曲として捧げられていたものだったと考えられています。

約200年ほど前に作られた「ラモ・レオネス」現存するものでは最も古いものだとか(写真: 筆者撮影)

そして時代が下り、キリスト教がこの地にもたらされた時には「ラモ・レオネス」は異教徒のシンボルとされましたが、だんだん教会に適応されていきました。これは、キリスト教がヨーロッパ全土に広がっていく過程ですべての地域で行われた適応の一つで、もともと古くからその土地で祝われていた儀式やお祭りを異教徒のものとして切って捨ててしまうのではなく、上手くキリスト教儀式の中に取り込む形で融合させていき、人々の反発を買うことなく、人々の心をつなぎとめ、キリスト教の布教を助ける働きをしていったのです。

クリスマスのラモ・レオネスは、クリスマスツリーの前身とも言われているそうです。

クリスマスのラモ・レオネスの種類

レオン地方の村々には、色んな種類の「ラモ・レオネス」があります。代表的なものをいくつか見てみましょう。

植物の枝で作られたもの。これは、キリスト教以前にあった最も古い原型に近いものです。常緑樹の植物から採取するのが一般的だったようで、月桂樹、ヒイラギ、松などの枝を使用していました。

偏菱形 (へんりょうけい)のもの。これは、先端が上向きと下向きの2つの三角形で形成されているものです。

キュービックのもの。これは、2つの正方形がマストと互いに結合して形成されているため、立方体状になっています。

円筒形のもの。2本の水平な木の輪を重ねたもので、マストに取り付けられています。

ラストル。草を集めるための農具に形が似ているためこの名がつきました。長方形です。

他にも様々にアレンジされたものがあるようですが、やはり一般的には相合傘のやつが主流のようですね。

売られていた様々な「ラモ・レオネス」(写真: 筆者撮影)

蘇ったクリスマスのラモ・レオネス

長い伝統を持ち、キリスト教にも上手く融合しながら生きながらえてきたこのクリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」は、私たちがよく知っている姿のヨーロッパ他国の伝統であるクリスマスツリーがスペインに入ってくると、だんだんと姿を消していきました。実際、今から約20年ほど前までは、私の知っているレオンの友人や家族などほとんどの人達は「ラモ・レオネス」について見たことも聞いたことなかったそうです。

1996年のクリスマスに、レオン伝統文化協会(La asociación ‘Facendera pola Llingua’)が、レオン語(ラテン語から派生した一つで、カスティージャ・イ・レオン州のレオン県とサモラ県の一部で話されている-ウィキペディアより)で書いたクリスマスカードに「クリスマスのラモ・レオネス」の絵を描き入れて大量に印刷して配ったことから、このレオンの伝統的な飾り付けが一般的に知られることになりました。

それ以来少しずつ市民権を回復していき、私が調べた限りでは、2014年よりレオン市内の広場に8メートルもの巨大な「ラモ・レオネス」が飾られています。それ以前の2010年のレオンの新聞記事には、レオンにある大手デパート「エル・コルテ・イングレス(El Corte Ingés)」にこの飾り付けを売るコーナーが登場したり、街中の店のショーウインドーに飾り付けられていることが載っていました。また、2005年のレオンの新聞「ディアリオ・デ・レオン」には、広場に飾られている「ラモ・レオネス」に毎日2000人の人が見に来ていると報じています。

最後に

クリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」が復活してきた90年代後半といえば、スペインの経済は好景気が始まりどんどんグローバル化が進み、他のヨーロッパ諸国に追いつけ追い抜けの時代でした。 スペイン国外のクリスマス様式や飾り付けもどんどん導入され、画一的かつ商業的なものへと急速に変化していったこの時期に、もっと自分たちだけのローカルなもの、自分たちの起源となるものに目を向けるようになり、レオンの人々から忘れ去られた飾り付けが復活し、現代に生きるレオンの人々に受け入れられたことは面白いことです。グローバル化が進むことで逆にアイデンティティーを求める機運が高まったのでしょう。一方で、多くの若者にとって宗教というものが遠い存在になっている今、また、キリスト教という宗教に反発・反感を抱く広い世代の人々にとっても、キリスト教が入ってくる以前から存在していたこの飾り付け「ラモ・レオネス」は、もっとニュートラルで宗教色の薄いクリスマスの飾り付けとしてすんなり抵抗なく受け入れられたのでしょう。

クリスマスの飾り付け一つからでも、その時代に生きる人々の考え方や生き方、時代の流れ、主張とてもいうべき声なき声などが聞こえてきそうで、興味深いものです。

もし、クリスマスの時期にスペインを訪れる機会があれば、是非レオンまで足を延ばしてこのクリスマスツリーの原型といわれている「ラモ・レオネス」を見に来てくださいね。

情報

・2020年12月18日付け「ディアリオ・デ・レオン (Diario de León)」という地方新聞に、レオンのクリスマスブーケについて詳しく報道されています。このブログの内容もこの記事を参考にしてます。

https://www.diariodeleon.es/articulo/navidad-leon/ramo-leones-navidad-tradicion-leon/202012181539372071100.html

ゴヤを探して-リリア宮殿(Palacio de Liria)&サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂の前にあるゴヤの像 (写真:筆者撮影)

 

リリア宮殿(Palacio de Liria)

スペインでコロナが始まる半年ほど前、2019年9月19日にこのリリア宮殿(Palacio de Liria)の一般公開が始まりました。この宮殿の所有者であるアルバ公爵へのインタビューラジオを偶然聴いていた私は、是非この宮殿を訪ねてみたいと思い、チケット購入のためにインターネットにアクセスしてみたのですが、既に翌年2020年2月一杯まで予約は一杯でした。その後、コロナがスペインでも猛威を振るい、ロックダウンを経てワクチン接種も受け、今回やっとマドリードまで行って訪ねる機会に恵まれました!

リリア宮殿(写真:筆者撮影)

アルバ公爵とは?

アルバ公爵について簡単に説明すると、初代アルバ公ガルシア・アルバレス・デ・トレド(Garía Álvares de Toledo)はカスティージャ王国の貴族でアルバ・デ・トルメスという伯爵領を持つアルバ伯爵でしたが、1472年にカスティージャ王エンリケ4世からアルバ公爵へと昇格されます。ちなみに、このアルバ・デ・トルメスという名前の街は今もあり、実は私が住むサラマンカ市から20km程離れたところにあります。その息子ファブリケ・アルバレス・デ・トレド・イ・エンリケス(Fadrique Álvarez de Toledo y Enríquez )は1492年の有名なグラナダ陥落で活躍し、初代アルバ公の孫にあたるフェルナンド・アルバレス・デ・トレド・イ・ピメンテル(Fernando Álvarez de Toledo y Pimentel)はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)やその息子フェリッペ2世に重用され、後世の歴史家からスペイン史の中でも第一級の軍師だと言われているほどです。

18世紀に下ると、マリア・デル・ピラール・テレサ・カジェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド(María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledo)が、自身の権利-アルバ公位の継承者であることを意味する公爵夫人-として、13代アルバ公爵夫人(Duquesa de Alba)となりました。あまりに長い名前なので、一般的にはマリア・テレサ・デ・シルバ(María Teresa de Silva)と略されていますが、彼女は、1776年に14歳でアルバ家の爵位を継いでから1802年に亡くなるまで、なんと56もの爵位を受け次ぎました。スペインの中で一番多くの爵位を持っている公爵夫人だったのです。しかし、彼女には跡継ぎの子供がいなかったので、親戚であるカルロス・ミゲル・フィッツ・ジェームズ・スチュアート・イ・シルバ(Carlos Miguel Fitz-James Stuart y Silva)が跡を継ぐことになり、名前からもわかるように英国人との共同での家になりました。と同時に、スペイン国内だけの爵位だけではなく、英国の爵位もアルバ家は相続していくことになり、ヨーロッパの中でも最も多くの爵位を保持する家となったのです。

そして、アルバ家は今もスペインに残る名門です。スペイン各地に所有する宮廷や土地も数多く、代々芸術に造詣深い一族は、数々の美術作品を所蔵しています。ただ、膨大な歴史的遺産を所有するアルバ家が毎年支払わなければならない税金もかなりの額で、アルバ家は所有する建物を一般公開することで維持を図っています。今回訪れたリリア宮殿以外にも、私が住むサラマンカ市のモンテレイ宮殿(Palacio de Monterrey)、セビージャ市にあるラス・ドゥエニャス宮殿(Palacio de Las Dueñas)が現在一般公開されています。

サラマンカ市内にあるモンテレイ宮殿(写真:筆者撮影)

リリア宮殿(Palacio de Liria)見学

なんといっても、この宮殿は今現在もアルバ公爵一家が住む住居でもあることに驚かされます。2019年9月に一般公開が始まりましたが、一般公開部分は宮殿のほんの一角で12室訪れることができます。ちなみに200室以上の部屋があるとのこと!!!

18世紀に造られたこの宮殿は、スペイン市民戦争の際に火災が起き、かなりの被害を受けました。しかし、その後、莫大な私財を投資して元の通りに再建して今も住居として使われています。ここが住居であることを思い出させるものとして、各部屋に思い出の写真等が飾ってありました。

スペイン屈指のプライベートアートコレクションは、アルバ家の歴史と共に500年以上にわたって収集されてきたもので、絵画のみならず、彫刻、タペストリー、家具、書籍等、多岐にわたる芸術作品におよびます。特に、フランドル地方(今のオランダ・ベルギー)のバロック絵画の巨匠ルーベンスが描いた神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)やスペイン国王フェリッペ4世の絵は素晴らしいものです。また、「スペインの間(Salón de España)」には、まるでプラド美術館のようにベラスケス、エル・グレコ、スルバラン、リベラ、ムリーリョ等が所狭しと壁にかけてあり圧巻です。「イタリアの間(Salón de Italia)」には、ティツィアーノの「最後の晩餐」等があり、必見の価値大です。この「イタリアの間」にも家具の上にもさりげなく写真立てが置いてありましたが、私の目を引いたのは、その中にまだ天皇に即位されていらっしゃった頃の上皇さま、上皇后さまがこのリリア宮殿をご訪問された際の記念の写真立てが飾られてあったことです!

その他、「ゴヤの間(Salón de Goya)」、「踊りの間 (Salón de Baile)」「皇后の間(Salón de Emperatriz)」、「ダイニングルーム(Salón de comedor)」、「図書室(Biblioteca)」等があります。残念ながら、宮殿の中の写真撮影は禁止されていて、写真を撮影することはできませんでした。

ラジオで聞いたアルバ公爵のインタビューでは、小さい頃はかくれんぼをしたりして遊んだというエピソードを紹介されていました。こんなに広くて値段が付けられないような超豪華なコレクションが所狭しとある宮殿でも、アルバ公爵にとっては、子供のころは自分の祖先の肖像画を見たり、かくれんぼをしたりして楽しい思い出が詰まった「我が家」だったそうです。うーん、何千万とする花瓶をひっくり返して壊したり、様々な巨匠の絵を傷つけたりしたりしたら、それこそ取り返しのつかないことで、さぞかしスリルあるかくれんぼ遊びだったんだろうな……なんて想像してしまいました。(笑)

ベラスケスが描いたマルガリータ王女もリリア宮殿にいました!(Wikipedia Public Domain)

ゴヤの間(Salón de Goya)

リリア宮殿ではゴヤの絵が幾つか見れると思って期待していましたが、この「ゴヤの間(Salón de Goya)」は期待を裏切らない素晴らしいものでした。

ゴヤの絵で一番最初に思い浮かべるものは何でしょうか? やはり「着衣のマハ」と「裸のマハ」ではないでしょうか。「マハ(maja)」とは、人の名前ではなく、「小粋な女」という意味のスペイン語です。このモデルは前述したあの長い名前の13代アルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・テレサ・カジェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド(María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledo)だったのではないかと言われています。このマリア・テレサとその夫はゴヤのパトロンであり、彼女とゴヤは親密な交際があったとの推測が絶えないようです。実際にゴヤは彼女から様々な絵の依頼を受けて彼女のために絵を描いています。

この「ゴヤの間」には、アルバ家の人々の肖像画が多く飾られていましたが、中でも一際目を引くのが18世紀ファッションの先端を行く白いドレスに身を包んだアルバ公爵夫人マリア・テレサの肖像画です。赤い帯、赤いリボン、赤い髪飾り、赤いネックレスで、赤と白のコントラストが印象的です。白い子犬の足に赤いリボンをつけているのは、「お揃い」って感じでほほえましくなりました。

ゴヤが描いた白いドレスを着たアルバ公爵夫人(Wikipedia Public Domain)

図書室

図書室には書籍だけではなく、手紙や歴史的文書等が展示してあります。その数1万8,000冊もの蔵書があるとのこと!その中でも、1605年に出版されたセルバンテス著「ドン・キホーテ」の初版や、1422年~1431年のヘブライ語からスペイン語に訳された聖書,フェルナンド王の遺言書、クリストファー・コロンブスの第1回目の新大陸への旅の直筆の手紙の数々は必見です。

この聖書は、「アルバ家の聖書」とも呼ばれ、最初にスペイン語に訳された聖書の一つです。興味深いのは、ラテン語からの翻訳ではなくヘブライ語からスペイン語への翻訳本でした。フェルナンド王はグラナダ陥落でレコンキスタを成し遂げたアラゴン王ですが、この遺言書は死の前日に遺言されたもので、1516年1月22日の日付がありました。この遺言で後継者を後の神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)に定めています。本来ならば、娘のフアナが後継者になるところでしたが、気がふれて幽閉されていたフアナにはせっかくレコンキスタを成し遂げた後の国を治めることは無理とみなしたフェルナンド王は、フアナの息子、自分の孫にあたるカルロスに位を譲ることをこの遺言書の中で明確に示したものでした。この遺言書は、スペインの歴史文書の中でもかなり重要なものです。コロンブスが書いた手紙は結構な数があります。その中には、コロンブスが自分で描いた島の輪郭を示す絵がありますが、これがコロンブスが「イスパニョーラ島(La Española)」と命名した島で現在のハイチとドミニカ共和国に当たることろです。

それにしても、スペイン500年の歴史絵巻を見ているような錯覚に陥るアルバ家の図書室でした。ただ、あまりに歴史的史料価値の高い資料や書籍が多いだけに、実際に蔵書を手に取って手軽に読書を楽しむという感じではないですね。(笑)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)

美術館の中に飾ってある絵画鑑賞も悪くないのですが、特に宗教画に関してはやはり宗教的な場所-教会・修道院等-で観賞すると、見る印象が随分変わります。画家が宗教的な建物のどの位置にどのような宗教的な場面を配置するかは、識字率が低かった時代においてはとても大切なことでした。現代のように視覚的な物があふれている世界に住んでいなかった当時の人々にとって、「絵画」はとても心に響き、そして宗教の持つ意味を理解する助けでもありました。

このサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂内を装飾するフレスコ画はゴヤが描いたものです。美術館以外にあるゴヤのオリジナルの絵が見れる数少ない場所の一つですが、マドリード観光でも訪れる人が少ない穴場的な場所でもあります。ここには、ゴヤが埋葬されていて、「ゴヤのパンテオン」とも呼ばれています。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(写真:筆者撮影)

「聖アントニオの奇跡」

礼拝堂の天井を飾るフレスコ画のモチーフとなったのは「聖アントニオの奇跡」です。これは、聖アントニオの父が殺人の罪に問われ、ポルトガルのリスボンで死刑になることを知った聖アントニオは、裁判官の前に殺された被害者の遺体を運んでくるように頼みます。そして、運ばれてきた遺体に向かって殺した犯人は自分の父かどうかを尋ねると、死人は一時的に蘇りはっきりした声で「あなたの父ではありません」と答えました。そうして、聖アントニオは父の無実を晴らしたと伝えられている奇跡です。

ゴヤが描いた「聖アントニオの奇跡」(Wikipedia Public Domain)

ゴヤの斬新さ

このゴヤのフレスコ画を見て面白いなと思ったのが、描かれている人達でした。私が今までよく目にしていた教会や礼拝堂の中にある宗教画とは異なり、聖アントニオ以外は、偉い司教や聖人、その時代の王や有力貴族、12使徒や聖書に登場する人々ではなく、無名の庶民-村の男や女たち、乞食、野次馬たち、遊んでいる子供たち-それもその当時のマドリードの庶民の姿が生き生きと描かれていることです。マドリードの人たちはこの絵が描かれた当時から「聖アントニオ」に親しみを感じている人が多かったらしく、数ある聖人の中でも人気がありました(聖人の中で人気者とそうでないものがあるのは面白いことですが、日本の布袋尊のようなものでしょうか)。ゴヤはその民衆の心を代表してこの絵を描いたんじゃないかなと思いました。この礼拝堂を訪れるマドリードの人たちは、自分の姿をこのフレスコ画の中に見つけ出し、親近感を抱き、聖人との距離ひいては神との距離がグッと近くなったんじゃないかと感じながらこのフレスコ画を見ました。

もう一つ興味深かったことは、描かれている天使たちです。「天使」のことをスペイン語では「Ángel(アンヘル)」と言います。全ての名詞に性があるスペイン語では「天使」-「Ángel(アンヘル)」-は男性名詞です。スペインのゴシック様式やバロック様式の教会などでは、まるで中性的な子供のような顔つきの「天使」たちであふれています。でも、このゴヤの描く「天使」たちは、マドリードの若い女性たちの顔を持つ「天使」-「Ángela(アンヘラ)」(女性名詞形)-たちなのです。そして、その「天使」-「Ángela(アンヘラ)」たちがドームの下部分や側面部分にも描かれていて、その点でも新しいゴヤの試みが見えてきます。

ゴヤの自由な筆づかい、グレース技巧、透明感のある絵は豊かな色調を生み出し、ゴヤの絵の特徴でもある「魔法的な雰囲気」を醸し出しています。

礼拝堂の内部の写真が撮れなかったので、この「Ángela(アンヘラ)」たちをこのブログで紹介できず残念です。マドリードに行く機会がある方は、是非この女性の天使「Ángela(アンヘラ)」たちに会いに行ってみてくださいね!

美術館の外にあるゴヤの絵に会いに行こう!

ゴヤの絵-美術館の中にはない、絵の依頼者とゴヤ自身とゴヤの絵が直接つながっていることを感じられるような絵-に会いに行きたい方は是非このリリア宮殿とサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂まで足を延ばしてみることをお薦めします。

リリア宮殿もサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂もマドリード観光では定番のコースには入っていない所ですが、どちらも一見の価値は大いにありますよ。

リリア宮殿 開館情報

住所:プリンセサ通り 20番地( C. de la Princesa, 20)

電話番号:(+34) 915 90 84 54 (対応時間:9:00~20:00)

ウエブサイト:https://www.palaciodeliria.com/
最寄り駅:スペイン広場(Plaza de España 2号線 赤色/3号線・黄色/10号線・紺色) 、

     ベントゥーラ・ロドリゲス(Ventura Rodríguez 3号線・黄色)      
開館時間:リリア宮殿 (Palacio de Liria) | マドリード観光 (esmadrid.com) 参照 

休館日:1月1日、1月5日、1月6日、12月24日、12月25日、12月31日      

入場料:一般-15€ (スペイン語・英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語の音声ガイド付き、)

    割引料金-13€(6歳~12歳、失業者、25歳以下の学生、65歳以上、身分を証明する書類提示)

    公式ガイド付き-35€(10人~15人)

    無料-6歳未満、祭日ではない月曜日 9:15 a.m. & 9:45 a.m. (一週間前にオンライン販売のみ)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂 開館情報

住所:サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ ロータリー 5番地( Gta. San Antonio de la Florida, 5)

電話番号:(+34) 915 420 722

ウエブサイト:http://www.madrid.es/ermita
最寄り駅:プリンシペ・ピオ(Príncipe Pío 6号線 灰色/10号線・紺色/R線) 、

     ベントゥーラ・ロドリゲス(Ventura Rodríguez 3号線・黄色)      
開館時間:火曜日~日曜日 9:30~20:00 (最終入館時間 19:40) サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida) | マドリード観光 (esmadrid.com) 参照 

休館日:月曜日(祝日も含む)1月1日、1月5日、1月6日、12月24日、12月25日、12月31日      入場料:無料

リリア宮殿&サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂 情報

・リリア宮殿オフィシャルサイト。スペイン語。

Información (palaciodeliria.com)

・マドリード観光オフィシャルサイト。日本語もあります。youtubeでは宮殿の内部を垣間見れます。

リリア宮殿 (Palacio de Liria) | マドリード観光 (esmadrid.com)

・スペイン観光公式サイト。日本語もあります。

リリア宮殿のMadrid | spain.info 日本語

・リリア宮殿の内部は写真撮影が禁止されているますが、スペインの新聞に宮殿内部の写真が出ていました。

Fotos: El interior del Palacio de Liria, en imágenes | Cultura | EL PAÍS (elpais.com)

・スペイン観光公式サイト。日本語もあります。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂のMadrid | spain.info 日本語

・マドリード観光オフィシャルサイト。日本語もあります。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida) | マドリード観光 (esmadrid.com)

スペインの臓器移植ドナー数、世界でトップ!

今年も世界一!

意外だと思われる方も多いと思いますが、スペインは世界でもトップクラスの臓器移植大国です。そして、この臓器移植手術を支えているのが、臓器を提供してくれるドナーの存在。2021年8月の政府公式発表によると、100万人当たりのドナー数が29年連続でスペインは世界一

2022年1月末の発表では、100万人当たりドナー数がスペインは40,2人で、EU諸国平均が18,4人なのでスペインのドナー数は2倍以上、ドイツと比べてみても4倍の比率です。ちなみに日本は残念ながら臓器移植に関しては後進国と言え、2019年の資料で0,99人です(参照:「臓器移植対策の現状について」臓器移植委員会4月21日に作成)。日本は少ないとは知っていましたが、まさか100万人当たり1人にも達していない事実にはショックでした。

2021年の臓器移植手術は約5,000件!

2021年に行われた臓器移植手術は、腎臓移植 2,950件、肝臓移植 1078件、肺移植 362件、心臓移植 302件、膵臓並びに7つの大腸部分*移植 82件です。そして、子供への臓器移植手術は159件ありました。なんと、その合計数は4,933件にも上ります。そしてそのうち、死亡した人から受けたドナー1905人による臓器移植手術件数は4,457件ありました。

*7つの大腸部分(Siete intestinales):盲腸・虫垂・上行結腸・横行結腸・下行結腸・S状結腸・肛門 (Ciego/Apéndice vermiforme/Colon ascendente/Colon transverso/Colon descendente/Colon sigmoideo/Ano)

スペインの臓器移植の現状

スペインは、臓器移植に関する法律に定めるように、ドナー拒否の意思表示をしていない限り、全てのスペイン人はドナーの対象だとみなされています。そして、実際ドナーとしての必要条件を満たしていると医療チームが判断したら、ドナーできるような仕組みになっています。私の周りでも自分に何かあった場合は、是非臓器ドナーをして少しでも助かる命を助けてほしいと言っている人がほとんどです。

また、スペインでは2021年3月に「安楽死法」が成立し、安楽死が法的に認められたので、安楽死を求める人からのドナーも今後は出てくると予想されています。

スペインでは、公的国民保険に加入していれば公的医療機関は無料です。日本のように、全国どこででも病院にかかることができるのではなく、基本的には居住している地域の公的医療機関にかからなければなりません。もし、私立の病院にかかる場合は100%自己負担です。(私立の医療保険制度に加入して、毎月定まった金額を支払うことで私立の病院代をカバーすることは可能です。実際、公的医療保険以外に私的医療保険にも加入している人も多々います。)そして、公的医療機関で臓器移植手術を受ける場合は、手術代金は無料です。

スペイン人と結婚し、サラマンカ市内に居住していてスペインの公的国民保険に加入してる日本人が、10年位前に骨髄移植をしなければならなくなりました。手術はやはり日本の方がいいかもと考え、一旦東京に帰って有名な病院を当たってみましたが、日本ではその当時骨髄移植手術自体珍しいうえ、ドナーが少ないことと費用がかなり掛かることを告げられました。でも、色々調べてみると、スペインは移植手術先進国で、その上、サラマンカ大学病院は特に有名だということが判明し、スペインに戻って骨髄移植手術をしてもらうように手続きを始めました。結局は、スペインの移植をする際の国際ネットワークの力で、ハワイの日系のドナーから骨髄提供があり、サラマンカ市民ということも手伝い、地元優先で思ったより早く手術を受けることができました。その上、その日本人は公的国民保険加入者であったので、手術代金、入院費等全て無料でした。その時初めて私もスペインの医療機関、医療システムの素晴らしさを実感しました。

これだけ臓器移植手術先進国のスペインですが、スペイン国立移植医療機関(Organización Nacional de Transplantes)によると、毎年約10%の人がドナー提供を待っている間に死亡しているという悲しい事実も現実にはあります。

コロナ下でのドナー

さて、そんなスペインの臓器移植事情も、今回のコロナ下では厳しいものがありました。コロナ以前の2019年は100万人当たりドナー数がスペインは49,6人だったのが、2020年にはドナー数が23%、臓器移植手術も19%減少しました。それだけに、2021年は2020年に比べると臓器移植手術が8%増加し、少しずつ回復の兆しが見えてきているようです。

参考

・スペイン国立移植医療機関(Organización Nacional de Transplantes)がドナーや臓器移植について分かり易く説明しています。

Donación (ont.es)

・日本の臓器移植の現状に興味のある方はこちらをどうぞ。臓器移植委員会が4月21日に作成した「臓器移植対策の現状について」のPDF版です。

難病法における難病の定義 (mhlw.go.jp)

・具体的な数字等を今回参照したスペインの全国紙「エル・パイス(El País)」2022年1月21日付の記事です。

Los trasplantes de órganos en España superan el bache de la covid y aumentan un 8% en 2021 | Sociedad | EL PAÍS (elpais.com)

・スペイン政府公式サイト、ラ・モンクロア(La Moncloa)にも、スペインがドナーや臓器移植手術のリーダーであることを述べています。

La Moncloa. 16/08/2021. España mantiene su liderazgo mundial en donación de órganos en 2020, a pesar de la pandemia [Prensa/Actualidad/Sanidad]

スペインのワイナリー見学(2)-エラクリオ・アルファロ(Heraclio Alfaro)

スペインでは、ワイナリーを見学してワインを試飲するエノツーリズム(ワインツーリズム)と呼ばれるワイン観光に人気があります。ワイナリー見学&試飲だけでなく、ブドウ畑を馬で周ったり、散策したり、昔ながらのブドウ踏みをする等々体験型のエノツーリズムもあります。また、家族でも楽しめるようにワインではなく、未成年には「モスト」と呼ばれるグレープジュースを出してくれたり、子供用にブドウやワインに関することを学ぶ体験を提供してくれる様々なエノツーリズムがあって、子供やワインに興味のない大人をも巻き込んだ観光が魅力です。今回は、スペインの赤ワインの代表「リオハ」にあるちょっと変わったワイナリー見学を報告します。

スペインのワインと言えば「リオハ、「リオハ」のワインと言えば「テンプラニーリョ種」 (写真:筆者撮影)

「エラクリオ・アルファロ(Heraclio Alfaro)」ワイナリーの歴史

近年、有名ワイナリーのなかで、有名建築家による奇抜なワイナリーが色々と出ていますが、ここのワイナリー程ユニークなワイナリーはそんなにないのではないでしょうか。

現在ワイナリーがあるこの場所は、スペインでは歴史的な場所として知られています。1919年に飛行場がここに作られました。発着場として使われていた土地は、今では見渡す限りのブドウ畑になっています。今使われているワイナリーは飛行機の格納庫として作られた建物を改装したもので、格納庫としての構造は今も残っています。

発酵温度をコントロール「タンク室」 (写真:筆者撮影)

1970年代に、最初のワインを造り始め、2000年には別のファミリーがこのワイナリーを受け継ぎ、近代化して「エゴメイ」という名前で新しいラインのワインを造りました。そして、2018年にテーラス・ガウダ・グループがこのワインに新しい風を吹き込み、2015年に最初のワイン「エラクリオ・アルファロ・クリアンサ」がヴィンテージされました

テーラス・ガウダ・グループは、ガリシア州にある白ワインのワイナリーから発展したグループで、ガリシア州の白ワインワイナリーが赤ワインの代表地ともいえるリオハ州のワイナリーに進出するのはスペインでは初めてのことで、テーラス・ガウダ・グループはその意味でのパイオニアです

スペインのワイナリー見学-テーラス・ガウダ(Terras Gauda) | おいでよ!スペイン (shiroyshishi.com) テーラス・ガウダ・グループについてはこちらもどうぞ。

「木樽熟成庫」木樽はフランス・オーク(写真:筆者撮影)

エラクリオ・アルファロ とは?

さて、このワイナリーの名前「エラクリオ・アルファロ(Heraclio Alfaro)」は、スペインの飛行機パイロット、飛行機製作者としてのパイオニアであるエラクリオ・アルファロ氏に敬意を表して、その名前を冠したものです。

エラクリオ・アルファロ氏は、20世紀初頭において、国境を越えて活躍したまさしく「グローバル」な人物でした。1914年、パイロット資格を取り、世界でも最も若いパイロットの一人で、なんと21歳という若さでした。そして彼は飛行機を操縦するだけではなく、スペインで初めて一から最初の飛行機を作り上げたのです。その後、アメリカに渡り、航空学においていくつも賞を受け、ボストンにあるマサチューセッツ工科大学で教鞭をとり、同時に飛行機設計を続け、多くの特許をアメリカやカナダで取りました。グローバルでパイオニア、自分の夢を追求した人物といえるでしょう。

彼のようにグローバルでパイオニア、そしてこのワイナリーで働く人たちのワイン造りに対する熱い思い、そして夢を追求するという意味を重ね合わせ、ワイナリーの名前、そして最初のワインの名前も彼の名前が付けられました

1914年 自身作成の「アルファロ1号」に乗るエラクリオ・アルファロ氏 (Wikipedia Public Domain)

多様な畑と挑戦

現在、115ヘクタールの畑を所有しており、リオハ地方特有の黒ブドウの3つの品種に割り当て、テンプラニーリョ種、グラシア―ノ種、マスエロ種を栽培しています。ブドウの木は70年代に植えられたもので、樹齢45年ほどです。また、この地方で最も高い地域(海抜750m)にあるブドウ畑もあり、そこではガルナッシュ/ガルナッチャ種を栽培しています。 この品種を加えることで、フレッシュな果実と酸味のある、より調和のとれたワインを造ることができます。

リオハ地方では、この土地のブドウであるテンプラニーリョ種とガルナッシュ/ガルナッチャ種が多く栽培されていましたが、このガルナッシュ/ガルナッチャ種はテンプラニーリョ種と比べ繊細な種類で、花が咲く時期に花が散ってしまうことが多くみられるそうです。そのため、ブドウの房にびっちり実が生らないのでどうしても収穫量が減り、栽培を嫌厭される傾向になり、どんどん地元のブドウであるガルナッシュ/ガルナッチャ種の栽培が減少していたとのこと。しかしこのワイナリーでは、ガルナッシュ/ガルナッチャ種にも力を入れて栽培し、ガルナッシュ/ガルナッチャ種を多く含むワインを造ることにチャレンジしています

調和のとれたワインに仕上げるには欠かせない「ガルナッシュ/ガルナッチャ種」  (写真:筆者撮影)

このワイナリーの特徴の一つとしては、 ブドウ畑だけではなく果樹園とオリーブ畑もあるところでしょうか。12ヘクタールは、果実園とオリーブ畑として割り当てられています。ブドウだけではなく、リオハ州という果実や野菜などにも適した気候・土地を生かし、リンゴやオリーブも栽培しています。

緑色のオリーブの実がたわわに実っていました (写真:筆者撮影)
リンゴの種類はなんと日本の「ふじ」! スペインでも人気のりんごです(写真:筆者撮影)

ここで取れたオリーブの実はエクストラ・バージン・オリーブオイル用に使われていますが、今年リオハ州が主催するコンクールで、エコ栽培を対象にした「オリーブの実」カテゴリーで2位を受賞しました! スペインで栽培されているオリーブの品種は、なんと200種類以上ありますが、ここで栽培されているものはアルベキ―ナ(arbequina)という種類で、苦みや辛みのないサッパリとした口当たりで、オリーブの果実特有のフルーティな香りがするとても美味しいエクストラ・バージン・オリーブオイルです。オリーブオイルになじみのない方にも癖のないすんなりと味あえる種類のオリーブオイルでお薦めです。

ラベルも素敵な「エラクリオ・アルファロ」のエクストラ・バージン・オリーブオイル(写真:筆者撮影)

試飲

一通りワイナリー内を見て回り、説明も聞いた後、試飲です。お店の後ろにテイスティング・スペースが設けられていました。大きなガラス張り窓から見えるザクロの木には赤い実がなっていて、まるで額縁の中の絵のような美しさを感じました。

ザクロの木 (写真:筆者撮影)

色々と説明してくれたホルヘ(Jorge)とイドージャ(Idoya)。本当にワイン造りに対する熱い思いを語ってくれました。リオハ州の赤ワインの代名詞のようなテンプラニーリョ種の ブドウは、荒々しくもがっちりとした味わいが魅力。そこに女性的な繊細でフレッシュなガルナッシュ/ガルナッチャ種を加えることでハーモニーが生まれ、口当たりの良いワインになるとのこと。そしてフランス・オークの木樽で熟成させることにより、バニラのようなちょっと甘い風味になるとのこと。

イドージャは、このワイナリーのワイン造りを直接担当しているエノロゴ(醸造家)で、私が訪れた日も茎がついたままでワインを醸造する「全房発酵」と茎を取る「除梗」を行ってワインを醸造する実験用のワインの準備を忙しく行っていましたが、日々、自分たちの求めるワインを造るために色んな試行錯誤を繰り返していると熱く語ってくれました。

ワイナリーのアルムデナ、ホルヘ、カルメン、イドージャ(写真:筆者撮影)

試飲のワインは、ここのワイナリーで造られている2種類のワイン「エラクリオ・アルファロ」と「エラクリオ・アルファロ・フィンカ・エスタリホ」。この2種類の赤ワインは、両方ともテンプラニーリョ種、 グラシア―ノ種、マスエロ種、ガルナッシュ/ガルナッチャ種の4種類のブドウから造られていますが、割合の違いでかなり口当たりの異なるワインになっています。試飲で、同じ種類のブドウのワインでも割合によって味だけではなく香さえも異なるワインができるということが実感でき、素人の私にとっては驚きの体験でした。

「エラクリオ・アルファロ」は、赤ワインのクリアンサ。フランス・オークの木樽で12ヶ月熟成し、12ヶ月以上貯蔵したもので、テンプラニーリョ種が40%、グラシア―ノ種5%、マスエロ種5%、ガルナッシュ/ガルナッチャ種が50%。このワイナリーが力を入れているガルナッシュ/ガルナッチャ種を多く用いて新しい「リオハワイン」を造りだしています。

「エラクリオ・アルファロ・フィンカ・エスタリホ」赤ワインのクリアンサ。こちらは、フランス・オークの木樽と700Lのフードル(大樽)で16か月熟成した後、12ヶ月以上貯蔵したものです。テンプラニーリョ種が30%、 グラシア―ノ種30%、マスエロ種10%、 ガルナッシュ/ガルナッチャ種が30%。 こちらは「エラクリオ・アルファロ」に比べてヴィンテージ数も少なくリミテッドエディションだそうです。

左がテンプラニーリョ種 右がガルナッシュ/ガルナッチャ種(写真:筆者撮影)

また、丁度収穫前に訪れたので、テンプラニーリョ種とガルナッシュ/ガルナッチャ種のブドウの実を食べ比べさせていただきました。イドージャの説明のように、確かにテンプラニーリョ種はそもままブドウとして食べるにはちょっと大味でイマイチ。でもガルナッシュ/ガルナッチャ種の方はそのまま食べても十分美味しく洗練された味で、なるほどこれらを組み合わせて調和のとれたワインを造っていく難しさと醍醐味を実感できました。

左が「 エラクリオ・アルファロ・フィンカ・エスタリホ 」右が「 エラクリオ・アルファロ 」(写真:筆者撮影)
ワインの箱のデザインも素敵なのでお土産にピッタリ!(写真:筆者撮影)

スペイン初のパイロット兼航空学者であるエラクリオ・アルファロ氏についての歴史や、そのパイオニア精神をワイン造りに引き継いでいこうという心意気にも深く感銘を受け、ワインを通して知ることのできる様々な物語を楽しむことができました。

またワインだけではなく、オリーブやリンゴを栽培している多様な土地柄を目の当たりにして、涼しく比較的乾燥しているこの土地の特性も知ることができました。

試飲の後で (写真:筆者撮影)

おすすめ!ワイナリー見学

「エノツーリズム(ワインツーリズム)では、ワイナリーのワインを味わうだけではなく、ワインを造っている人達の情熱、思想、哲学までも垣間見ることができ、そしてワインを造るブドウを育んだ土地への愛着、その土地特有の文化や自然に対する深い理解も実感できます。

ここのワイナリーのガイドをしてくれるホルヘは英語でのガイドもOKとのこと。是非、スペインにいらっしゃる際は、「エラクリオ・アルファロ」ワイナリーのエノツーリズム(ワインツーリズム)を旅行計画に入れてみてはいかがでしょうか。

追記:「シタデル・デュ・ヴァン」コンクールで「スペインワイン特別賞 グランドゴールドメダル2023」を受賞!!

2021年に「エラクリオ・アルファロ」ワイナリーを訪れましたが、今年2023年に入ってフランス・ボルドーのワインコンクール「シタデル・デュ・ヴァン」にて国別の「特別賞 グランドゴールドメダル2023」を受賞したという、とても嬉しい報告を頂きました。

「シタデル・デュ・ヴァン」は、1992年にボルドーワインで有名なフランス・ボルドーで創設された権威ある国際ワインコンクールで、日本のワインもこのコンクールで金賞や銀賞を受賞しているものがあるので、ご存じの方もいらっしゃると思います。「O.I.V.(国際ブドウ・ワイン機構)」の後援のもとで行われる限られたコンクールの一つですが、五大陸のプレミアムワインの多様性と品質に焦点を当てることを目的として、国際的なワインシーンで最も影響力のあるイベントの一つとして確立しています。

「O.I.V.(国際ブドウ・ワイン機構)」が推薦する最高水準のエノログ(ワイン醸造技術管理士)をはじめとする専門家35名が審査を行い、625本のワインを試飲しました。この世界中からエントリーされた625本のワインの中から、「エラクリオ・アルファロ・フィンカ・エスタリホ 2017(Heraclio Alfaro Finca Estarijo 2017) 」が出品されたスペインワインの中で最高得点を獲得し、「スペインワイン特別賞 グランドゴールドメダル2023」を獲得しました。

この報告を受けたとき、真っ先にイド―ジャ(Idoya)の姿を思い出しました。自分たちの追求するワインを造るために、日々試行錯誤を繰り返していると熱く語ってくれたあの姿を。そして、イド―ジャをはじめとして、ホルヘやアルムデナ、そしてカルメン、スタッフのみんなを思い出し、私もとても嬉しくなりました。これからも、美味しいワインを造ってください!とエールを送ります。おめでとうございます!

受賞に興味のある方は、スペイン語ですがこちらもどうぞ。

https://elcorreodelvino.com/heraclio-alfaro-finca-estarijo-2017-recibe-el-premio-especial-de-espana-en-el-concurso-de-burdeos-citadelles-du-vin/

「シタデル・デュ・ヴァン」のウエブサイトにも出ています。

https://www.citadellesduvin.com/index.php?option=com_content&view=article&id=276&tmpl=index-es&Itemid=209

参考

・「テーラス・ガウダ(Terras Gauda)グループ」の公式サイト。「Enoturismo」をクリックして「Heraclio Alfaro」を見てください。:https://www.terrasgauda.com/ 

・ スペイン観光公式サイトがエノツーリズムについて紹介しています。日本語です。 リオハ・オリエンタルのワインルート。。エノツーリズム | spain.info 日本語

・日本人向けにワイナリーツアーを企画している会社(スペインワインのプロフェッショナルである、バルセロナのOFFICE SATAKEと、バリャドリッドのBUDO YAを中心にスペイン各地のプロフェッショナルが、ワイナリーを本格的に案内)。http://enoturismo.jp/?page_id=703

・ラ・リオハ州公式観光サイト。ラ・リオハ州のエノツーリズムについてのサイト。Enoturismo – La Rioja Turismo

2000年の時を超えてローマ劇場で行われるメリダ古典演劇祭(Festival Internacional de Teatro Clásico de Mérida)

もう、20年以上も前にメリダ(Mérida)を最初に訪れた際、ローマ劇場や円形競技場を観光しました。ローマ時代の建造物の中に足を踏み入れた初体験だったので、とても感動したことを今でも覚えています。まるでタイムスリップしたかのように2000年以上の時を一気に超え、ローマ時代の人たちが実際に居たところに私も居るんだという、とても不思議な気持ちで一杯になりました。そして、その時友人が「毎年夏になるとここで演劇祭が行われていて、誰でも観に来れるんだよ」と説明してくれたました。その時から、”あー、一度でいいから私もこのローマ劇場でローマ時代の人たちのように劇を楽しんでみたいなぁ・・・”と思っていました。そして、やっとその願いが叶いました!!

ローマ劇場&舞台 (写真:筆者撮影)

メリダ古典演劇祭 (Festival Internacional de Teatro Clásico de Mérida)

長い間廃墟となっていたメリダのローマ劇場は、1910年から本格的な発掘が進められ1933年6月に、実にローマ時代以来初めての演劇が開催されました。しかし、スペイン市民戦争 (1936~1939) の前後を含め約20年近くこのローマ劇場で演劇が催されることはありませんでした。その後、1954年から「メリダ古典演劇祭 (Festival Internacional de Teatro Clásico de Mérida)」が開催されるようになり、今年は第67回目のフェスティバルが7月から8月末まで約一ヶ月にわたって催されました。現在は演劇だけではなく、様々なコンサートが開かれ、また映画も上映されています。今年は去年に続きコロナ下での開催でしたが、多少の制限はあったものの多くの人がこのフェスティバルを堪能することができました。

ローマ劇場 観劇席への入口外観(写真:筆者撮影)

私は初めての観劇となりましたが、毎年必ず観に行く常連さんも多いようです。メリダの夏は、日中は40度前後まで気温が上がるので心配していましたが、開演時間が22時45分と日本人の感覚ではかなり遅いこともあり、暑さも感じず気持ちよく観劇できました。作品は全てスペイン語なので、全部を理解するにはかなり難しいとは思いますが、大体のあら筋を下調べしておけば後はローマ劇場の雰囲気を十分楽しむことができます。今回私が観た「愛の市場(Mercado de amores)」は、紀元前約200年の劇作家プラウトゥスの喜劇でした。YouTubeで劇が終わって役者達が挨拶する場面が出ています。雰囲気を知りたい方はどうぞ。

Final de “Mercado de amores” Festival internacional teatro clásico de Mérida. Julio 2021 – YouTube

ちなみに、主人公のパンフィロ(Pánfilo)の名前は、ギリシャ語では「全てを愛する者、誰でも好きになる人」という意味があるそうです。そしてスペイン語で パンフィロ(Pánfilo)は、「無気力な(人)、のろま(な)、お人好し(の)」という意味があり、面白いなと思いました。

ローマ劇場 メインエントランスを入るとトンネルが !(写真:筆者撮影)

メリダのローマ劇場について

さて、このローマ劇場は、ローマ時代はその植民都市として「エメリタ・アウグスタ」と呼ばれた現在のメリダに、紀元前16年から紀元前15年にかけてアウグストゥス帝の娘婿アグリッパ将軍の後援により築かれました。建設当初の観客収容人数は約6千人で、半円形の階段席は、花崗岩で覆われたローマンコンクリート(古代コンクリートとも呼ばれる)で造られています。現在の観客収容人数は3千人です。

ギリシャ劇場と同じように丘の傾斜を上手く利用した抜群の音響効果で、舞台から観客席まで生の声が鮮明に聞き取れます。既にローマ時代には数回の増築工事が行われ、ローマ時代の人たちの娯楽の場として活躍しましたが、その後、演劇は不道徳なものと考えるキリスト教の影響が強い時代へと移ると、4世紀頃にはローマ劇場は打ち捨てられていきました。そして1500年以上の年月は、劇場を土の下へ埋めてしまったのです。発掘が始まる前までは、 ローマンコンクリートで出来ている観客席のみが地上に現れていたそうです。

ウィキペディアには、1867年の発掘並びに再建前の写真がでています。残存していた観客席がまるで椅子のようだったので「七つの椅子( Las Siete Sillas )」と呼ばれていたそうです。現在の様子とはかなり異なることに驚かされます。

「七つの椅子(Las Siete Sillas)」Wikipedia Domain

そして前述したように、 1910年から本格的な発掘が進められ全容が現れました。実に発掘するため地下9メートルまで掘ったという記録が残っています。地中深く埋まってしまいすっかり忘れられてしまったローマ劇場の真上に、ジャガイモ畑があったり、闘牛場として使っていた時期もあったとか。

ローマ劇場 観劇席の入口から舞台を見る(写真:筆者撮影)

もし、7月から8月にかけてスペインを訪れるなら、旅のルートにこの2000年以上も前に建築されたローマ劇場で行われる 「メリダ古典演劇祭 (Festival Internacional de Teatro Clásico de Mérida)」 を加えて、ローマ時代の人たちのようにローマ劇場での演劇やコンサート等を是非楽しんでみてください。きっと、観光のみでは味わえない旅の思い出になること間違いなしです!

情報

・残念ながらスペイン語のみのサイトです。

Festival Internacional de Teatro Clásico de Mérida – (festivaldemerida.es)

・ スペイン観光公式サイトが日本語で「メリダ古典演劇祭」を紹介しています。

メリダ古典演劇祭。Mérida | spain.info 日本語

・ ローマ劇場について。英語版もあります。

レオン(León)へ行こう!(3)― グルッとローマ時代の城壁巡り

ローマ時代の城壁巡りの説明版

グルッとローマ時代の城壁巡り

同じカスティーリャ・イ・レオン州にあるアビラ市の城壁は11世紀の終わりに造られた中世の城壁ですが、こちらレオン市の城壁は、1世紀からのローマ時代のものと12世紀から14世紀に造られた中世のものとが混在しています。今回は、ご一緒にローマ時代の城壁をぐるっと周ってみましょう。

まずマヨール広場から出発です。 マヨール広場の時計台がある市役所を背にして左側にあるスクエアーからマヨール広場を出ると、左側に「ポンセの塔(Torre de los Ponce)」 があります。ここから左手に曲がりセラドーレス通り(Calle Serradores)を大聖堂に向かって歩いていきます。この道沿いには後述するクーボス通り(Avenida de los Cubos) と同じように城壁の円柱形の小塔(Cubo)と小塔の間に家が建っている面白い通りです。

「ポンセの塔(Torre de los Ponce)」マヨール広場からすぐ
「ポンセの塔(Torre de los Ponce)」 から大聖堂へ。左側にある円柱形の小塔と小塔の間には家が !

セラドーレス通り(Calle Serradores) の突き当りがプエルタ・オビスポ広場になり、レオン大聖堂の横に着きます。そのまま真っ直ぐ行くと階段があるのでのぼり、そこにはローマ時代の城壁巡りの説明版があり、右側の足元にはガラス張りを通してローマ時代の「テルマエ」が見えます。これは、その構造からプールまたは貯水槽だったと考えられています。大聖堂に圧倒されて見失いがちですが、大聖堂の横の地下部分にはローマ時代の遺跡が発見されているのです。ローマ時代には両側に塔と木製の開き扉がある東門のオビスポ門(Puerta Obispo) がここにあり、そこからローマ軍の駐屯地に入って行きました。

横から見たレオン大聖堂 ローマ時代のテルマエの遺跡をお見逃しなく!
門の両側に塔があったオビスポ門(Puerta Obispo)

さて、ローマ時代の遺跡テルマエを見たら階段を下りて大聖堂からすぐ左に曲がり、クーボス通り(Avenida de los Cubos)に入り歩いていきます。この「小塔の城壁 (muralla de cubos) 」は、3世紀から4世紀初めにかけて造られたもので、建設当初に造られた約半数に当たる36の小塔が今日まで残存しています。この小塔は、高半円式で直径が約8メートル、高さは約10メートル、城壁自体は約5メートルの厚みがあります。

クーボス通り(Avenida de los Cubos) 奥にレオン大聖堂が見える

そのままクーボス通りをまっすぐ道なりに歩いていくと、左手に曲がっていきます。城壁が続いていますが、左手に門が見えてきます。これがアルコ・デ・ラ・カルセル門(Arco de la cárcel)またはカスティージョ 門(Puerta Castillo )です。ローマ時代には、東にオビスポ門(Puerta Obispo )、西にカウリエンセ門(Puerta Cauriense )、南にアルコ・デル・レイ門(Puerta del Arco del Rey )、そして北にこのカスティー ジョ 門 (Puerta Castillo)がありましたが、今日ではその当時の姿が見れる門は残念ながら北門のみです。

アルコ・デ・ラ・カルセル門(Arco de la cárcel) またはカスティーリョ門(Puerta Castillo)

この門から城壁内には入らずに、そのまま城壁に沿ってラモン・イ・カハル通り(Calle de Ramón y Cajal) を歩いていき、突き当りを左側に曲がります。少し歩くとサン・イシドロ王立参事会教会(Real Colegiata de San Isidoro)の後ろに着きます

このように「ポンセの塔(Torre de los Ponce)」と呼ばれるマヨール広場の後側にある塔から「カスティージョ門( Puerta Castillo )」または 「アルコ・デ・ラ・カルセル門(Arco de la cárcel)」、そして 「 サン・イシドロ王立参事会教会の塔(Torre de la Basílica de San Isidoro )」までローマ時代の小塔を含む城壁が規則正しく残存しています。

城壁が終わった先にはサン・イシドロ王立参事会教会が

レオン市の城壁は、現存するローマ時代のローマ軍城壁としては、スペインの中ではおそらく最も古いものの一つだと言えます。ローマ時代は、城壁を四辺形にとり、その内部にローマ軍団の駐屯地が作られていました。その中には、兵舎、指令本部、古代ローマの護民官、地方総督の家々や、倉庫、井戸、テルマエ、そして城壁の外側に円形競技場がありました。

そして、現在のアンチャ通り(Calle Ancha)がローマ時代のメインストリートでした。

アンチャ通り(Calle Ancha) ローマ時代も現在もレオン市のメインストリート

コーヒータイム&ランチタイム

さて、サン・イシドロ王立参事会教会まできたら城壁巡りはここまでにして、ここからはルイス・デ・サラサール通り(Calle de Ruíz de Zarazar)に入り、コーヒータイム。

ルイス・デ・サラサール通り(Calle de Ruíz de Zarazar)
奥左側はグスマン宮殿(Palacio de los Gusmanes)、右側はガウディ建築のカサ・デ・ロス・ボティネ(Casa de los Botines)

ルイス・デ・サラサール通りには、私のお気に入りのカフェ書店 「トゥラ・バロナ(Tula Varona)」 があります。お茶もできますが、本屋さんでもあります。古本が主で、スペイン語だけではなく英語の本も置いてあります。本好きな弁護士である女主人の夢を体現した本屋さんで、2020年にオープンしました。店内は本に囲まれゆったりした気分でお茶が楽しめます。店の外でもコーヒーが飲めるので、コロナの今は安心ですね。コーヒーを飲みながら、ガウディ建築の カサ・デ・ロス・ボティネス(Casa de los Botines) が見えるのも嬉しいです。

お店の外でもお茶できます
お店の中はこんな感じです

このほか、この城壁巡りコース途中のクーボス通りにある、ミッシェラン1つ星のレストラン「パブロ(Pablo)」はお昼ご飯にお薦めです。テイスティングメニュー(Menú de degustación)とそのメニューに合うマッチングワイン(Maridaje)がありますが、テイスティングメニューは10種類以上の小ぶりな料理がでてきて、次にどんな料理が出てくるのかというサプライズと見た目にも美しい創作料理は、食事時間が楽しいものになること間違いなし! また、ふんだんに地元の食材を使った料理や郷土料理もしっかり含まれていて、旅行者にも嬉しいメニューです。お勧めの数種類のパンは全種類美味しい! 是非、全種類を食べ比べてみてください。ちなみにお値段の方は、2021年8月現在で、 テイスティングメニュー(Menú de degustación) が65ユーロ、 マッチングワイン(Maridaje)が35ユーロです。(ともに税込料金)

ちょっと奮発して、地方で活躍しているミッシェラン・シェフの料理を堪能してみるのも悪くないですね! スペインのレストランは一皿一皿が、ゆったりした時間で提供されるので、余裕を持たせてお昼ご飯の時間を2時間位確保してください。地方都市では、観光できる所は2時から4時くらいまでお昼休みに入ってどこも見れない所が多いので、ゆっくりお昼ご飯に時間をかけても大丈夫ですね。

レストラン「パブロ」大胆かつシンプルなデザインの店構え
色彩が美しい庭園を連想させられる肉料理の一品

ローマ時代の城壁に沿ってグルッと街を歩いていくと、点と点との観光が線の観光へとステップアップされて、街の様子がもっとリアルに実感できると思います。是非、レオン観光に行かれたら試して歩いてみてくださいね。そして、マドリッドやバルセロナ等の大都市とは異なる時間の流れを体験してみてください。きっと別の顔のスペインを発見できることでしょう。 

情報

・レオン市役所のサイト。英語版もありますが、内容は残念ながらスペイン語に比べて充実していないようです。

    Ayuntamiento de León – ruta romana (aytoleon.es)

・レストラン「パブロ」のサイト。”Reservas”から予約できます。

  住所: アベニーダ・ロス・クーボス(Avenida los Cubos)、8番地、レオン市

  郵便番号:24007

  メールアドレス: info@restaurantepablo.es

  電話番号:987 216 562 

    Restaurante pablo |

・ カフェ書店 「トゥラ・バロナ(Tula Varona)」

   住所:  ルイス・デ・サラサール通り (Calle Ruiz de Salazar)、18番地、レオン市