パスクワ(Pascua)はイースター?それともクリスマス?

今年ももうすぐ聖週間(Semana Santa)が始まります。今年2023年は、4月2日(日)から4月9日(日)の1週間です。スペインに旅行される方に気を付けてほしいのは、4月6日(木)の聖木曜日、7日(金)聖金曜日、8日(聖土曜日)そして9日(復活祭、イースター)の4日間は殆どの職場で休みとなるので、観光地やレストラン、ホテル等混雑することです。また、レンタカーなどで旅行しようとされている方も、交通量がかなり増加するのでご注意くださいね。

アストゥリアス地方ビジャビシオサ(Villaviciosa)の「サンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)」にある十字架にかけられるキリスト(写真:筆者撮影)

パスクワ(Pascua)はイースター?それともクリスマス?

知人から「Pascua」って「イースター」のことだと思っていたけど、クリスマスでも使うの?という疑問を投げかけられ、うーん、そういえば「ナビダ(Navidad)」以外で「パスクワ(Pascua)」も耳にすることがあるな、と今更ながら気づきました。(笑) それ以来、色々調べてみると興味深い内容のことが分かってきたので共有したいと思います。

調べてみると、クリスマスのことも「パスクワ・デ・ナビダ(Pascua de Navidad)」と言うし、主の御公現の祝日(1月6日の三賢王の日)のことも「パスクワ・デ・ロス・レージェス・マゴス(Pascua de Los Reyes Magos)」聖霊降臨の大祝日-復活祭後の第7日曜日-のことも、「パスクワ・デ・ペンテコステス(Pascua de Pentecostés)」と言います。

色んな場面で「パスクワ(Pascua)」という言葉は使われています。

¡Feliz Pascua!¡Felices Pascuas!は、単数形と複数形の違いですが、意味はかなり異なります。

単数形の場合は、復活祭(イースター)のことを表し、「ご復活おめでとうございます!」という意味です。キリストが復活したという聖日曜日(イースター)のミサの後などで使われる挨拶です。複数形の場合は、クリスマスのことを表し、「クリスマスおめでとう!」という意味で使われています。これは、クリスマスの当日だけに使われる言葉ではなく、クリスマス期間中(スペインでは12月24日のイブから1月6日の三賢王の日までずっとクリスマス期間です)には、いつでも使える挨拶です。

以上の通り、パスクワ(Pascua)はイースターでもあり、クリスマスでもあるのです。

サラマンカ新大聖堂にある東方三博士の礼拝(写真:筆者撮影)

パスクワ(Pascua)の語源は?

こんなにいろんな場面でパスクワ(Pascua)という言葉が使われていますが、語源は何でしょうか?

手元にある「Breve Diccionario Etimológico de la Lengua Castellana」というカスティジャー語の簡易語源辞典には、『ヘブライ語のPESACHA ído.、propte.の変形に由来し、ギリシャ語を経て、ラテン語のPASCHAから。【通過、移動】、ユダヤ人がエジプトからの脱出を記念する祭事である。スペイン語では、ラテン語のPASCUA、PASCUUM「動物の食べ物」の複数形(イースターの断食が終わったことによる混乱)の影響を受けて、この言葉が変化した。』と書かれています。

Pascua, 1090. Del latin, PASCHA, que por conducto del griego, procede de una variante del hebreo PESACHA ído., propte. “paso, tránsito”, fiesta con que los judíos conmemoraban la salida de Egípto. En castellano el vocablo se alteró por influjo del latin, PASCUA, plural de PASCUUM “alimento de los animales” (confisión sugerida por la terminación de los ayunos en Pascua).

旧約聖書の「出エジプト記」の中に、預言者モーセが、エジプトで奴隷として虐げられていたユダヤの民を脱出させたことが書かれています。エジプトのファラオが、脱出中のモーセとユダヤ人たちを捕えるために大軍を送りますが、モーセが海を割って道を作り無事脱出します。追ってきたエジプトの軍隊も道を通って海を渡ろうとしますが、再び海水が戻りエジプトの軍隊は海に飲み込まれてしまいます。これが有名な「モーセの海割り」の場面です。本や映画などで見聞きしている方も多いかと思います。このエジプト脱出をお祝いした祭りのことを指しています。

それにしても、このユダヤ教のお祭りが起源の言葉「パスクワ(Pascua)」が何故キリスト教で「クリスマス」や「復活祭」、そして「三賢王の日」や「聖霊降臨」の日にも使われるようになったのかは、まだ理解できませんよね。

カスティージャ・イ・レオン地方ブルゴス県のサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院にある
聖霊降臨(Pentecostés)の浅浮彫り (写真: アルベルト・F・メダルデ)

納得できたパスクワ(Pascua)の語源はこれ!

どうも納得できない私は、高名な神父(レオン大聖堂の前オルガン奏者のサムエル神父)にパスクワ(Pascua)の意味を尋ねてみました。すると、次のような答えが返ってきました。

パスクワ(Pascua)には、もともと食事、食べ物、宴会などの意味があった。祭事に欠かせないのは食事、宴会。それが「お祝い事」という意味に発展していき、キリスト教の中でのお祝い事に使われる言葉となった。だから、おめでたい事のみに使われる言葉で、例えば、キリストが死んだ聖金曜日などは、Pascua とは呼ばない。

確かに、前述したパスクワ(Pascua)の意味をもう一度見てみると、全てキリスト教にとっておめでたいことに使われ、「クリスマスのお祝い」「主の御公現(三賢王)のお祝い」「聖霊降臨のお祝い」、「復活のお祝い」という意味でパスクワ(Pascua)が使われていることが分かります。

クリスマス-「パスクワ・デ・ナビダ(Pascua de Navidad)」

復活祭-パスクワ・デ・レスレクシオン (Pascua de Resurrección)

主の御公現の祝日(1月6日の三賢王の日)-「パスクワ・デ・ロス・レージェス・マゴス(Pascua de Los Reyes Magos)

聖霊降臨の大祝日(復活祭後の第7日曜日)-「パスクワ・デ・ペンテコステス(Pascua de Pentecostés)

これで、私もすっきりと納得できました!

2000年以上前の言葉の語源になるのでどこまで真実かはわかりませんが、この理由が一番しっくりする語源でした。それにしても、ユダヤ教とキリスト教の切っても切れない繋がりを感じさせられた一語でした。

レオン大聖堂(写真:筆者撮影)

バレンシア シルク博物館(Museo de Seda)-絹が紡ぐ物語 西へ東へ 

3月は有名なバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」の月です。クライマックスの3月19日に向けて、今現在、様々な催し物や出店や屋台で賑わっているバレンシア。実はこのお祭りでは、バレンシア地方のとても豪華で美しい民族衣装をお目にかかれるチャンスです!

今回は、バレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」に華を添える民族衣装と切っても切れない関係がある絹の生産について、バレンシアの絹の歴史などを見ることができる「シルク博物館(Museo de Seda)」について紹介します。

「シルク博物館」の入口(写真:筆者撮影)

西の果てスペインと東の果て日本での絹

絹の起源は中国で、紀元前6000年とも紀元前3000年とも言われています。蚕や絹製造技術は門外不出で中国は長い間独占的に絹を海外へ輸出していました。日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたといいます。ただし、品質は中国絹にははるかに及ばなかったそうです。(参照: ウイキペディア)

ヨーロッパに絹製造技術が伝わったのはもっとずいぶん後のこと。6世紀から7世紀にかけて、二人の修道士が繭を隠し持ってビザンツ皇帝ユスティニアヌスの宮廷に乱入したという伝説が残っています。中国で何世紀もの間にわたって門外不出であった繭が持ち出され、その絹製造の秘密が東ローマ帝国に漏れてしまったので、中国以外の国でも絹製造が発達するのは時間の問題でした。そして、モンゴル、ペルシャ、アラビア、シリア、トルコ、北アフリカを結ぶ全域に広がり、徐々にヨーロッパに到達していきました。地中海に養蚕を伝えたのはアラブ人で、9世紀にはコルドバやグラナダ、その後トレドやバレンシアを経由してイベリア半島に到達しました。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)

バレンシア地方では15世紀から盛んに養蚕が行われ、絹を生産し、絹製品を作り出していました。18世紀から19世紀にかけてバレンシア地方での重要な経済活動の中心だった絹工業は、この街に大きなな富を生み出しました。前述したスペインの三大祭りの一つバレンシアの火祭り「ラス・ファジャス(Las Fallas)」でみられる「火祭り(ファージャス)の衣装(Traje de fallera)」は、この頃に今のような衣装になったようです。

一方日本では、200年以上も続いた鎖国が終わり、19世紀には絹貿易も開始されました。丁度、フランスやイタリアで蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足していた事もあり、瞬く間に蚕種や生糸は最大の輸出品になりました。これが日本の蚕糸業の飛躍の始まりでした。大正時代、第1次世界大戦後のアメリカの経済は益々発達して絹の需要が高まり、わが国の蚕糸業は空前絶後の黄金時代を迎えました。この頃、全国平均で農家の約4割が養蚕を行っていました。(「富岡製糸場と絹産業遺産群」ユネスコ文化無形遺産ホームページより)

バレンシアでは民族衣装を、日本では着物や帯というそれぞれ美しい絹製品が用いられています。丁度1年前の2022年2月には31着の着物がこの博物館で披露されていました。展示されていた着物を見たい方はこちらをどうぞ。(https://www.museodelasedavalencia.com/exposicion-kimono/) 私たちがバレンシアの豪華な民族衣装にため息をつくように、日本の美しい着物や帯はきっとスペインの人達を魅了したことでしょう。

プリント用の意匠(写真:筆者撮影)

バレンシアのシルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda -バレンシア語では Col·legi de l’Art Major de la Seda)

現在の「シルク博物館」は、バレンシアの「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の建物を修復したものです。この「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」の前身だった「ビロード織物師組合 (Tejedores de terciopelo-バレンシア語では Gremi de Velluters)」は1479年に発足しました。これは、一部の生産者の品質不足により生じた対立から、バレンシアの絹織物生産の基準を統一する必要があったからです。そして、1479年2月16日にギルドの最初の条例が承認され、これらの条例はカトリック王フェルナンドによって1479年10月13日に公式に批准され、その後、1686年にはカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされました。

「ベジュテルス(Velluters)」と呼ばれるビロード織職人がたくさん住んでいた地区が、今でも同じ名前の地区名でバレンシアの市内に残っています。そこにカルロス2世によって「シルクアート組合(Colegio del Arte Mayor de la Seda」に格上げされた組合の建物があります。建物自体は15世紀建築のバロック様式で1981年には国の歴史・芸術遺産に指定されますが、長い年月の間にすっかり廃れた状態にあったこの建物は大掛かりな修復工事が行われ、2016年に「バレンシア シルク博物館」として生まれ変わりました。

スペイン語ですが、バレンシア シルク博物館に至る修復工事プロジェクトについての動画を見たい方はこちらをどうぞ。修復される前の建物の様子が分かり、興味深い動画です。

ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史的アーカイブ

「シルク博物館」の中には、ヨーロッパで最も重要なギルドの歴史を知ることができる歴史資料室があります。48枚の羊皮紙、660冊の書籍、97個のアーカイブボックスからなり、5世紀以上にわたって保管されてきました。その中には、ギルドの歴史や条例、議事録、親方・職工・徒弟の帳簿、工場や店の管理・検査に関する帳簿などが含まれています。興味深いことには、規格に適合しない布地を没収して焼却するという検査業務もあり、ギルドは絹製品の品質管理、品質保証も担っていました。

「シルク博物館」のアーカイブは、15世紀から20世紀末までのバレンシア経済の変遷を研究する基礎資料の一つとして重要視されています。特に、15世紀バレンシアの商業や社会構造、そして当時の交易路や条約とのあらゆる関係を理解することに重要な役割を果たしています。(バレンシア「シルク博物館(Museo de Seda)」のオフィシャルサイトの説明より)

また、18世紀後半のバレンシア市内の人口は10万人程でしたが、バレンシアのシルクアート組合は約4万人の人達に仕事の機会を与えていたので、人口の4割の人が絹産業に携わっていました。

歴史資料室にて(写真:筆者撮影)

美しいバレンシアの民族衣装と博多織

個人的な話で恐縮ですが、昨年日本に里帰りした際、福岡の博多を訪れる機会がありました。そして、「博多町家ふるさと館」という博多の伝統工芸を紹介する博物館に行った際、博多織の実演を見ることができました。

「博多町家ふるさと館」に展示されていた7種類の博多織 (写真:筆者撮影)

興味のある方は、こちらでも見れます。

バレンシアの「シルク博物館」では、ベジュテルと呼ばれるビロード織の実演を見ることはできませんでした。というのも、昨年2022年に「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏が他界したため、もう2度とバレンシアの伝統工芸ビロード織の実演を見ることができなくなったからです。本当に残念なことです。

スペイン語では、ビロード織のことを「テルシオペロ(terciopelo)」と言います。「テルシオ(tercio)」は「3番目」、「ペロ(pelo)」は「毛」のことを意味するスペイン語です。説明によると、3番目の糸を切って毛羽立たせていく技術を使ってビロード織は織られていくので、この名前がついたそうです。3本ごとに一本一本手作業で糸を切っていきながら生地を織っていく様子を想像すると気が遠くなりました。1枚のドレスを作るのに2ヵ月かかり、その値段は20万ユーロ(現在日本円で約280万円)もするのも納得いきます。

バレンシア 「シルク博物館」に展示してあった布地(写真:筆者撮影)

「最後のビロード織師(El último Velluter)」だったビセンテ・エンギダンツ氏の動画です。繊細な作業の様子が見て取れます。

バレンシアの「シルク博物館」では、繭から糸を紡いていく実演を見ることができました。実演していたスペイン人の方が色々な説明をして下さり、興味深く学び多いものとなりました。

2~3㎝の一つの繭からなんと、1000メートルもの絹糸が取れるそうです‼驚きました。一つの繭は1本の糸からできていて、その長さは1000~1500メートルに及び、天然繊維で唯一の長繊維です。そして、その糸の太さは、髪の毛の約10分の1という超極細糸です。

絹糸を作るには以下の3つの工程(Tres baños)から成っています。

第1工程(Primer baño)繭を湯に漬けた状態で一本一本の糸を取り出していきます。

第2工程(Segundo baño)セリシン(sericina)を取り去ります。セリシンとは、蚕が絹の生産の際に作るタンパク質で、セリシンが残っている状態では肌触りが硬いので、糸にする際にお湯で煮て表面のセリシンを落とす精錬作業を行います。

第3工程(Tercero baño)染色します。

この3工程を経ることにより、手触りがざらざらした糸から心地よい手触りの糸へと変わっていくのです。そして、ここでは、各工程ごとの糸を実際に触らせてくれます。繭も触ることができて、初めての体験を楽しみました。子供さんたちと一緒に行っても、学習体験型思い出多い博物館見学となること間違いなしです!

第1工程 繭を湯に漬けた状態で一本一本糸を取り出していく(写真:筆者撮影)

19世紀の機織り機が置いてありますが、この機織り機は博多織の機織り機と瓜二つのものでした。いわゆる紋紙と呼ばれる織物の模様に応じて穴をあけた紙を用いて織るものです。

博多織の動画と見比べてみてください よく似ています (写真:筆者撮影)

染色の材料となるもの

さて、絹糸の染料に使われる材料となるものは色々ありますが、私の目を引いたのは紫がかった赤色、赤紫色(púrpura)です。ヨーロッパでは高貴な色、貴重な色として重用されていましたが、贅沢や権力を表現する色としても扱われてきました。その染料の原料は、スペインカナリア諸島でとれる巻貝です。貝から染料を取る技術を開発したのはフィニキア人だったようで、ローマ時代からカナリア諸島のイスロテ・デ・ロボスという島へこの貝を採りに行っていました。この巻貝からとれる僅かな染料からあのゴージャスな赤紫色(púrpura)が作り出されていたのです。

展示してあった染料の貝(写真:筆者撮影)

日本では「貝紫染め」と呼ばれていて、「草木染め」と比べあまり一般的ではありませんが、現在独自の技術で「貝紫染め」を行っている工房があります。宮崎県にある「綾の手紬染織工房」です。興味深い内容ですのでこちらをどうぞ。

https://www.ayasilk.com/workshop/royal_purple.html

シルク博物館内の説明文によると、中世に染色技術が完成の域に達したのはユダヤ人染色家たちのお陰ったらしく、15世紀にバレンシアにやってきたジェノバ人の絹織物職人がこの染色のやり方を伝えたものと考えられています。当時一般的だった染料は、次のようなものでした。

赤紫色(púrpura)

黒(negro)-ブナ科の植物の若芽が変形し瘤になった没食子(もっしょくし、agallas de roble)、クルミ(nuez)、アーモンド(almendra)、漆(zumaque)等

深紅色(rojo carmesíコチニールカイガラムシ(cochinilla)、ケルメス(虫 quermes)

黄色サフラン (azafran)、エニシダ (retama de tintoreros) 等

青色 (azúl)ホソバタイセイ(hierba pastel)、インディゴ (indigo)

本当に様々な材料を使って生地を染めていたようです。染料について草木染め以外には知識がなかったので、貝や虫、クルミや虫こぶなどの没食子なども染料として使っていたことは、新鮮な驚きであり、人間の知恵の奥深さを感じさせられました。

博多織の染色で使われている木附子(写真:筆者撮影)

最後に

日本の民族衣装「着物」もバレンシアの民族衣装も、中国から渡ってきた絹の技術に端を発し、独自の形に発展してきたことに興味をそそられました。西と東の端の国で経済的にも文化的にも重要な位置を占め、そこに住む人々に対して多大な影響を与えた「絹」が紡ぐ物語を知ることができたバレンシアの「シルク博物館」は、訪れる価値のあるものでした。

バレンシアは「絹」と共に成長した街で、他にも絹の商品取引所で世界遺産にもなっている「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(La Lonja de la Seda)」は必見です。

バレンシアを訪れる際は、「シルク博物館」に是非立ち寄ってみてくださいね。

美しく豪華なバレンシアの民族衣装(写真:筆者撮影)

バレンシアの「シルク博物館」情報

住所:オスピタル通り7番地(Calle Hospital, 7)
電話:(34)697 155 299 / 96 351 19 51 E-mail:reservas@museodelasedavalencia.com     
開館時間:火~土 10:00~19:00 日曜日 10:00~14:30 *月曜日は休館                                     入場料:8€    学生(国際学生証必要) 7€   無料-12歳までの子供                       特別パス(シルク博物館+サン・ニコラス教会+サントス・フアネス教会) 12€  

参考

・バレンシアの「シルク博物館」の公式サイト。

https://www.museodelasedavalencia.com/

・富岡製糸場と絹産業遺産群

https://worldheritage.pref.gunma.jp/tomikinu/index.php/silkindustry/

・バレンシア州制作の「バレンシアのシルクロード」の公式サイト。

https://ruta-seda.comunitatvalenciana.com/ruta-seda

・「博多町家」ふるさと館の公式サイト。福岡に行かれた時は是非お寄りください。

https://www.hakatamachiya.com/

・スペイン観光公式サイト。

https://www.spain.info/ja/supein-tankyuu/barenshia-ruto-shiruku/

ロマネスクへのいざない (9)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県(6) – モラディージャ・デ・セダノのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Moradilla de Sedano)

キリスト教最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられた教会

県庁所在地ブルゴス市から北へ約50㎞、一年を通して常住している村人の数が10人ちょっとという村というより小集落とでもいった方がぴったりな所に、一見あまり装飾のない直線的な教会があった。モラディージャ・デ・セダノ村にあるサン・エステバン・プロトマルティル教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir)だ。プロトマルティル(Prótomartir)とは、(キリスト教)最初の殉教者という意味。聖人ステファノ(スペイン語名ではエステバン)は、紀元35年または36年頃に石打の刑によって殉教したギリシア系ユダヤ人だった。(ウィキペディアより)

最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられたこの教会は、1188年に建てられたとガイドブックには書いてあったが、外見はもっと時代が下った様式のようだ。17世紀末または18世紀初頭に後陣(アプス)と翼廊部分の一部が火事で焼け落ちたといわれている (きちんとした文書としては残っていない)。ブルゴス県の中だけではなく、カスティージャ・イ・レオン州の中でも後期ロマネスクの最も優れた教会の一つと言われているのでここまで訪ねてきたが、ロマネスクにしては装飾があまりない外見は、ちょっと期待外れだったというのが第一印象だった。教会の入口は鍵で閉ざされており、中も見れないらしい…。

教会の周りを繁々と見ていると、この教会を見に来たという親子二人に出会った。この二人は、事前にこの教会の管理人と連絡を取っていたので、もうすぐ管理人が来て教会を開けて見せてくれるとのこと。なんて、運がいいんだろう!と喜び、私たちも管理人が来るのをしばらく一緒に待っていた。

村の高台にあるこの教会から見るセダノ谷の景色は美しい。この教会が建てられた12世紀とあまり変わらない景色が広がっているのではないだろうか。

教会の敷地内に十字架があった。(写真:筆者撮影)

教会入口に入るとそこには・・・!

管理人が来て、鍵を開けて中に入れてくれた。中に入った途端、素晴らしいタンパンが目に飛び込んできた。12世紀に作られた教会の玄関は、20世紀に作られた覆いにより風雪から保護されていたのだ。ロマネスクの宝のようなこのタンパンは、アーモンド型の中に座っているキリストを中心に沢山の人物や天使、植物などが所狭しと彫られていてる。キリストが左手に持っている本は、この地上に誕生したすべての人の名が記された「命の書」だ。そして、アーモンド型の枠部分に “vicit leo de tribu iuda, radix David, alelluia” という文字が見える。これは、「ユダ族の獅子。
ダビデの子孫が征服したのだ! アレルヤ!」という旧約聖書の言葉が刻んである。旧約聖書には救世主はダビデ王の子孫から現れるという記述があり、そこから、キリスト教において「ダビデの子孫」とは救世主イエス・キリストを意味する。他には、アーモンド型の外側にカーブを描くように4人の天使が見られるが、これは新約聖書の4つの福音書を書いた、ルカ、マタイ、マルコ、ヨハネを表している。

タンパンを囲む繰り型(縁取り)のアーキボルトは3本ある。下から見ていくと、最初のアーキボルトには真ん中に天使が座りその両側にそれぞれ黙示録の12人の長老たちが楽器を弾いているが、聖書の記述にあるように、キリストこそが「命の書」を閉じている封印を解くことができると祝っている姿を現しているとか。24人の長老たちの頭には光輪がみえる。(「Portadas románicos de Castilla y León formas, imágenes y significados」 Marta Poza Yague, Fundación Santa María la Real del Patrimonio Histórico より)

天使の羽が赤いのは12世紀に作られた当時は多彩色で装飾されていたため。
(写真:アルベルト・F・メダルデ)

真ん中のアーキボルトには、新たにユダヤ人の王となる子(イエズス)が生まれたと聞いてヘロデ王がベツレヘムで2歳以下の男児をすべて殺した「幼児虐殺」(La matanza de los inocentes)大天使ミカエルによるマリアに神の子を身ごもったという知らせをする「受胎告知」(La anunciaióm)聖母マリアがエリザベトを訪問する「エリザベトご訪問」 (La visitación)天使によってヘロデ王が幼子イエズスを殺す企てがあると知らされたマリアとヨゼフがエジプトへ逃れる「エジプトへの逃避」 (La huida a Egipto)ロマネスクでよく見られる場面が描かれている。

また、上半身に鷲の翼を持ち下半身がライオンである伝説上の生物グリフィンギリシア神話に登場する半人半獣の種族ケンタウロスが矢を持つ姿、ライオンの首を切る人物(サムソンか?)なども描かれている。宗教的なモチーフと伝説や神話の生き物などが同じアーキボルトに関係性もなく描かれているのは興味深い。12世紀のロマネスク時代にはまだまだキリスト教一色ではなく、伝説や神話が宗教と共存してもっと自由に表現できたんだろう。

そして一番上のアーキボルトには、生命力の象徴である植物アカントスが施されている。

ケンタウロスやグリフィンの姿も見える。中央に女性が抱き合って再会を喜んでいるのが「マリアのエリザベトご訪問」、その隣に天使と両手を広げている女性は「受胎告知」、左手には「幼児虐殺」の場面も。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

入口の両側に柱があるが、左側の柱頭には「最後の晩餐」の場面があり、右側の柱頭には「馬上槍試合」まるで日本の狛犬のような生物などが描かれている。

最後の晩餐(写真:アルベルト・F・メダルデ)
右端が「馬上槍試合」、その隣はまるで狛犬!(写真:アルベルト・F・メダルデ)

珍しいことに、この入口の両側には、しゃがみこんでいる人物の上に立つ2人の大きな像がある。こういった像は初めて見たので、管理人の方に何を表しているのかと尋ねてみると、「下にいるのが悪魔で上にいるのがその悪魔を退治しているとか、下は旧約聖書を表し上は新約聖書を表している等いろいろ言われているが、本当のところはまだわかっていない」との説明があった。

家に戻って本やインターネットでも探してみたが、「預言者に寄りかかる福音史家を表していると思われる」(Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)より)とか、「しゃがんだ姿勢の悪魔のようなものを槍で突く天使とされ、罪に対するキリストの勝利と解釈できる寓意的表現である」(arteguia.com より)等と、全く異なる説明がしてあった。

こちらが問題の二人?! (笑) (写真:アルベルト・F・メダルデ)

教会の内部

素晴らしい装飾と未だに謎に包まれた入口を見た後に教会の内部へと入ると、3本の柱が束ねられたように立っており、その柱3本ともがジグザグ状に造られている!!! 今から800年以上も前に建てられた教会の中で、まるで現代建築のような斬新なデザインの柱に遭遇しようとは夢にも思っていなかった。管理人によると、世界で唯一だという。何故このデザインなのかということは分かっていないが、たぶんオリエントの影響だろうということだった。

まるで現代建築のような新鮮さ!(写真:アルベルト・F・メダルデ)

3本の束になっている柱の柱頭部分には主に植物のモチーフが施されていたが、神話に出てくる女の頭を持つ鳥ハイピュリアも見られる。装飾技術の高さやモチーフ等から、同じブルゴス県にあるサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院(Monasterio de Santo Domingo de Silos)の石工の棟梁の弟子たちによって造られたと考えられている。(サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院については、こちらもどうぞ)

このブログの最後に載せている動画の中で、「この時代には『ドラゴンを教会の中に入れる』ことは禁止されていたが、ある柱頭部分にはドラゴンの姿が見られ、『ドラゴンが紛れ込んでいるよ』」という説明部分がある。教会内部にドラゴンがいるのは珍しいことだという。空想上の生物ドラゴンが、まるで実在するかのような説明に思わず吹き出してしまった。コッソリとそしてひっそりと800年以上も居座っているドラゴンを愛おしくも感じた。残念ながら、私が訪れた時にはドラゴンの説明がなく、教会を住まいとする「紛れ込んだドラゴン」を見つけることはできなかったので、写真はない。それにしても、禁止されていたドラゴンを教会の中に入れ込んだ石工は冗談でやったのか、それとも禁止されていたことへの抗議か、はたまたドラゴンの姿をしてドラゴンに非ずで別の生物として描かれたのか、今となっては謎だ。

石工による装飾技術の高さが窺える(写真:アルベルト・F・メダルデ)
神話に出てくる女の頭を持つ鳥ハイピュリア(写真:アルベルト・F・メダルデ)
「威厳」「尊厳」を意味するクジャクが2羽(写真:アルベルト・F・メダルデ)
祭壇部分は14世紀に造られたゴシック様式(写真:アルベルト・F・メダルデ)

教会の外

教会の入口がある南側の壁には、20世紀にタンパンを守るように作られた覆い兼入口の左側には3つのアーチが、右側には二つのアーチがある。これは、ロマネスク様式のポーチ型回廊を数世紀後に解体し、壁に取り付けたものである可能性が高い。(arteguia.com より)

解体前のポーチ型回廊は、さぞ美しいものだっただろう。ロマネスク後期の作品でゴシック様式の影響を受けているのか、アーチはロマネスク特有の完全な半円形ではなく、若干頭の部分が尖っているのが分かる。

左側にある3つのアーチ。先がちょっと尖り気味(写真:アルベルト・F・メダルデ)
ドラゴンとハイピュリアの姿が見える(写真:アルベルト・F・メダルデ)

最後に

教会に着いた時のちょっと期待外れ…という気持ちは一気に吹き飛び、入口のタンパンやアーキボルトの素晴らしさ、内部にある忘れられない印象的なジグザグ状の柱など、ブルゴス県の中だけではなく、カスティージャ・イ・レオン州の中でも後期ロマネスクの最も優れた教会の一つと言われていることに納得した。

もし興味のある方は、事前に連絡してから行くべきだろう。扉を開けてもらい、アッと驚かされる素晴らしい装飾や斬新なジグザグ状の柱などがあるロマネスクの魅力一杯の教会内部を見ずして帰ってしまうことだけは避けたいものだ。

ジグザグ状の柱や禁止されていたドラゴンを教会内に施した石工達の考え方や意図するもの等を色々想像しながら、答えのない答えの推理を自分なりに巡らすことも、ロマネスク訪問の楽しみの一つだと改めて実感した。

参考

ここで紹介したモラディージャ・デ・セダノのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Moradilla de Sedano)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つです。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にして下さい。

・スペイン語ですが説明が詳しいので、興味のある方はどうぞ。

https://www.arteguias.com/iglesia/moradillodesedano.htm

https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/burgos_MORADILLO_DE_SEDANO.pdf

・スペイン語による説明ですが、教会の中も見れます。ここで説明している人物は、私たちにも説明してくださった管理人の方のようです。

・ブルゴス県の観光案内。英語もあるのでここから教会へ入るための予約をするとよいでしょう。

https://turismoburgos.org/iglesia-de-san-esteban-de-moradillo-de-sedano/#

・参考文献:

-「Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)」出版社:Encuentro Ediciones

– 「Portadas románicos de Castilla y León formas, imágenes y significados」 著者: Marta Poza Yague, 出版社: Fundación Santa María la Real del Patrimonio Histórico

スペイン版除夜の鐘と年越しそば?大晦日の12個のブドウとは?

今年も残すところ2週間をきりました。スペインに住んでいると12月24日のクリスマス・イブを皮切りに、年が明けて1月6日までの三賢王の日までの2週間は、何かと家族や友人が集まり食べて飲んで歌って踊ってと、賑やかかつ胃腸にはハードな時期です。私は「マラソン・クリスマス」と勝手に呼んでいます。(笑)

「マラソン・クリスマス」の丁度中間地点にあたる大晦日。スペインでは、大晦日の夜は家族みんなや友人たちと一緒にワイワイといつもより豪華な食事をとるのが一般的です。普段はスペインの夜ご飯が始まる時間は遅いのですが、この日は0時の鐘の音とともに12個のブドウを食べなければならないので、余裕をもって夕食会を始めるスペイン人が多いようです。

大晦日の12時の鐘に合わせて食べる12個のブドウ

ひとしきり大晦日の夜ご飯が終わると、各人が12個のブドウを手にしてテレビの前に集まります。遅くても0時15分前にはテレビにスイッチを入れます。テレビをつけると、スペイン国営放送がマドリードのソル広場(Puerta del Sol) にある王立郵便局 (Real Casa de Correos) の時計台と、新年を迎えようとソル広場に詰め掛けている人々の姿が映し出されます。

ソル広場(Puerta del Sol) にある王立郵便局 (Real Casa de Correos) の時計台(写真: 筆者撮影)

12時の鐘が鳴る直前には、鐘が鳴ると同時に食べ始められるように、皆テレビの前でブドウを手にして待ち構えています。そして、鐘が鳴り始めると一斉に12個のブドウを次々と口の中に入れていくのです。最初の2~3個を食べている間は、「今年はいけるかも!!」と思うのですが、どんどん口に入れるにつれ、噛んで飲み込む時間が無くなってきて、口いっぱいに頬張りながら10個目くらいで12の鐘が鳴り終わってしまうことが多いですね。スペインのブドウは大粒なものが多く、皮と種もそのまま全部食べるのが一般的です。私は、これでは絶対無理!と悟り、ここ数年は事前に皮をむいて種もとった12個のブドウを自分用に用意しています。(笑) 最近では、種無し皮をむいたブドウの入った缶詰が売られていますよ。皆、考えることは同じですね。(笑)

そして、12の鐘が鳴り終わってブドウ12個を食べ終わったらすぐに、皆で抱き合って、両方の頬にキスをして「新年おめでとう!(¡Feliz año nuevo!)」と言いながら、シャンパンでお祝いします。

その始まり

この12個のブドウを鐘の音と一緒に食べて新年を迎えるという習慣は、一体いつ頃どういう理由で誕生したのでしょうか。

1895年、ブドウ農家の人達がその年特に豊作だったブドウを売りさばくために始めたという説や、フランスから輸入された習慣だという説、12粒のブドウを食べると1年の幸運と繁栄につながるという、もともと古くからの言い伝えがあったという説、地域によってはブドウを食べることで魔女や悪一般を追い払うと信じられていたという説など、いろいろな説があるようです

(写真: 筆者撮影)

何はともあれ、今は12個のブドウを12の鐘の音が鳴り終わるまでに食べてしまうと、新年は豊作、良い年、幸せになると言われていて、皆12の鐘の音が鳴り終わるまでに12個のブドウを食べ終わられるよう懸命です。今年も12個のブドウの皮と種を取って準備万端で大晦日を迎えるつもりです。(笑)

終わりに

もし大晦日の日にマドリードに滞在する機会があれば、あなたも是非12個のブドウ持参で王立郵便局 (Real Casa de Correos) 前でスペイン式に新年をお祝いしてみてはいかがでしょうか。きっと忘れられない一生の楽しい思い出になること間違いなしです!ブドウの皮をむいて種を取っておく準備をお忘れなく!

レオン(León)へ行こう!(4)―クリスマスツリーの前身か⁈「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」

12月に入り、スペインの街は一気に賑やか、華やかになってきています。街には色鮮やかなクリスマス・イルミネーションが始まり、クリスマスの飾り付けがお店屋さんや街角でもお目見えしてきています。最近のスペインの傾向としては、伝統的ないわゆるキリスト教に関係するイエス誕生にまつわる場面の飾り付け等はどんどん影をひそめ、もっと商業的でニュートラルなデザインのイルミネーションや飾り付けが幅を利かせています。個人的には華やかなイルミネーションではなく、原点に立ち返ったイエス誕生を祝う喜びの祭典、長く寒く暗い冬を生活する庶民の楽しみでもあり喜びでもあったクリスマスを祝うもっと素朴で精神的で伝統的な飾り付けの方に心を惹かれます。

古くて新しいクリスマスの飾り

実は、レオン市ではここ20~25年位前からお目見えした古くて新しいレオン特有のクリスマスの飾り付けがあります。「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」と呼ばれる飾り付けです。最近では、レオンの街中に大きなこの飾り付けが立てられたり、街中を歩いていると様々な店先でこの飾り付けを見ることができます。私が最初に留学した90年代前半には見たことも聞いたこともないものでしたが、今ではとてもポピュラーな飾り付けとなっています。

レオン街中の公園に今年も現れた巨大なレオンのラモ・レオネス (写真: 筆者撮影)

クリスマスのラモ・レオネスは木製のフレームを使用しますが、その形は日本の相合傘のイラストを思い出していただくとわかりやすいかと思います。三角形の真ん中から出ている木製の一本足が台に乗っているというイメージです。上の写真をご覧ください。百聞は一見に如かずですね。三角形部分は、半円形や四角形のものもありますが、私が実際に見たものは殆ど三角形のものでした。そして、その三角形の2等辺部分には1年12ヶ月を表す12本のロウソクを飾り、三角形の底辺部分にはリボン、毛糸、刺繍、レース、果物、ビスケットなど、さまざまな種類の供物を吊るします。一本足が乗る台には、栗や木の実を入れた籠などが飾れれていることもあります。

クリスマスのラモ・レオネスの起源

クリスマスのラモ・レオネスの起源は、キリスト教以前の時代まで遡ります。「ラモ・レオネス」の「ラモ(ramo)」とはスペイン語では木の枝という意味の言葉ですが、「Ramo leonés de Navidad」を直訳すると「クリスマスのレオンの枝」という意味です。つまりその起源には、キリスト教以前のヨーロッパ諸国で一般的だった自然崇拝があり、特に樹木崇拝があります。樹木崇拝は、春を迎える前兆としてまた冬至にまつわる祭事で豊穣の象徴として一般的なものでした。レオンにおける「ラモ・レオネス」も、豊穣を祈り春への序曲として捧げられていたものだったと考えられています。

約200年ほど前に作られた「ラモ・レオネス」現存するものでは最も古いものだとか(写真: 筆者撮影)

そして時代が下り、キリスト教がこの地にもたらされた時には「ラモ・レオネス」は異教徒のシンボルとされましたが、だんだん教会に適応されていきました。これは、キリスト教がヨーロッパ全土に広がっていく過程ですべての地域で行われた適応の一つで、もともと古くからその土地で祝われていた儀式やお祭りを異教徒のものとして切って捨ててしまうのではなく、上手くキリスト教儀式の中に取り込む形で融合させていき、人々の反発を買うことなく、人々の心をつなぎとめ、キリスト教の布教を助ける働きをしていったのです。

クリスマスのラモ・レオネスは、クリスマスツリーの前身とも言われているそうです。

クリスマスのラモ・レオネスの種類

レオン地方の村々には、色んな種類の「ラモ・レオネス」があります。代表的なものをいくつか見てみましょう。

植物の枝で作られたもの。これは、キリスト教以前にあった最も古い原型に近いものです。常緑樹の植物から採取するのが一般的だったようで、月桂樹、ヒイラギ、松などの枝を使用していました。

偏菱形 (へんりょうけい)のもの。これは、先端が上向きと下向きの2つの三角形で形成されているものです。

キュービックのもの。これは、2つの正方形がマストと互いに結合して形成されているため、立方体状になっています。

円筒形のもの。2本の水平な木の輪を重ねたもので、マストに取り付けられています。

ラストル。草を集めるための農具に形が似ているためこの名がつきました。長方形です。

他にも様々にアレンジされたものがあるようですが、やはり一般的には相合傘のやつが主流のようですね。

売られていた様々な「ラモ・レオネス」(写真: 筆者撮影)

蘇ったクリスマスのラモ・レオネス

長い伝統を持ち、キリスト教にも上手く融合しながら生きながらえてきたこのクリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」は、私たちがよく知っている姿のヨーロッパ他国の伝統であるクリスマスツリーがスペインに入ってくると、だんだんと姿を消していきました。実際、今から約20年ほど前までは、私の知っているレオンの友人や家族などほとんどの人達は「ラモ・レオネス」について見たことも聞いたことなかったそうです。

1996年のクリスマスに、レオン伝統文化協会(La asociación ‘Facendera pola Llingua’)が、レオン語(ラテン語から派生した一つで、カスティージャ・イ・レオン州のレオン県とサモラ県の一部で話されている-ウィキペディアより)で書いたクリスマスカードに「クリスマスのラモ・レオネス」の絵を描き入れて大量に印刷して配ったことから、このレオンの伝統的な飾り付けが一般的に知られることになりました。

それ以来少しずつ市民権を回復していき、私が調べた限りでは、2014年よりレオン市内の広場に8メートルもの巨大な「ラモ・レオネス」が飾られています。それ以前の2010年のレオンの新聞記事には、レオンにある大手デパート「エル・コルテ・イングレス(El Corte Ingés)」にこの飾り付けを売るコーナーが登場したり、街中の店のショーウインドーに飾り付けられていることが載っていました。また、2005年のレオンの新聞「ディアリオ・デ・レオン」には、広場に飾られている「ラモ・レオネス」に毎日2000人の人が見に来ていると報じています。

最後に

クリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」が復活してきた90年代後半といえば、スペインの経済は好景気が始まりどんどんグローバル化が進み、他のヨーロッパ諸国に追いつけ追い抜けの時代でした。 スペイン国外のクリスマス様式や飾り付けもどんどん導入され、画一的かつ商業的なものへと急速に変化していったこの時期に、もっと自分たちだけのローカルなもの、自分たちの起源となるものに目を向けるようになり、レオンの人々から忘れ去られた飾り付けが復活し、現代に生きるレオンの人々に受け入れられたことは面白いことです。グローバル化が進むことで逆にアイデンティティーを求める機運が高まったのでしょう。一方で、多くの若者にとって宗教というものが遠い存在になっている今、また、キリスト教という宗教に反発・反感を抱く広い世代の人々にとっても、キリスト教が入ってくる以前から存在していたこの飾り付け「ラモ・レオネス」は、もっとニュートラルで宗教色の薄いクリスマスの飾り付けとしてすんなり抵抗なく受け入れられたのでしょう。

クリスマスの飾り付け一つからでも、その時代に生きる人々の考え方や生き方、時代の流れ、主張とてもいうべき声なき声などが聞こえてきそうで、興味深いものです。

もし、クリスマスの時期にスペインを訪れる機会があれば、是非レオンまで足を延ばしてこのクリスマスツリーの原型といわれている「ラモ・レオネス」を見に来てくださいね。

情報

・2020年12月18日付け「ディアリオ・デ・レオン (Diario de León)」という地方新聞に、レオンのクリスマスブーケについて詳しく報道されています。このブログの内容もこの記事を参考にしてます。

https://www.diariodeleon.es/articulo/navidad-leon/ramo-leones-navidad-tradicion-leon/202012181539372071100.html

ロマネスクへのいざない (8)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県(5) – ハラミージョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora en Jaramillo de la Fuente)

ハラミーリョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教は、調和のとれた気品あるロマネスク建築の一例だ(写真:アルベルト・F・メダルデ)

ハラミージョ・デ・ラ・フエンテという村に着き、聖母被昇天教会(Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora-ラ・アスンシオン・デ・ヌエストラ・セニョーラ教会)を見たとき、青い空と前庭の緑の芝生、そして太陽の光を浴びた黄金色の石と赤い屋根がとても素敵な色のコントラストをなしていて目を奪われた。とても調和のとれた美しいロマネスク様式の教会だ。

ちょうどスペインではお食事時間の午後2時半ごろに着いたので、殆ど村には人がいなかったが、一人おじいさんが教会の前を通ったので、「教会には入れますか?」と尋ねると、「あー、今は昼ご飯の時間なので4時以降だったら教会の近くに住む神父に頼めるよ。」と教えてくれた。そして、教会を見上げながら、「わしらの教会はとっても美しいだろう?」と誇らしげに言っていたのが印象的だった。こんな小さな村に、ロマネスク様式の宝物のような教会があることに本当に驚きを感じた。

スペインの文化財

ハラミージョ・デ・ラ・フエンテ村の聖母被昇天教会に関する最古の記録は982年まで遡り、このブログでも紹介したことのあるサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院(Monasterio de San Pedro de Alranza)の管轄範囲にあったことが、約100年後の1119年にウラカ女王自らが確認している。(https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/burgos_JARAMILLO_DE_LA_FUENTE.pdf より)

サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院(Monasterio de San Pedro de Alranza)について興味のある方はこちらをどうぞ。

約1000年の時を経た1991年に、スペインの文化財として歴史的・芸術的モニュメント(Bien de Interés Cultural)に指定された。この辺りには、ブルゴス地方にあるシエラ・デ・ラ・デマンダ(Sierra de la Demanda)と呼ばれる山脈全地域に存在していた「山の学校 (Escuela serrana)」と呼ばれたロマネスク建築群があるが、その中でもハラミーリョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教会は、特に気品があり興味深いロマネスク建築の一例として知られている。

裏側に回って見る鐘楼(写真:アルベルト・F・メダルデ)

柱廊玄関(La galería porticada)

ガレリア・ポルティカーダ(Galería porticada)と呼ばれる柱廊のある玄関は、計7つの半円形アーチで構成され、左側(東側)は2つのアーチ、右側(西側)には4つのアーチがあり、左右対称ではないが不思議ととても調和がとれている。

ガレリア・ポルティカーダ(Galería porticada)(写真:アルベルト・F・メダルデ)

この「7つ」のアーチの数字の「7」には、初期キリスト教における7つの主要教会として、新約聖書ヨハネの黙示録の中で言及されている教会(エフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオディキア)を指し、完全な数を表している。(「Rutas Romanicas en Castilla y León/2 (provincia de Burgos) (カスティージャ・イ・レオン州のロマネスク・ルート 2 ブルゴス県編)」Luis María de Lojendio(ルイス・マリア・デ・ロヘンディオ)著, Abundio Rodriguez(アブンディオ・ロドリゲス)著、 Ediciones Encuentro, S.A. (エンクエントロ出版社) より参照)

「7」という数字には、キリスト教の中で「完全、完璧に終わる」という意味が込められている。神はこの世界を「7日」で創造した(「7日」で完成した)。キリスト教には、洗礼、聖体、堅信、告解、病者の塗油、叙階、婚姻と呼ばれる「7つ」の秘跡がある。これらの「7」の数字のシンボルとして「完成、完全」などの意味を含んでいるのである。(「Iconografía y Simbolismo Románico (ロマネスクの図像とシンボリズム)」より。David de la Garma Ramírez (ダビッド・デ・ラ・ガルマ・ラミレス)著、Arteguias(アルテギアス)発行)

これら7つの各アーチには2本の柱がそれぞれあり、その柱頭には興味深い彫り物が施されている。いくつか見てみよう。

教会に向かって左側(東側)には、まるで2つの肖像画のように頭部が描かれているが、一つは巻き毛の人、もう一つは怪物のような顔が見える

二つの頭部の髪の毛部分の細かな彫りに注目(写真:アルベルト・F・メダルデ)

次の柱頭には、ギリシャ神話に出てくるお馴染みのケンタウロス(半人半獣の種族)とハイピュイア(女面鳥身の生物)が見える。

ケンタウロス(半人半獣の種族)とハイピュイア(女面鳥身の伝説の生物)(写真:アルベルト・F・メダルデ)

右側(西側)のアーチに目を向けると、王と王妃の頭が見える。王の顎髭のカールした描写や王妃の冠の細かい模様は素晴らしい

王と王妃の頭(写真:アルベルト・F・メダルデ)

その隣の柱頭には、図案化された植物の模様が見られる。

図案化された植物(写真:アルベルト・F・メダルデ)

鐘楼(La torre)

3層から成る鐘楼(写真:アルベルト・F・メダルデ)

角形の鐘楼は3層から成る。下から2層目と3層目に半円形の大きなアーチがあり、そのアーチの中に同じようには半円形の小さな双子型のアーチがある。このタイプの鐘楼はハラミージョ・デ・ラ・フエンテ村のこの教会だけではなく、近隣の町のいくつかの教会でも繰り返し用いられているタイプの鐘楼である。(Arteguiaのウエブサイト「Iglesia de Jaramillo de la Fuente 」より )

後陣またはアプス(El ábside)

愛嬌のある生き物たちや神話の生き物たち(写真:アルベルト・F・メダルデ)

後陣またはアプス(ábside)と呼ばれる部分の中央には、細長い採光窓がある。上の写真で見てもらえるが、半円形のアーチの右上には四足を持つ動物と左上には鳥が描かれていて、二つとも愛嬌のある姿である。また、2本の柱頭には、素人目にもはっきりと、ハイピュイア(女面鳥身の伝説上の生物)とグリフォン(鷲の翼と上半身、ライオンの下半身をもつ伝説上の生物)の姿を確認することができる。質の高い出来と石材が周りの部分と異なることから、この教会の聖堂や身廊の他の部分を手がけていた工房とは別の工房で作られたと思われる。(Arteguiaのウエブサイト「Iglesia de Jaramillo de la Fuente 」より )

見れば見るほど面白いモチーフ(写真:アルベルト・F・メダルデ)

後陣またはアプス(ábside)の装飾には、ヤギ、熊等の動物や、読書する僧、天を見上げる二人の男性、アクロバット(?)をする男性または恥部を露出している(?)男性等、好奇心を掻き立てられるモチーフがある。

出入口(La puerta

教会の出入口(写真:アルベルト・F・メダルデ)

柱廊玄関(La galería porticada)を入ると、教会への出入口がある。柱廊玄関(La galería porticada)の庇によって雨風等から守られたためか12世紀の教会としては保存状態が良く、多彩色で装飾された痕跡も見て取られる。そして、5つの半円形のアーチボルト、左右2本ずつ丸い柱とその上に柱頭があり、柱頭には下の写真のように興味深い装飾が施されている。

向かって左側から見てみよう。二股に分かれた尾鰭を持つ人魚。次は、両手を膝の上に合わせて両側からライオンに襲われている人。右側の柱では、旧約聖書の士師記の中で語られる怪力の持ち主サムソンを題材とした「ライオンと戦うサムソン」。そして、最も右側にある柱頭には、後脚で立つライオンが描かれている。

ロマネスクによくみられる二股に分かれた尾鰭を持つ人魚(写真:アルベルト・F・メダルデ)
両肩をライオンから嚙みつかれている人(写真:アルベルト・F・メダルデ)
ロマネスク彫刻に特に好まれて描かれたライオンと戦うサムソン(写真:アルベルト・F・メダルデ)
後脚で立つライオン(写真:アルベルト・F・メダルデ)

最後に

今回は、時間の都合で教会の中に入ることはできなかったので、帰ってきてこの教会の内部についても調べてみたが、ハラミージョ・デ・ラ・フエンテ村の聖母被昇天教会の見どころは外観にあることが分かった。

こちらの動画に教会の中が少し見える。教会内部は、後期ゴシック様式だという。

それにしても、ロマネスク建築の装飾のモチーフは面白く、飽きさせない。旧約聖書に出てくる場面を装飾にしたものは、識字率が極端に低かった当時、教会へ訪れる信者たちへビジュアルで理解を助けていただろうということはよくわかるが、何故、アクロバットだの、ライオンから嚙まれている人だのが教会の出入り口などのモチーフに使われたのか理解に苦しむ。と同時に、だからロマネスクの教会を訪れるのはとても楽しく、笑ってしまうモチーフ探しをやめられない

別の機会に、ロマネスク装飾のモチーフについても紹介しよう。

参考

ここで紹介したハラミージョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora en Jaramillo de la Fuente)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つです。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にして下さい。

・スペイン語ですが、教会についてだけではなく、興味深い図面なども見れます。

https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/burgos_JARAMILLO_DE_LA_FUENTE.pdf

・こちらもスペイン語ですが、興味のある方は是非ご覧ください。

https://www.arteguias.com/iglesia/jaramillofuente.htm

・デマンダ連峰の観光案内。残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/

・デマンダ連峰にあるロマネスク建築のパンフレット。これも残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/wp-content/uploads/2019/01/FOLLETO-ROMA%CC%81NICO-SERRANO.pdf

ロマネスクへのいざない (7)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県 (4)– サン・ペドロ・デ・テハダ教会 (Iglesia de San Pedro de Tejada)

正面からみたサン・ペドロ・デ・テハダ教会 (Iglesia de San Pedro de Tejada) / 写真:筆者撮影

ロマネスク様式の絶頂期に造られたサン・ペドロ・デ・テハダ教会

カスティージャ・イ・レオン州のブルゴスから北へ車で約1時間程に行くと、スペインで2番目に長く大きな河川であるエブロ川流域の村にこのサン・ペドロ・デ・テハダ教会はある。静寂に包まれているサン・ペドロ・デ・テハダ教会は、周囲の景色と溶け込んでまるで今にも修道士たちが教会から出てくるような錯覚に陥らせてくれる。

車は教会の下方にある村に停めてなだらかな坂を上っていくと、すらりとしたサン・ペドロ・デ・テハダ教会の姿が現れる。ロマネスク様式によくみられるずんぐりとした雰囲気はない。伸びた鐘楼部分と入口の三角の屋根は神の国を目指しているような印象を与える。

教会の敷地の前にある柵の前で、事前に電話予約していた管理人の方が鍵をもって待っていて下さった。

横から見たサン・ペドロ・デ・テハダ教会 (写真:アルベルト・F・メダルデ)

サン・ペドロ・デ・テハダ教会は、セノビオ(cenobio)と呼ばれる共住苦行者たち(初期修道士たち)が作った修道院を受け継いだものだが、修道院自体は紀元850年まで遡る。現在の教会は12世紀前半に造られ、12世紀といえばロマネスク様式の絶頂期であった。このサン・ペドロ・デ・テハダ教会はこの地方特有のロマネスク様式の特徴を併せ持つ、最も完全で保存状態の良いロマネスク様式の教会の一つだ。他のロマネスク様式の教会によくみられる時代ごとの改修などもなく、12世紀そのままの姿を21世紀に生きる私たちの目の前に現してくれている。ちなみに、原型となった修道院は今は全く存在せず、教会のみが残っている。しかし、この修道院は当時この地方で重要な役割を果たし、サン・ペドロ・デ・テハダ修道院の修道士たちの中から、同じ今のブルゴス県にあるオーニャという町に1011年に設立され19世紀まで続いたたベネディクト会のサン・サルバドール・デ・オーニャ修道院 (Monasterio de San Salvador de Oña)の設立者たちがでたという記録が残っている。

教会の入口(Portada)

サン・ペドロ・デ・テハダ教会の入口 (写真:アルベルト・F・メダルデ)

サン・ペドロ・デ・テハダ教会の入口には、特徴のある刳(く)り型彫刻や飾り持ち送りが見られる。スペイン語ではモディジョン(modillón)またはカネシージョ(canecillo)と呼ばれる8つの飾り持ち送りがあり、左右両側の二つは羽のあるマタイ(Mateo)、マルコ(Marcos)、ルカ(Lucas)、ヨハネ(Juan)の4人の姿が表してある。この4人は、福音書を書いた4人である。そして、残りの四つはテトラモルフ(tetramorfo)と呼ばれるこの4人の福音記者を象徴する形象が施してある福音記者4人とテトラモルフによる福音記者4人の形象が同じところにあるのは珍しいということだった。ちなみに、左から鷲の姿をしたヨハネ、雄牛の姿をしたルカ、獅子の姿をしたマルコ、人間の姿をしたマタイである。飾り持ち送りの真ん中には、上昇するキリストの姿が見て取れ、キリストの昇天を表している

8つの飾り持ち送りの下には左右両側に刳(く)り型彫刻が見えるが、キリストの12人の弟子が6名づつ彫られている幾人かの弟子は両手を上に広げた姿をしており、これは「オランス(=祈る人)」の姿勢と呼ばれるものであり、ここでは弟子たちがキリストに対する期待、望みなどを表しているのだという

更に、両端の刳(く)り型彫刻の下には、キリストの「最後の晩餐」と「人間の上にライオンが押し乗っている姿」が表してあるが、これについては未だにその解釈ははっきりされていないとのことだった。

上段:福音記者の2人(右端と右から2番目)とテトラモルフで左から雄牛の姿をしたルカ、獅子の姿をしたマルコ、人間の姿をしたマタイ 
ルカとマルコの間に両手を広げたキリストの姿が見える
中段 :キリストの12人の弟子のうちの6人 
下段:人間の上にライオンが押し乗っている姿 (写真:アルベルト・F・メダルデ)

石材と飾り持ち送りのモチーフ

サン・ペドロ・デ・テハダ教会に使われた石は、下層部分は石灰岩(piedra de caliza)で上層部は凝灰岩(piedra de toba)である。凝灰岩は石材としては軽いもので、まだ建築技術が発達していなかったロマネスク時代において負担を軽くするためにこの石材が選ばれたという。

ユーモラスな動物たち(写真:アルベルト・F・メダルデ)

さて、サン・ペドロ・デ・テハダ教会の入口だけではなく、教会の側面部分や鐘楼部分にも飾り持ち送りが施されている。その一つ一つを見ていくと、笑いを誘うものや不思議なもの、楽器を弾く人やもしかしたらこの教会に携わったのかもしれないと想像させられる石工の姿、ユニークな動物たちや扇情的な人物像等々、実に様々な飾り持ち送りが施されていて、見ていて飽きない

人を踏みつけている悪魔?楽器を弾く人等(写真:アルベルト・F・メダルデ)
聖職者、淑女またはシスターの隣には陰部を見せる男女が!(写真:アルベルト・F・メダルデ)

サン・ペドロ・デ・テハダ教会の内部

管理人の方に案内され、教会の内部へと足を入れると想像以上に広く高く感じた。塔部分は17メートルあるということで、現代の建物でいえば5階建てというところだろうか。

サン・ペドロ・デ・テハダ教会は唯一の身廊が3つの部分を成していて、翼のない公差部(crucero sin alas)の上に二層からなる塔が建造され、突き当りに祭壇がある半円形の後陣(ábside)がある。祭壇の壁部分に5つのアーチと柱頭(capitel)がある柱がある。その5つのアーチのうち真ん中のアーチの上には窓がある。現在はミサ等の宗教的な儀式は行われていないので、十字架や聖人の像などもなく至ってシンプルだ。

しかし、祭壇部分に入るアーチ(arco de triunfo)の柱頭部分を見上げると、その細かな彫刻に目を引かれる。4人の聖人と5人の聖人から構成された図柄で、5人の聖人たちはテーブルに集い宴のためのグラスを用意しているかのようだ。4人の聖人の方はそれぞれ手にグラスを持ち、まるで誰かに差し出しているかのようだ。そして、それらの緻密な彫刻の上の部分には市松模様(ajedrezado)で飾られている。この聖人たちの彫刻は、カスティーリャ地方のロマネスク様式の彫刻の中でも最も素晴らしい彫刻の一つだということだった。内部の写真撮影は許されなかったので、教会内部やこの素晴らしい彫刻の写真がなく、紹介できないのは残念だ。

後陣から見たサン・ペドロ・デ・テハダ教会(写真:アルベルト・F・メダルデ)
鐘楼部分とその左側にはこの地方特有のウシ―ジャ(usilla)と呼ばれる螺旋階段が見える

最後に

サン・ペドロ・デ・テハダ教会は、様々な本にはブルゴス地方に残るロマネスク様式の教会でも最も美しい教会の一つとして紹介されているが、私はブルゴス地方のみならずスペイン国内に残るロマネスク様式の教会の中で最も美しい教会の一つだと思う。その姿は、堅固かつ調和のとれたものであり、天へ昇る精神性を体現するかのようだ。ロマネスク様式の教会に興味ある方にもそうでない方にも是非訪れてほしい教会の一つである。

現在は個人の所有物となっているが、前述したように事前に予約を取っていけば管理人の方が敷地内に案内してくださり、教会の内部も見せてもらえる。説明もしてくださり、様々な質問にも答えてくださった。説明してもらえるロマネスク様式の教会はなかなかないので、この機会に色んな事を尋ねてみるとよいだろう。(管理人の方には、心付けを忘れずに!)

約900年もの長い歳月、ここにすっくと立つさまは周りの景色と融合し、当時の修道士たちの祈りやこの教会を建設し、様々な楽しい飾り持ち送りを作った石工などの話し声が聞こえてきそうだ。遠くから聞こえてくる鳥の声を聴きながら、サン・ペドロ・デ・テハダ教会を後にすることが名残惜しく感じた。

参考

ここで紹介しサン・ペドロ・デ・テハダ教会 (Iglesia de San Pedro de Tejada)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つです。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にして下さい。

・カスティージャ・イ・レオン州観光公式サイト。サン・ペドロ・デ・テハダ教会がある役所の連絡先が載っているので、事前に確認してから訪ねることをお薦めします。 スペイン語が話せる方は直接こちらへ連絡されるといいです。 947 303200 y 652641079                    英語で予約したい方はこちらからどうぞ。ブルゴス地方観光局:(Oficina de Turismo Regional de Burgos)947 203 125 または 947 276 529。メールアドレス: oficinadeturismodeburgos@jcyl.es

https://www.turismocastillayleon.com/es/arte-cultura-patrimonio/monumentos/iglesias-ermitas/ermita-san-pedro-tejada?isprediction=1

・カスティージャ・イ・レオン州観光公式サイト。こちらは英語版。

Hermitage of San Pedro de Tejada – Official Portal of Tourism. Junta de Castilla y Leon (turismocastillayleon.com)

・youtube でも紹介されています。残念ながらスペイン語のみです。

Iglesia Románica de San Pedro de Tejada (Merindad de Valdivieso) – YouTube

・エンリケ・デ・リベロ(Enrique de Rivero)という方のウエブサイトの中に、サン・ペドロ・デ・テハダ教会の内部の写真があります。興味のある方はどうぞ。

http://www.burgossinirmaslejos.com/blog/san-pedro-de-tejada-el-escondido-tesoro-de-valdivielso/

知る人ぞ知るマドリードの隠れ美術館(?!)-セラルボ美術館(Museo Cerralbo)

ベネチア製の大鏡で装飾されている舞踏室(Salón de Baile) (写真:筆者撮影)

セラルボ美術館(Museo Cerralbo)とは

マドリードのスペイン広場からすぐ近くに知る人ぞ知る邸宅美術館があります。マドリードには、かつて「住まい」として使われていた建物が美術館になっているものがいくつかありますが、その中の一つがセラルボ侯爵家の邸宅を開放して作られたセラルボ美術館です。(スペインの画家ホワキン・ソロージャの美術館もソロージャの邸宅でした。ソロージャ美術館については、こちらからどうぞ。スペインの画家ホワキン・ソローリャ(1863-1923)とソローリャ美術館 | おいでよ!スペイン)

この美術館はあまり知られていないようで、スペイン人の友人・知人の中でも知っている人、知っていても訪れたことのある人はあまりいませんでした。実は、私も今回初めてこの美術館の中に入りました。見どころは、なんといっても19世紀から20世紀初頭にかけてのマドリードの貴族たちの生活様式を垣間見ることができることです。建物自体は4階建てでそのうち1階と2階が公開されていますが、1階は侯爵家の日常生活の空間、2階は社会生活における職務空間や社交空間に使われていました。

ピンクの居間(Salón Rosa) 侯爵夫人やその友人たちがおしゃべりする部屋(写真:筆者撮影)

興味深いことには、もともと考古学に造詣が深い侯爵が、考古遺物なども展示する博物館としての機能も考慮に入れてこの邸宅を建てたそうです。実際、2階にある舞踏室は、踊るだけではなく考古学の展示会や数学、文学の夕べなどが開催される場所として使われていました

建物は、1883年から1893年に住居として設計されて建てられましたが、現在では外見のみがオリジナルで、内部は大掛かりかつ細かな作業が行われて改修されました。当時の貴族邸宅の典型的な装飾は丹念に復元されてその部屋に展示してあり、スペイン19世紀当時の生活様式を知ることができるマドリードでも珍しい美術館です。

黄色の間(Salón Amarillo)オリジナルの壁紙。(写真:筆者撮影)
19世紀半ばに流行した機械刷りのプリント壁紙は、室内装飾の工業的進歩を取り入れた良い一例

セラルボ侯爵とは

この邸宅に住んでいたのはエンリケ・デ・アギレラ・イ・ガンボア(Enrique de Aguilera y Gamboa)侯爵とその家族でした。彼は第17代セラルボ侯爵で、この美術館の名前もセラルボ侯爵の名前から付けられています。

セラルボ侯爵は政治家したが、歴史家、考古学者としても活躍しました。スペインの王立歴史アカデミーの会員で、スペイン国内のソリア県にあるトラルバ遺跡やアンブロ―ナ遺跡の発掘をしたり、自分が発掘した遺跡についての本を書いたりしました。この発掘した考古遺物などを前述したように舞踏室に展示して、当時の貴族階級の人々やエリート階層の人々に紹介していたそうです。

1922年、77歳で亡くなった彼は、すべての考古学的発見物をスペイン国立考古学博物館と国立自然科学博物館に遺贈し、マドリードのベントゥーラ・ロドリゲス通りの自邸にセラルボ美術館の創設を命じました。(Wikipedia 参照)

エンリケ・デ・アギレラ・イ・ガンボア(Enrique de Aguilera y Gamboa)氏(第17代セラルボ侯)の肖像画(写真:筆者撮影)

15世紀から19世紀にかけての絵画が充実!

16世紀から17世紀にかけてスペインにて活躍した有名な画家エル・グレコ (El Greco) の作品「聖フランシスコの法悦 (San Francisco en éxtasis)」やイタリアルネサンス期の画家ティントレット (Tintoretto) の「紳士の肖像 (Retrato de Caballero)」をはじめ、スペイン画家の黄金時代(15世-17世紀)に活躍したバロック期(16世紀末-17世紀初頭)のスペインを代表する画家のひとりフランシスコ・デ・スルバラン (Francisco de Surbarán) の「無原罪の聖母 (Inmaculada Concepción)」とホセ・デ・リベーラ (José de Ribera) の「ヤコブとラバンの群れ (Jacob con los rebaños de Labán)」、そして17世紀に活躍しスペインのバロック絵画の進展において重要な画家であったアロンソ・カーノ (Alonso Cano) の「悲しみの聖母 (La Piedad)」等、プラド美術館でお馴染みの画家たちの絵画がこのセラルボ美術館でも見ることができます。

ホセ・デ・リベーラ(José de Ribera)の「ヤコブとラバンの群れ」(Jacob con los rebaños de Labán)(写真:筆者撮影)

その他にも、動物や狩猟の情景、静物画を描くのを得意としたポール・デ・フォス (Paul de Vos) の「狩りの風景」、17世紀に活躍したフランツ・スナイデルス (Frans Snyder) の「ヤマアラシと毒蛇 (Puercoespines y víboras)」、同じく17世紀に活躍したヴァン・ダイク (Van Dyck) の「聖母子像 (La Virgen con el Niño)」等、フランドル(今のオランダ)出身の画家たちの絵画も多く見ることができます。

沢山の絵画が所狭しと廊下や部屋の壁に掛けられていて、絵画好きな方には見逃せない美術館だといえるでしょう。

フランシスコ・デ・スルバラン (Francisco de Surbarán)の「無原罪の聖母」(Inmaculada Concepción)(写真:筆者撮影)

日本の甲冑が!

19世紀、ヨーロッパの貴族や金持ちの間で東洋等の戦用の武器や甲冑などをコレクションすることが流行しました。これは、18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで起こった精神運動の一つロマン主義の影響を強く受けているものです。このロマン主義は、エキゾチシズム、オリエンタリズム、神秘主義、中世への憧憬といった特徴がありますが、スペインのセラルボ侯爵家でも例に漏れることなく、東洋的でエキゾチックな日本の甲冑や脇差しをはじめ、フィリピン、ボルネオ島、インド、マレーシア、トルコ、モロッコ、オセアニアの武具など700点ほどをコレクションしています。

2階の武具展示室には、セラルボ侯爵の先祖が活躍した中世への憧憬も重なり、旧家主の高貴な歴史を物語る様々な武器や甲冑のコレクションが飾られています。また、天井を見上げると、セラルボ侯爵が持つ13の爵位を表す家紋入りの盾型紋章が見られます。ちなみに、招待客はまず中世の武具が並ぶこのスペースへ招かれ、紳士がレディの手の甲にキスをする挨拶の儀式が行われていたそうです(スペイン文化・スポーツ省作成 日本語版ガイドブックより)。セラルボ侯爵家の先祖がそうしたように、まるで中世へタイムスリップしたかのような儀式が19世紀に行われていたようです。

武具展示室(Armería)の天井には13の家紋入りの盾型紋章が見える(写真:筆者撮影)

同じ2階の部屋に「アラビアンルーム 」と呼ばれる部屋があります。これは喫煙ルームで、基本的に男性専用の空間でした。このタイプの部屋は19世紀ヨーロッパでとても流行し、オリエンタルキャビン、トルコ風ルームなどと呼ばれていました。この「アラビアンルーム 」に前述の日本の甲冑や中国、フィリピン、モロッコ、ニュージーランドの骨董品が飾られています(スペイン文化・スポーツ省作成 日本語版ガイドブックより)。洋館の中にエキゾチックな空間が演出されていて、なんとも不思議な気持ちにさせられました。

「アラビアンルーム (Sala Árabe)」に飾ってある江戸時代(18世紀)の日本の甲冑(写真:筆者撮影)

19世紀までのバスルームとは?

面白いことに、仰々しい挨拶の儀式が行われていた武具展示室バスルーム とつながっています。侯爵家の先祖が使っていた西洋の甲冑などが展示してあるその一角に、なんと大理石!!で作ったバスタブが備え付けてあるバスルームがあるのは、えっ?!って感じです。

スペインでは19世紀後半に水道が(agua corriente)が通り始めました。それまでは、どんなに金持ちの家でもバスルームという部屋は存在しませんでした。基本的には、寝室にて沸かしたお湯を洗面器に入れて体を拭いていたようです。セラルボ侯爵家の大理石のバスタブや温水と冷水の蛇口があり排水口がついているバスルームという特別な部屋は、実際には主に招待客に見せるためのものだったとのこと (スペイン文化・スポーツ省作成 日本語版ガイドブックより)。なんだか日本人からすると、19世紀までお風呂がなかったのが普通だということ自体信じられない気もします。ちなみに、スペインではこの水道が通ったおかげで今までの生活スタイルが一変したとのことです。

豪華な大理石のバスタブ(写真:筆者撮影)

興味深いことは、日本の入浴文化は、神道の習慣だった川や滝で行ってきた禊(みそぎ)の習慣があったところに6世紀の仏教伝来とともに入ってきた沐浴の功徳-病を退けて福を招来するもの-という仏教の教えが広まって、身体を洗い清めることは仏に使える者の大切な業と考えられるようになり、庶民にもどんどん入浴文化が広まってきたとか (Wikipedia より)。ところが、仏教では入浴を奨励したのとは反対に、キリスト教では、裸で集まるローマ式の風呂は退廃的だということや、風呂にも入りよく手洗いをする清潔好きだったユダヤ人と区別をするため、キリスト教信者には風呂に入る習慣や体を清潔に保つことを許さなかったようです。ローマ時代にはあれだけお風呂大好きだったローマ人たちの子孫は、キリスト教が広まるに従い風呂嫌いな人たちになっていったようです。今のスペインでは、殆どの人が毎日シャワーを浴びていますが、つい100年ほど前までは今では当たり前のことも当たり前ではなかったようですね。普段当たり前だと思っている習慣も、時代と場所が変われば当たり前じゃなかったんだな、と改めて当たり前のことを考えさせられたセラルボ侯爵家のバスルームでした。(笑)

家族用の食堂兼居間に置いてある召使いを呼ぶための銅鑼(どら)(写真:筆者撮影)

19世紀のスペイン貴族・知識階級の暮らしをのぞいてみよう!

紳士の集会や娯楽のためのや喫煙ルーム、侯爵夫人が親しい人を迎えるための秘密のキャビネット、セラルボ侯爵の寝室、家族用のこじんまりとした祈祷室、食事以外でも読書、裁縫、トランプゲームなどにスペースを利用できた家族用の食堂兼居間、前述の武具展示室バスルームアラビアンルーム、悪天候から植物を保護するためや観葉植物を維持するための温室として作られたサンルーム、晩餐会や豪華なビュッフェの舞台となった広いバンケットルーム、19世紀の男性に好まれたビリアードを楽しめるビリアードルーム、セラルボ侯爵の執務室、簡素であまり広くはないながらもおよそ1万冊の蔵書を誇る図書室、中庭を囲むように設計され、招待客が簡単に行き来しながら壁にある貴重な絵画の数々や天井画を鑑賞できるようにとイタリアの宮殿を模倣して造られた3つのギャラリールーム、招待客が踊れるだけではなく、考古学の展示会や数学、文学の夕べなどが開催された舞踏室等々、このセラルボ美術館では、日常使いの部屋や社交・交流の場としての部屋などが多様かつ不統一ながらも、当時の流行とセラルボ侯爵個人の好みが組み合わされ、19世紀スペインの貴族・知識階級の生活を垣間見ることができます。

壁にかけてある絵画や天井画を鑑賞できる3つのギャラリーのひとつ(写真:筆者撮影)

日々の応接間として使われていた談話室は、様々な訪問者を招く部屋として想定してあり、暖炉のそばに座って談笑したり、トランプをしたり、軽食をとったりするための家具が多くあります。また、侯爵夫妻がイタリア旅行の際にもとめられたムラノのクリスタル製の大きなシャンデリアは、イタリアのゴンドラの形をしているうえにその色合いもシャンデリアとしてはかなり派手で個性的です。中央のテーブルには19世紀のマイセン磁器の2脚の水差しと水、火、大地、空気という4つの自然がモチーフになった2点の大きな壺が飾られたり、とにかく目立つ調度品が飾られています。(スペイン文化・スポーツ省作成 日本語版ガイドブックより)

ゴンドラの形をしたムラノのクリスタル製シャンデリア(写真:筆者撮影)

面白いことには、ガラス張りのサンルームは、夏の酷暑と冬が厳しいマドリードの気候には合わなかったらしく、最終的にはガラス面はカーテンで覆い、コレクション展示室として使われていたそうです (スペイン文化・スポーツ省作成 日本語版ガイドブックより)。マドリードに夏訪れたことのある方には理解できるかもしれませんが、あの日差しの強いマドリードの夏の間、ガラス張りの温室ではとてもとても暑くてくつろぐことなんてできないですよね。

大テーブルでの晩餐会はスペインでは19世紀初頭に始まった(写真:筆者撮影)
席に着けない数になった時はブッフェ式(立食パーティー)で行われた

最後に

19世紀のスペインは、イサベル2世が統治する絶対王政から短いながらも共和制に移行し、そして再び王政復古を迎えて、政治的には国を二分するような様々な問題に直面した変動の時代でした。このセラルボ侯爵は、1845年に出生し1922年に没しているので、政治家としてかなり厳しい時期に生きてきた人でもあります。ヨーロッパを見てみても、1914年には第一次世界大戦が勃発しています。スペインは中立の立場をとりましたが、それでも激動の時代を生きてきた侯爵であったことは間違いないようです。

セラルボ美術館を見てみると、華やかな貴族・知識階級の生活スタイルを見ることができますが、きっと、セラルボ侯爵邸の中では激動の時代に相応しい緊張した会話が交わされていたことでしょう。そういった歴史的背景も思い浮かべながら美術館を訪ねると、ますます感慨深いものです。

玄関ホールに入ると左右に階段がある(写真:筆者撮影)

セラルボ美術館 開館情報

住所:ベントゥーラ・ロドリゲス通り1番地(C. de Ventura Rodríguez, 17)
最寄り駅:プラサ・デ・エスパーニャ(Plaza de España 3号線・黄色、10号線・紺色) ベントゥー     ラ・ロドリゲス(Ventura Rodríguez 3号線・黄色) 、ノビシアード (Noviciado 2号線・赤色) 、プリンシペ・ピオ(Príncipe Pío 6号線・灰色、10号線・紺色)     
開館時間:火~土 9:30~15:00(最終入館 14:30)日・祝 10:00~15:00           木 17:00~20:00(但し、木曜日が祝日の場合は休み)
*月曜日・1月1日・1月6日・5月1日・12月24日・12月25日・12月31日・マドリードの祝日(2022年は11月9日)は休館                                    入場料:3€  無料-祝日を除く木曜17:30~20:00・日曜・4月18日・5月18日・10月12日・12月6日、18歳未満、25歳未満の大学生(国際学生証必要)、65歳以上、教師(国際証明書必要)              *バッグ、リュック、傘、かさばる物、荷物は、美術館のロッカーに預けなければなりません。

セラルボ美術館 情報

・スペイン文化・スポーツ省が作成した日本語版ガイドブック。興味がある方はどうぞ。もし、セラルボ美術館に行く機会があれば、ダウンロードしてこのガイドブックを見ながらゆっくり鑑賞するとより理解が深くなること間違いなし!ダウンロードはこちらから。

https://www.culturaydeporte.gob.es/mcerralbo/dam/jcr:e1aeeb17-ca41-4c5f-ace8-838b3fbfa480/2021-cuaderno-salas-cerralbo-japones.pdf

・セラルボ美術館公式ウェブサイト。英語版があります。

https://www.culturaydeporte.gob.es/mcerralbo/informacion/visita.html

SouthernValleyDiary という方がアップされているYouTubeには、美術館の中が見れますよ。

ロマネスクへのいざない (6)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県 (3)- サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院 (Monasterio de San Pedro de Alranza)

屋根部分はないがロマネスク建築が見られる教会部分(写真:アルベルト・F・メダルデ)

「カスティージャのゆりかご(Cuna de Castilla)」

アルランサ川が岩を削って作った壮大な峡谷にあるこのサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院は、緑深き自然の中に姿を現した。素晴らしい景色の中、突如廃墟となったサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院が現れたとき、人里離れたこの場所を選んだことに納得できた。「スペインで最も美しい村」という協会に認定され登録されている村の一つであるコバルビアス(Cobarrubias)から7~8km程の距離にあり、修道院に着くまでカーブの多い道で距離的には近いが車で10分位かかった。

今は廃墟となっているサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院は、スペインの重要文化財に指定されている。912年に設立されたベネディクト会修道院で、当時約50人程度の隠者たちがこの庵に住んでいたことが記録に残っている。そして1080年にロマネスク様式の教会が建設された。その後「カスティージャのゆりかご(揺籃・ようらん)」と呼ばれ、カステージャ王国の重要な修道院と発展し、修道士たちの数も増えていった。それに伴い、拡張工事も行われ、ゴシック様式、バロック様式、ルネサンス様式が加わり、時代ごとに異なる様式の建物部分を含む修道院となっていった。

メンディサバル法によって解体される前のサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院の模型(写真:アルベルト・F・メダルデ)

「メンディサバル法(Desamortización Eclesiástica de Mendizabal)」による明け渡し

約900年間も修道士たちが暮らし修道院としての機能を果たしていたが、1835年の通称「メンディサバル法」と呼ばれる主にカトリック教会を対象に行われた「永代所有財産解放令」によって解体されてしまった。これは、スペイン国内の修道院や教会が所有していた土地を没収し、競売にかけ、教会権力をそぎ、公的債務を解消し国富を増やしたが、このメンディサバル法によって由緒ある修道院等が明け渡されることになり、一気に廃墟となって、修道院や教会にあった建築的、美術的な価値あるものが次々と国内外に流出することにもなった

スペイン国内に散在するサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院のものとしては、次のようなものが挙げられる。

教会のファサード。1895年にマドリッドの国立考古学博物館に移された。

カスティージャ王国のフェルナン・ゴンサレス伯爵と妻サンチャとムダーラのロマネスク様式の墓。同県のブルゴス大聖堂に移された。

図書館にあった古代の膨大な量の写本。隣接するサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院に重要な部分が残されている。

11世紀末から12世紀初頭の見事な教会の側の扉。マドリードの国立考古学博物館に展示されている。

後期ロマネスク建築の傑作である「ララの7人の王子」の異母兄弟である「ムダラの墓」。これもブルゴス大聖堂の回廊に移された。

修道院総会会議室に描かれていた13世紀初頭の壁画の様々な断片。カタルーニャ国立美術館にある。

最後のカタルーニャ国立美術館にある修道院総会会議室に描かれていた13世紀初頭の壁画の断片については、残りの壁画の断片はハーバード大学フォッグ美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館に分散されている。

ちなみに、当たり前のことだがアメリカにはロマネスク様式は存在しないので、ロマネスク様式の教会等の建物部分、壁画等、あらゆるものが買い取られて海を渡っていった。オリジナルの場所から引き離されて美術館や博物館に展示してある全ての芸術品を見るに度に思うことは、残念だという気持ちと幸いだったという複雑な二つの気持ちである。例えばこのサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院について思いを巡らすと、修道士たちが居なくなった修道院が荒れ果てていったあとで、芸術や美術的価値もわからぬ輩たちの手によって心なく荒らされたり、残っていたものも雨露に打たれ朽ち果てていったであろうということは容易に想像がつく。そう考えると、価値を認められ、学術的にも研究され、誰でも見ることができ、保存状態を最良に保つことができる美術館や博物館に移動されたことは幸いだったのだろう。だが、それでもなお、オリジナルの場所から離れ、分断されることにより、周りとの関係性、調和、存在理由、歴史的な流れ、その土地の人々の思い、その建物、絵画、彫刻、教会などに携わっていた人たちの物語と歴史等々が失われてしまうことになると思うと、残念である。サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院を見学中、そんなことをずっと思っていた。

今では廃墟となり、教会内部の床には草が生えている(写真:アルベルト・F・メダルデ)

中世期からバロック期へ

サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院は、現在は廃墟になっていて失われた部分も多く、その全貌をつかむことは難しいが、旺盛を極めた17世紀から19世紀にはかなりの規模に発展していた。下の写真は修道院の中にあった説明板である。英語版はなかったが、珍しく点字での説明があった。日本でも観光地の案内板や説明板に多言語対応のみではなく、点字による説明があるといいなと考えさせられた。

後述する修復工事に携わった建築家マリア・デ・アラナ・アロカ(María de Arana Aroca)によると、この修道院は二つの時期に分かれるという。それは、中世期とバロック期である。中世期に当たる11世紀から15世紀のロマネスク様式やバロック様式の時代に、教会(Iglesia)、塔 (Torre) 、聖歌隊席 (Coro) 、内庭大回廊 (Claustro mayor)、修道院総会会議室(Sala capitular)、食堂 (Refectorio)が造られた。16世記、17世紀のバロック期になると大々的な増改築が行われ、内庭大回廊 (Claustro mayor)はスペインルネサンス様式(エレリアーノ様式-Herreriano)に取って代わられ、 修道院総会会議室(Sala capitular)は改装され、聖具納室 (Sacristía)、廊 (Claustro menor)が増築された。

修道院の中にあった説明板(写真:筆者撮影)

1. 教会(Iglesia)-ロマネスク様式で造られ、中央の礼拝堂は後期ゴシック様式の拡張工事が行われた。興味深いことに、ロマネスク様式の教会の屋根は石造りのアーチ型ではなく、木製の屋根で覆われていたようだ。その後、石造りのアーチ型屋根が造られた。今は屋根部分は消失している。

教会内の柱(写真:筆者撮影)

2. 塔 (Torre) -サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院に個性的なアクセントを加えている塔。二層構造で、下段は13世紀初頭のもので、上段と鐘楼は15世紀末から16世紀初頭のもの。

修道院に近づくと最初に見える塔(写真:アルベルト・F・メダルデ)

3. 聖歌隊席 (Coro) -名前こそ聖歌隊席だが、聖歌隊席というより埋葬の部屋として造られたようだ。事実、カスティージャ王国の王家の霊廟という役割を担っていた。

4. 内庭大回廊 (Claustro mayor) -最初はロマネスク様式の内庭大回廊として造られ、その後ゴシック様式に改築された。そして、16世紀末から17世紀初頭にかけてスペインルネサンス様式(エレリアーノ様式-Herreriano)に取って代わられた。一般的に教会の南側に内庭回廊は造られ、その周りが修道士たちの生活の場だった。祈りをささげる場所だけでなく、会議室、食堂なども内庭回廊の周りに造られていた。

内庭大回廊(写真:アルベルト・F・メダルデ)

5. 聖具納室 (Sacristía) -貝殻の形をした格間(ごうま-casetón)を持つ入隅迫持(いりすみせりもち)または半円錐状のスキンチ(trampa)の上にドームがある。

貝殻の形をした格間(ごうま-casetón)を持つ入隅迫持またはスキンチ(trampa)の上にドームがある(写真:アルベルト・F・メダルデ)

6. 修道院総会会議室 (Sala capitular) -ロマネスク様式の柱を使ったアーチが残っている。薄っすらと壁画らしきもの見られた。

修道院総会会議室 へ続く廊下。左手に内庭大回廊が見える(写真:アルベルト・F・メダルデ)

7. 食堂 (Refectorio)-15世紀末から16世紀初頭にかけての改修工事により、ゴシック様式の食堂に生まれ変わった。現在では個人所有となっている。

個人所有のためか、まるで新しく作ったようだ(写真:アルベルト・F・メダルデ)

8. 内庭小回廊 (Claustro menor)-内庭大回廊に比べると、かなり小さなものである。17世紀半ばに造られ垂直に空へ伸びていくモミの木が1本ある。その隣には、井戸もあった。

約400年間、修道院を見守ってきたモミの木(写真:アルベルト・F・メダルデ)

ロマネスク様式を探して

前述したように、900年を超える歴史の中で修道院は増築改築工事の手が入れられ、ロマネスク様式だけではなくゴシック様式、バロック様式、ルネサンス様式もみられるが、ロマネスク様式が今も残っているのは、1080年に建設が始まった教会、12世紀末に造られた塔、修道院総会会議室(Sala capitular)であり、パッと見た限りではロマネスク様式だとはあまり感じさせられない。ただ、よく見てみるとあちこちにロマネスクの面影を見つけることができた。

今は廃墟となっている教会は、十字形のない3つの身廊とアプスからなるバシリカ式で、40メートルの長さがあったとされる。また、扉の前にはナルテックス(教会本堂前の広場)と聖歌隊席があった。

スペインのアルテギアス(Arteguias)というロマネスクやゴシックのウエッブガイド (Monasterio de San Pedro de Arlanza (arteguias.com))によると、この教会のシュヴェ(cabecera)にはいくつかの特異な点が指摘されている。そのひとつが、床から始まって1本の柱が続くダブルコラムの採用。これは、アストゥリアス建築(サンタ・マリア・デル・ナランコ、サンタ・クリスティーナ・デ・レナ)や、12~13世紀のスペイン国内でのシトー派修道院に数多く見られるもので、年代的に離れた時代に見られるスペイン中世建築の特殊性であるらしい。

また前述したように、教会の北側にあった扉は、マドリードの国立考古学博物館に移され展示されている。

柱頭には、ロマネスク様式の装飾が施されていて、ゴシック様式での拡張工事部分との違いが見て取れた。

ロマネスク様式の柱がみえる(写真:アルベルト・F・メダルデ)

12世紀末に造られた塔は、要塞としての機能も持っていただけに、殆んど飾りという飾りもなく、細長いたふさがれた尖頭アーチがあるのみだ。教会の北側に接し、ウシ―ジョ(usillo)と呼ばれるブルゴス地方特有の螺旋階段が塔の外側に見える。

12世紀末に造られた塔(写真:アルベルト・F・メダルデ)

修道院総会会議室(Sala capitular)とは、大修道院長が毎日修道士たちを集めて話をした場所である。12世紀にロマネスク様式で造られ、13世紀、17世紀、19世紀に改築されている。修道院総会会議室は二層構造で、下層階は12世紀前半に、上層階はその数十年後に建てられた。ロマネスク様式の柱を使ったアーチが残っている。更に13世紀半ばには、壁に頭がワシで体に羽のあるライオンや想像上の動物であるドラゴンの絵が施されたが、前述の通り修道院以外の場所に散在している。(こちらのサイトに、写真がでている。Monasterio de San Pedro de Arlanza (arteguias.com

スペイン900年の建築様式-ロマネスク様式から古典主義様式まで

サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院は、スペインの文化・スポーツ省のスペイン文化遺産協会 (Instituto del Patrimonio Cultural de España-IPCE) という政府機関が主催した一般コンクールにより選ばれた建築家によって、2015年から2019年まで4年間にわたる修復工事が行われた。(修復工事の様子などが見れるビデオはこちら La mirada experta – La restauración del Monasterio de San Pedro de Arlanza – YouTube)

この修復工事によって、バロック期には修道院総会会議室 (Sala capitular)から聖具納室 (Sacristía)へ行く階段があったことが分かり、失われた階段を新しく作ることによって修道院総会会議室 (Sala capitular)から聖具納室 (Sacristía)へ行けるようになった

毎夏、スペインの有名な劇作家ロペ・デ・ベガ(Lope de Vega)の作品「フェルナン・ゴンサレス伯爵(El conde Fernán González)」がこの修道院の中で上演されている。フェルナン・ゴンサレス伯爵は、この修道院の創設者とされている。

ほぼ廃墟ともいえる修道院を観光地として訪れる場所の一つとするだけではなく、積極的に劇場として使用して新しい命を吹き込んでいることに好感を覚えた。

二層構造の古典主義的な建物である修道院の入口を抜けて外に出て、改めてファサードを振り返って見てみると、900年間のスペインの様々な建築様式を一つの修道院の中で見ることができ、まるでタイムマシンの中から出てきたような錯覚を覚えた。

古典主義的な修道院の入り口(写真:アルベルト・F・メダルデ)

参考

ここで紹介したサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院 (Monasterio de San Pedro de Alranza)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つです。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にして下さい。

・現在の様子を窺えるビデオです。 

  Monasterio de San Pedro de Arlanza Burgos – YouTube

・ブルゴス県のツーリストウエッブページ。英語版もあります。修道院を訪ねたい方はこちらで時間等をチェックしてください。

  Monasterio de San Pedro de Arlanza | Turismo de Burgos (turismoburgos.org)

・Arteguias のウエッブページです。スペイン語ですが、写真が充実しています。国内外に散在しているロマネスク様式の壁画の写真も見られますよ。

Monasterio de San Pedro de Arlanza (arteguias.com)/

・スペインの文化・スポーツ省のスペイン文化遺産協会 (Instituto del Patrimonio Cultural de España-IPCE) のウエッブページ。

La mirada experta. Los proyectos de conservación-restauración del IPCE – Instituto del Patrimonio Cultural de España | Ministerio de Cultura y Deporte

・サン・ペドロ・デ・アルランサ修道院から、海を渡りニューヨークのメトロポリタン美術館にあるライオンのフレスコ画です。説明は日本語です。

https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/471061

ゴヤを探して-リリア宮殿(Palacio de Liria)&サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂の前にあるゴヤの像 (写真:筆者撮影)

 

リリア宮殿(Palacio de Liria)

スペインでコロナが始まる半年ほど前、2019年9月19日にこのリリア宮殿(Palacio de Liria)の一般公開が始まりました。この宮殿の所有者であるアルバ公爵へのインタビューラジオを偶然聴いていた私は、是非この宮殿を訪ねてみたいと思い、チケット購入のためにインターネットにアクセスしてみたのですが、既に翌年2020年2月一杯まで予約は一杯でした。その後、コロナがスペインでも猛威を振るい、ロックダウンを経てワクチン接種も受け、今回やっとマドリードまで行って訪ねる機会に恵まれました!

リリア宮殿(写真:筆者撮影)

アルバ公爵とは?

アルバ公爵について簡単に説明すると、初代アルバ公ガルシア・アルバレス・デ・トレド(Garía Álvares de Toledo)はカスティージャ王国の貴族でアルバ・デ・トルメスという伯爵領を持つアルバ伯爵でしたが、1472年にカスティージャ王エンリケ4世からアルバ公爵へと昇格されます。ちなみに、このアルバ・デ・トルメスという名前の街は今もあり、実は私が住むサラマンカ市から20km程離れたところにあります。その息子ファブリケ・アルバレス・デ・トレド・イ・エンリケス(Fadrique Álvarez de Toledo y Enríquez )は1492年の有名なグラナダ陥落で活躍し、初代アルバ公の孫にあたるフェルナンド・アルバレス・デ・トレド・イ・ピメンテル(Fernando Álvarez de Toledo y Pimentel)はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)やその息子フェリッペ2世に重用され、後世の歴史家からスペイン史の中でも第一級の軍師だと言われているほどです。

18世紀に下ると、マリア・デル・ピラール・テレサ・カジェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド(María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledo)が、自身の権利-アルバ公位の継承者であることを意味する公爵夫人-として、13代アルバ公爵夫人(Duquesa de Alba)となりました。あまりに長い名前なので、一般的にはマリア・テレサ・デ・シルバ(María Teresa de Silva)と略されていますが、彼女は、1776年に14歳でアルバ家の爵位を継いでから1802年に亡くなるまで、なんと56もの爵位を受け次ぎました。スペインの中で一番多くの爵位を持っている公爵夫人だったのです。しかし、彼女には跡継ぎの子供がいなかったので、親戚であるカルロス・ミゲル・フィッツ・ジェームズ・スチュアート・イ・シルバ(Carlos Miguel Fitz-James Stuart y Silva)が跡を継ぐことになり、名前からもわかるように英国人との共同での家になりました。と同時に、スペイン国内だけの爵位だけではなく、英国の爵位もアルバ家は相続していくことになり、ヨーロッパの中でも最も多くの爵位を保持する家となったのです。

そして、アルバ家は今もスペインに残る名門です。スペイン各地に所有する宮廷や土地も数多く、代々芸術に造詣深い一族は、数々の美術作品を所蔵しています。ただ、膨大な歴史的遺産を所有するアルバ家が毎年支払わなければならない税金もかなりの額で、アルバ家は所有する建物を一般公開することで維持を図っています。今回訪れたリリア宮殿以外にも、私が住むサラマンカ市のモンテレイ宮殿(Palacio de Monterrey)、セビージャ市にあるラス・ドゥエニャス宮殿(Palacio de Las Dueñas)が現在一般公開されています。

サラマンカ市内にあるモンテレイ宮殿(写真:筆者撮影)

リリア宮殿(Palacio de Liria)見学

なんといっても、この宮殿は今現在もアルバ公爵一家が住む住居でもあることに驚かされます。2019年9月に一般公開が始まりましたが、一般公開部分は宮殿のほんの一角で12室訪れることができます。ちなみに200室以上の部屋があるとのこと!!!

18世紀に造られたこの宮殿は、スペイン市民戦争の際に火災が起き、かなりの被害を受けました。しかし、その後、莫大な私財を投資して元の通りに再建して今も住居として使われています。ここが住居であることを思い出させるものとして、各部屋に思い出の写真等が飾ってありました。

スペイン屈指のプライベートアートコレクションは、アルバ家の歴史と共に500年以上にわたって収集されてきたもので、絵画のみならず、彫刻、タペストリー、家具、書籍等、多岐にわたる芸術作品におよびます。特に、フランドル地方(今のオランダ・ベルギー)のバロック絵画の巨匠ルーベンスが描いた神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)やスペイン国王フェリッペ4世の絵は素晴らしいものです。また、「スペインの間(Salón de España)」には、まるでプラド美術館のようにベラスケス、エル・グレコ、スルバラン、リベラ、ムリーリョ等が所狭しと壁にかけてあり圧巻です。「イタリアの間(Salón de Italia)」には、ティツィアーノの「最後の晩餐」等があり、必見の価値大です。この「イタリアの間」にも家具の上にもさりげなく写真立てが置いてありましたが、私の目を引いたのは、その中にまだ天皇に即位されていらっしゃった頃の上皇さま、上皇后さまがこのリリア宮殿をご訪問された際の記念の写真立てが飾られてあったことです!

その他、「ゴヤの間(Salón de Goya)」、「踊りの間 (Salón de Baile)」「皇后の間(Salón de Emperatriz)」、「ダイニングルーム(Salón de comedor)」、「図書室(Biblioteca)」等があります。残念ながら、宮殿の中の写真撮影は禁止されていて、写真を撮影することはできませんでした。

ラジオで聞いたアルバ公爵のインタビューでは、小さい頃はかくれんぼをしたりして遊んだというエピソードを紹介されていました。こんなに広くて値段が付けられないような超豪華なコレクションが所狭しとある宮殿でも、アルバ公爵にとっては、子供のころは自分の祖先の肖像画を見たり、かくれんぼをしたりして楽しい思い出が詰まった「我が家」だったそうです。うーん、何千万とする花瓶をひっくり返して壊したり、様々な巨匠の絵を傷つけたりしたりしたら、それこそ取り返しのつかないことで、さぞかしスリルあるかくれんぼ遊びだったんだろうな……なんて想像してしまいました。(笑)

ベラスケスが描いたマルガリータ王女もリリア宮殿にいました!(Wikipedia Public Domain)

ゴヤの間(Salón de Goya)

リリア宮殿ではゴヤの絵が幾つか見れると思って期待していましたが、この「ゴヤの間(Salón de Goya)」は期待を裏切らない素晴らしいものでした。

ゴヤの絵で一番最初に思い浮かべるものは何でしょうか? やはり「着衣のマハ」と「裸のマハ」ではないでしょうか。「マハ(maja)」とは、人の名前ではなく、「小粋な女」という意味のスペイン語です。このモデルは前述したあの長い名前の13代アルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・テレサ・カジェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド(María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledo)だったのではないかと言われています。このマリア・テレサとその夫はゴヤのパトロンであり、彼女とゴヤは親密な交際があったとの推測が絶えないようです。実際にゴヤは彼女から様々な絵の依頼を受けて彼女のために絵を描いています。

この「ゴヤの間」には、アルバ家の人々の肖像画が多く飾られていましたが、中でも一際目を引くのが18世紀ファッションの先端を行く白いドレスに身を包んだアルバ公爵夫人マリア・テレサの肖像画です。赤い帯、赤いリボン、赤い髪飾り、赤いネックレスで、赤と白のコントラストが印象的です。白い子犬の足に赤いリボンをつけているのは、「お揃い」って感じでほほえましくなりました。

ゴヤが描いた白いドレスを着たアルバ公爵夫人(Wikipedia Public Domain)

図書室

図書室には書籍だけではなく、手紙や歴史的文書等が展示してあります。その数1万8,000冊もの蔵書があるとのこと!その中でも、1605年に出版されたセルバンテス著「ドン・キホーテ」の初版や、1422年~1431年のヘブライ語からスペイン語に訳された聖書,フェルナンド王の遺言書、クリストファー・コロンブスの第1回目の新大陸への旅の直筆の手紙の数々は必見です。

この聖書は、「アルバ家の聖書」とも呼ばれ、最初にスペイン語に訳された聖書の一つです。興味深いのは、ラテン語からの翻訳ではなくヘブライ語からスペイン語への翻訳本でした。フェルナンド王はグラナダ陥落でレコンキスタを成し遂げたアラゴン王ですが、この遺言書は死の前日に遺言されたもので、1516年1月22日の日付がありました。この遺言で後継者を後の神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)に定めています。本来ならば、娘のフアナが後継者になるところでしたが、気がふれて幽閉されていたフアナにはせっかくレコンキスタを成し遂げた後の国を治めることは無理とみなしたフェルナンド王は、フアナの息子、自分の孫にあたるカルロスに位を譲ることをこの遺言書の中で明確に示したものでした。この遺言書は、スペインの歴史文書の中でもかなり重要なものです。コロンブスが書いた手紙は結構な数があります。その中には、コロンブスが自分で描いた島の輪郭を示す絵がありますが、これがコロンブスが「イスパニョーラ島(La Española)」と命名した島で現在のハイチとドミニカ共和国に当たることろです。

それにしても、スペイン500年の歴史絵巻を見ているような錯覚に陥るアルバ家の図書室でした。ただ、あまりに歴史的史料価値の高い資料や書籍が多いだけに、実際に蔵書を手に取って手軽に読書を楽しむという感じではないですね。(笑)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)

美術館の中に飾ってある絵画鑑賞も悪くないのですが、特に宗教画に関してはやはり宗教的な場所-教会・修道院等-で観賞すると、見る印象が随分変わります。画家が宗教的な建物のどの位置にどのような宗教的な場面を配置するかは、識字率が低かった時代においてはとても大切なことでした。現代のように視覚的な物があふれている世界に住んでいなかった当時の人々にとって、「絵画」はとても心に響き、そして宗教の持つ意味を理解する助けでもありました。

このサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂内を装飾するフレスコ画はゴヤが描いたものです。美術館以外にあるゴヤのオリジナルの絵が見れる数少ない場所の一つですが、マドリード観光でも訪れる人が少ない穴場的な場所でもあります。ここには、ゴヤが埋葬されていて、「ゴヤのパンテオン」とも呼ばれています。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(写真:筆者撮影)

「聖アントニオの奇跡」

礼拝堂の天井を飾るフレスコ画のモチーフとなったのは「聖アントニオの奇跡」です。これは、聖アントニオの父が殺人の罪に問われ、ポルトガルのリスボンで死刑になることを知った聖アントニオは、裁判官の前に殺された被害者の遺体を運んでくるように頼みます。そして、運ばれてきた遺体に向かって殺した犯人は自分の父かどうかを尋ねると、死人は一時的に蘇りはっきりした声で「あなたの父ではありません」と答えました。そうして、聖アントニオは父の無実を晴らしたと伝えられている奇跡です。

ゴヤが描いた「聖アントニオの奇跡」(Wikipedia Public Domain)

ゴヤの斬新さ

このゴヤのフレスコ画を見て面白いなと思ったのが、描かれている人達でした。私が今までよく目にしていた教会や礼拝堂の中にある宗教画とは異なり、聖アントニオ以外は、偉い司教や聖人、その時代の王や有力貴族、12使徒や聖書に登場する人々ではなく、無名の庶民-村の男や女たち、乞食、野次馬たち、遊んでいる子供たち-それもその当時のマドリードの庶民の姿が生き生きと描かれていることです。マドリードの人たちはこの絵が描かれた当時から「聖アントニオ」に親しみを感じている人が多かったらしく、数ある聖人の中でも人気がありました(聖人の中で人気者とそうでないものがあるのは面白いことですが、日本の布袋尊のようなものでしょうか)。ゴヤはその民衆の心を代表してこの絵を描いたんじゃないかなと思いました。この礼拝堂を訪れるマドリードの人たちは、自分の姿をこのフレスコ画の中に見つけ出し、親近感を抱き、聖人との距離ひいては神との距離がグッと近くなったんじゃないかと感じながらこのフレスコ画を見ました。

もう一つ興味深かったことは、描かれている天使たちです。「天使」のことをスペイン語では「Ángel(アンヘル)」と言います。全ての名詞に性があるスペイン語では「天使」-「Ángel(アンヘル)」-は男性名詞です。スペインのゴシック様式やバロック様式の教会などでは、まるで中性的な子供のような顔つきの「天使」たちであふれています。でも、このゴヤの描く「天使」たちは、マドリードの若い女性たちの顔を持つ「天使」-「Ángela(アンヘラ)」(女性名詞形)-たちなのです。そして、その「天使」-「Ángela(アンヘラ)」たちがドームの下部分や側面部分にも描かれていて、その点でも新しいゴヤの試みが見えてきます。

ゴヤの自由な筆づかい、グレース技巧、透明感のある絵は豊かな色調を生み出し、ゴヤの絵の特徴でもある「魔法的な雰囲気」を醸し出しています。

礼拝堂の内部の写真が撮れなかったので、この「Ángela(アンヘラ)」たちをこのブログで紹介できず残念です。マドリードに行く機会がある方は、是非この女性の天使「Ángela(アンヘラ)」たちに会いに行ってみてくださいね!

美術館の外にあるゴヤの絵に会いに行こう!

ゴヤの絵-美術館の中にはない、絵の依頼者とゴヤ自身とゴヤの絵が直接つながっていることを感じられるような絵-に会いに行きたい方は是非このリリア宮殿とサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂まで足を延ばしてみることをお薦めします。

リリア宮殿もサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂もマドリード観光では定番のコースには入っていない所ですが、どちらも一見の価値は大いにありますよ。

リリア宮殿 開館情報

住所:プリンセサ通り 20番地( C. de la Princesa, 20)

電話番号:(+34) 915 90 84 54 (対応時間:9:00~20:00)

ウエブサイト:https://www.palaciodeliria.com/
最寄り駅:スペイン広場(Plaza de España 2号線 赤色/3号線・黄色/10号線・紺色) 、

     ベントゥーラ・ロドリゲス(Ventura Rodríguez 3号線・黄色)      
開館時間:リリア宮殿 (Palacio de Liria) | マドリード観光 (esmadrid.com) 参照 

休館日:1月1日、1月5日、1月6日、12月24日、12月25日、12月31日      

入場料:一般-15€ (スペイン語・英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語の音声ガイド付き、)

    割引料金-13€(6歳~12歳、失業者、25歳以下の学生、65歳以上、身分を証明する書類提示)

    公式ガイド付き-35€(10人~15人)

    無料-6歳未満、祭日ではない月曜日 9:15 a.m. & 9:45 a.m. (一週間前にオンライン販売のみ)

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂 開館情報

住所:サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ ロータリー 5番地( Gta. San Antonio de la Florida, 5)

電話番号:(+34) 915 420 722

ウエブサイト:http://www.madrid.es/ermita
最寄り駅:プリンシペ・ピオ(Príncipe Pío 6号線 灰色/10号線・紺色/R線) 、

     ベントゥーラ・ロドリゲス(Ventura Rodríguez 3号線・黄色)      
開館時間:火曜日~日曜日 9:30~20:00 (最終入館時間 19:40) サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida) | マドリード観光 (esmadrid.com) 参照 

休館日:月曜日(祝日も含む)1月1日、1月5日、1月6日、12月24日、12月25日、12月31日      入場料:無料

リリア宮殿&サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂 情報

・リリア宮殿オフィシャルサイト。スペイン語。

Información (palaciodeliria.com)

・マドリード観光オフィシャルサイト。日本語もあります。youtubeでは宮殿の内部を垣間見れます。

リリア宮殿 (Palacio de Liria) | マドリード観光 (esmadrid.com)

・スペイン観光公式サイト。日本語もあります。

リリア宮殿のMadrid | spain.info 日本語

・リリア宮殿の内部は写真撮影が禁止されているますが、スペインの新聞に宮殿内部の写真が出ていました。

Fotos: El interior del Palacio de Liria, en imágenes | Cultura | EL PAÍS (elpais.com)

・スペイン観光公式サイト。日本語もあります。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂のMadrid | spain.info 日本語

・マドリード観光オフィシャルサイト。日本語もあります。

サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida) | マドリード観光 (esmadrid.com)