娼婦とピクニック⁈ サラマンカの楽しいお祭り「ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)」

今日(2025年4月28日)はサラマンカの人にとって特別な日。ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)と呼ばれるお祭りの日です。このお祭り、現代に生きる私達にはビックリするようなルーツを持つお祭りですが、地元の人達は自分たちの伝統文化に誇りをもって楽しんでいるようです。

サラマンカ大聖堂(写真: 筆者撮影)

イースターの後のお祭り

キリスト教徒の国スペインでは、他のキリスト教徒の国々と同様に復活祭を祝う様々なお祭りがあります。サラマンカのルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)は復活祭の月曜日の次の月曜日に祝われ、一般的には復活祭の翌日の月曜日にお祭りが多いので、ひと呼吸おいてこのお祭りが行われることも特徴の一つかもしれません。

というのも、ひと呼吸おかなければならない理由がこのお祭りの起源にありそうです。

聖週間中には聖母マリアやキリストの受難等を表した山車が街を練り歩きます(写真: 筆者撮影)

フェリペ王子の結婚式

1543年11月12日、16歳だった王子フェリペ2世とポルトガルのマリア・マヌエラ王女はサラマンカの街で結婚することになっていました。サラマンカには、1218年にスペイン最古の大学であるサラマンカ大学が設立され、フェリペ王子の結婚式が行われた16世紀にはスペイン国内のみならず、世界中の学生がサラマンカ大学で勉強していました。当時、サラマンカには8千人以上の学生が住んでいたらしく、同じ時期のマドリードの人口が1万1千人だった(ウィキペディア参照)ことを鑑みると、驚くほど多くの学生たちがこの街に住んでいたようです。

サラマンカ大学ファサード(写真: 筆者撮影)

結婚式の祝賀は14日の夜から19日まで行われ、その間街中で王室主催の様々なパーティー、お祭り、馬上槍試合、伝統的な両陣営によるトーナメントなどが途切れることなく続きました。ところが王室主催以外にも、街中ではこれ幸いと、淫らな酒場や売春宿などでの一般市民や学生たちがお祭り騒ぎで賑わっていました。このどんちゃん騒ぎの様子に、敬虔かつ厳格な若きフェリペ2世は驚愕します。それもそのはず。サラマンカ大学は、知識の殿堂として、またヨーロッパのキリスト教の光として、神学・哲学・法学の研究を進めていたので、サラマンカは厳粛な街というイメージをフェリペ王子は抱いていたのです。ところが、その厳粛な街サラマンカには別の顔も兼ね備えていました。それは、ありとあらゆる娯楽を無制限にそして無秩序に楽しめるというものでした。

フェリペ2世の勅令

このことがよっぽど衝撃的なものだったのか、フィリッペ2世は、四旬節と聖週間の間、娼婦たちはサラマンカを離れ、対岸にある売春宿に閉じこもらなければならないという勅令を出します。つまり、娼婦たちは1ヶ月以上サラマンカの街から追い出され、学生等の男性たちは復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)まではジッと我慢していなければならなかったという訳です。そして、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の月曜日には、堰を切ったように娼婦たちはボートで街に戻りました。

貝の家の窓(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りに欠かせないオルナッソ(Hornazo)

彼女たちの帰還は、学生たちの間でお祭り騒ぎとなり、彼女たちを歓迎するために川までやってきて、酒を飲んだり、サラマンカの郷土料理であるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めた人気のオルナッソ(Hornazo)と呼ばれる食べ物を振る舞い、彼女たちの帰還を大いに祝い楽しんだそうです。

これが、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りのルーツです。

復活祭の翌日の月曜日はまだキリスト復活を祝う宗教的な意味合いの強いお祭りが多かった中、このような宗教的道徳に反するお祭りを祝うにはフィリッペ2世も躊躇したのでしょう。きっと、内心ではこのような破廉恥なお祭りは禁止してしまいたかったというのがフィリッペ2世の本音だったのでしょうが、流石にこれほど熱狂的に祝い、民衆から支持されていたお祭りを完全に禁止することは統治をする上でも得策ではないと考えたに違いありません。そのため、せめて復活祭からもう少し時間が経った次の月曜日までのひと呼吸をおくことになったのでしょう。

オルナッソ(Hornazo)(写真: 筆者撮影)

現在のルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭り

流石に、21世紀の今日ではサラマンカの街から追い出される娼婦もいませんし、娼婦たちとどんちゃん騒ぎをする男性も居ませんが、お祭りは無形文化財としても指定され、復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)の午後は、サラマンカ中の市民が思い思いにオルナッソ(Hornazo)と呼ばれるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めたパイ持参で川沿いにてピクニックをしてお祝いしています。生憎お天気に恵まれない時は、ピクニックではなく友人や家族の家に集まってオルナッソ(Hornazo)を食べます。

オルナッソ(Hornazo)の中身は具が詰まっていて食べ応え十分です(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の午後は、学校は勿論のこと様々な職場もお店も全て休みとなり、街中には人っ子一人いません。サラマンカの人達は皆、トルメス川沿いの原っぱでオルナッソ(Hornazo)を囲んで家族や友人たちとのピクニックを楽しんでいるからです。

大停電(Apagón)でもなんのその!

偶然、今日はスペイン中で大停電(Apagón)が起きたのですが、幸いここサラマンカはスペインの中でも電気の復旧が早く、約3時間半程の停電ですみました。でも、もともと午後はサラマンカ中のお店も役所も閉まってしまうルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の日だったので、あまり大きな被害はなかったようです。その上、サラマンカのほとんどの市民は、お天気に恵まれたこともあり、トルメス川沿いでオルナッソ(Hornazo)を囲んでピクニックをしていたので、あまり電気を恋しく思うこともなかったとか。今年は特に大勢のサラマンカの人達が川沿いで楽しんだようです。

皆さんも来年の復活祭の月曜日の次の月曜日にサラマンカにいらっしゃる際は、是非オルナッソ(Hornazo)持参でトルメス川沿いへ行ってピクニックを楽しんでみませんか。

2025年3月30日までにスペインに行く人必見!-プラド美術館の植物散歩(Un paseo botánico por el Prado)

去る2月3日、マドリードにあるスペインが誇るプラド美術館に久しぶりに行ってきました。丁度中国の春節の時期に重なったので中国からの団体さん達の姿が多かったのですが、それでも夏に比べれば少ない方だったかもしれません。まあ、ヨーロッパ内でも人気の美術館の一つなので、何時行っても人は多いようです。

今回、3月30日まで開催されている展覧会の一つ、「プラド美術館の植物散歩(Un paseo botánico por el Prado)(筆者訳)」を見てきました。この企画は、園芸家でもあり芸術の中の植物を研究しているスペイン人エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏とプラド美術館のコラボで実現したものです。彼は、今までも絵画等の中に描かれている植物を研究した題材を本にして出版したり、ラジオや新聞などでもこの題材について語っています。以前、彼の本を読んだこともあり行ってきました。

各時代の植物の表現方法

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が述べているように、芸術の中で描かれている植物は、各時代によってそれぞれ異なる手法で表現されています。

例えば、10世紀から12世紀にかけてヨーロッパに広まったロマネスク様式では、植物を極限まで単純化することで、植物に独特の美しさやダイナリズムを与えました。今回の展覧会の一つに、マドリードからすぐ近くに位置するセゴビア県のベラ・クルス礼拝堂に描かれている「アダムの誕生」の場面があります。

12世紀に描かれた壁画。左側が神がアダムを造った場面、右側は禁断の実を食べたアダムとイブが裸であることを恥ずかしがる姿が描かれています (Wikipedia Dmain)

上の写真を見ていただくと左端に大きな木があり、その横で神がアダムを創り、アダムが誕生しています。この木はナツメヤシだということ。ナツメヤシはヨーロッパ芸術の世界では常連さんらしく、「楽園」の象徴として描かれてきたそうです。「エデンの園」等をテーマにした絵画には必ずと言ってもいいほど描かれている木だということです。

こちらがナツメヤシの写真。上の壁画の植物をナツメヤシと見破るのは結構難しいですね(ウィキペディアドメイン)

また、12世紀~15世紀のゴシック時代には、それぞれの植物、それぞれの花を正確に描写することが目指されたと彼は語っています。ゴシック時代の絵として、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクの「生命の泉」が紹介されていました。

絵に沿って作られた額のこの形はかなり珍しい(ウィキペディアドメイン)

この絵の中のどこに植物が描かれているのかちょっと見分けずらいですが、実は、2段目の楽器を弾いている天使たちが座っている緑色の所は、一面の野イチゴ畑です。他にも、20種類程の異なる植物が緻密に描かれていて、ロマネスク時代とはかなり異なる表現方法が用いられていることは分かります。

イチゴはその赤い実がキリストが流した血に見立てられることが多いとか。また、イチゴの葉は3枚の葉から構成されているので、キリスト教の父・子・聖霊を示す三位一体を象徴しているのだそうです。

ヤン・ファン・エイクの「生命の泉」の中で描かれている野イチゴは、学名をフラガリア・ベスカ(Fragaria vesca)と呼ばれている実はとても小さなエゾヘビイチゴです(ウィキペディアドメイン)

そしてルネサンス時代になると、植物自体が主人公となり、静物画が独自の存在感を獲得していきました。その後、16世紀末から18世紀初頭にかけてヨーロッパで広がったバロック時代になると、意図的にバランスを崩した動的でダイナミックな表現が好まれるようになりました。17世紀にスペインの宮廷画家として活躍したフアン・バン・デル・アメンは、多くの静物画を残していますが、その中の一つが今回取り上げられています。

背景が黒に様々な花が浮かび上がる美しい絵画(ウィキペディアドメイン)

この絵の中でひときわ目立っているのが、沢山の小さな花によって大きな丸い花の形をしているセイヨウテマリカンボクの白い花でしょう。背景が黒なので余計に浮きだち、存在感抜群です。この花は、元々ヨーロッパが原産の植物ですが、バロック時代ではとても好まれて絵の題材にされた植物の一つだったそうです。そして、現在もこの植物はスペインではよく庭に植えられる人気の植物の一つです。何を隠そう、我が家の庭にもこの木を植えていて、夏になると大きな手毬のような花を沢山咲かせ私たちを楽しませてくれています。

セイヨウテマリカンボクの花は、ちょっとアジサイの花のよう(ウィキペディアドメイン)

大航海時代の植物たち

16世紀以降は、大航海時代へと入っていきます。と同時に、遠い国々からもたらされたエキゾチックな植物がスペインにも紹介されていきます。南米・北米・アジア等、今までヨーロッパの人々が見たこともないような色や形の珍しい植物に、多くの人が魅了されていきましたが、芸術家もまた然りでした。芸術家たちは、熱心に植物を観察し、それらを繊細に描き出し、そしてあたかも一人の人間の様な魅力的な姿をキャンバスに収めたのです。

展示会の中では17世紀のスペインの画家トマス・イエペスの静物画が紹介されています。残念ながら作品の写真を撮ることができず、パブリックドメインの写真も入手できなかったのでお見せすることはできませんが、この静物画には東アジアを原産とするハゲイトウという赤・黄・緑の三色カラーの葉が美しい植物が描かれています。(この記事の最後にプラド美術館の本展覧会の公式ウエブサイトを紹介していますが、そこを開いてもらうとこの作品も見ることができます。)もっとも、静物画の中では枯れた花として描かれていて、この植物の特徴である鮮やかな三色カラーは描かれていません。絵のトーンに一致しないとの判断だったのかもしれませんが、画家の意図は謎です。

一見ポインセチアかと見誤ってしまいそうなハゲイトウ(ウィキペディアドメイン)

植物に託されたもの

昔の人にとって植物はとても身近なものでした。その身近な植物に、神話的または宗教的な意味を持たせたり、高貴な象徴性や伝統的な象徴性も含ませることを芸術家たちはしてきました。何気なく描かれた一輪の花や植物によって、芸術家たちが描く絵の主題を更に立体的にし、意味を際立たせたり奥深いものにしたりする効果を期待していたのです。

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が語るように、現代社会は、こうした植物たちとの結びつきから切り離されてしまいました。このことは芸術作品の鑑賞にも反映され、私たちは絵を見る際、これらの植物たちに全く注意を払うことなく絵の前を通り過ぎていくことが多くなっています。園芸家でもある彼は、「私たちはただ植物たちを探し、それに耳を傾けるだけで、プラド美術館の庭師になったような気分になれる。」と言っています。

最後に

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が指摘しているように、多くの芸術作品は植物で溢れています。何気なく描かれているような小さな植物にも、実は画家が表現したかったことやその植物に託す意味等があり、とても興味深い展示会でした。また、一つの植物が時の権力者の権力の象徴であったり、大航海時代、新大陸からヨーロッパに紹介された植物たちは遠い旅をし、全く異なる環境からやって来たこと等まで思いを馳せると、どんどん想像が広がっていく楽しみもありました。うっかり見落としてしまいそうな植物、これからはもっとじっくりと絵画を楽しむことができそうです。そして、別の角度から絵画や彫刻を観察することができそうです。

もし、3月末までにスペイン、マドリードにいらっしゃる機会があれば、是非この展示会にも足を運んでみてください。きっと新しい発見の散歩となることでしょう。

プラド美術館の公式サイトからこの展覧会の情報を入力することができます。また、今回の展覧会で紹介されている全ての絵画をこちらから確認することもできますので、是非ご覧ください。

https://www.museodelprado.es/en/whats-on/exhibition/a-botanical-stroll-through-the-prado/3f48df04-a1fb-d356-7ad5-56cbf5d3b2ce

国立プラド美術館 開館情報

住所:プラド通り無番地(Paseo de Prado, s/n)
最寄り駅:エスタシオン・デル・アルテ(Estación del Arte 1号線・水色) 、バンコ・デ・エスパーニャ (Banco de España 2号線・赤色)      
開館時間:月~土 10:00~20:00(最終入館 19:30)日・祝 10:00~19:00(最終入館 18:30)         
*1月1日・5月1日・12月25日は休館                                    入場料:一般 15€  65歳以上 7,50€ 無料-18歳未満、25歳未満の大学生(国際学生証必要)、教師(国際証明書必要)              

*バッグ、リュック、傘、かさばる物、荷物は、美術館のロッカーに預けなければなりません。

スペインでバードウォッチング!-絶滅危惧種ホオアカトキ(Ibis eremita)に迫る!

観察日:2025年1月18日

芝生の上で一生懸命エサを探して食べるブロンズトキ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こんな鳥がいますよ!

1月13日に、スペイン北部ガリシア州のバヨーナ(Baiona)の近く、ラマジョサ(Ramallosa)という海岸沿いの街に、こんな鳥がいますよ!という友人からのラインが届きました。最初は、スペイン南部で見かけるブロンズトキ(Ibis morito común)だと思っていたら、よくよく送られてきた動画を見てみると、ちょっと違うみたいだと夫が気づきました。早速、夫はバードウォッチング仲間が発信する「珍しい鳥がみれたよ!」というインターネットに書き込みをするサイトに入ってみると、モロッコに生息する絶滅危惧種のホオアカトキ(Ibis eremita)だということが分かりました。少なくとも1月に入ってからラマジョサ(Ramallosa)でのんびり過ごしているようです。

ホオアカトキに会えるか⁉

私たちも週末にはラマジョサ(Ramallosa)へ駆けつけて、スペインでは見ることができないホオアカトキ(Ibis eremita)を見に行きました。朝から友人が見たという公園に行く途中、大きな看板の上にとまっているホオアカトキ (Ibis eremita)を発見しました!その後ロータリーの芝生部分に降り立ち、しきりと虫を探して食事を始めました。ロータリーでは結構な車が横を通っているものの全く気にも留めていない様子です。

その後は、友人が見た場所の公園方面に飛び立ち、公園内にある建物の屋根の上で日向ぼっこでもしているかのよう。地元では結構有名人ならぬ有名鳥になっているようで、子供連れの家族や双眼鏡を持ったカップル、そして写真を撮ろうと立派なカメラ機材持参の人など,10名位がこの珍しいホオアカトキのウォッチングを楽しんでいました。

午後も再びホオアカトキに会いに行くと、海辺の近くの散歩道の横にある芝生地帯で羽を広げたり、食べ物を探したりしていました。人が歩いているすぐ近くにいて、あまり警戒心がないようです。また、足には黄色い足環を付けていたので、もしかすると動物園等の人間がいる所にいたホオアカトキが逃げ出してこの辺りまで飛んできたのかもしれません。

絶滅危惧種ホオアカトキ

ホオアカトキについて調べてみると、17世紀にヨーロッパでは完全に姿を消していたようです。それまでは、ドイツやスイス等にも生殖していたとのこと。スペインでも16世紀まではスペイン本土の大部分で生息していたらしい。しかし、今では野生のホオアカトキは、モロッコ等のアフリカ大陸の一部でのみ生息している絶滅危惧種に指定されています。

日本のトキも一旦絶滅した後、人工繁殖等の努力の結果、飼育下とは言うものの現在かなりの数まで回復していると聞いているので、洋の東西を問わずトキの環境は厳しいものなのでしょう。

屋根の上で日向ぼっこの(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

エレミータ 計画(Proyecto Eremita)とは

そんなとても珍しい鳥を見ることができたので、単純にとても嬉しくなりました。家に帰ってこの鳥について調べてみると、こんな興味深いプロジェクトが行われていることを知りました。

それは、「エレミータ 計画(Proyecto Eremita)」と呼ばれるプロジェクトで、スペイン南部アンダルシア州にあるドニャーナ生物学研究所(CSIC)の科学的助言を得ながらヘレス動物園が2003年に開始したプロジェクトです。具体的には、野生のホオアカトキが絶滅の危機に晒されているため再導入計画が策定されて、飼育下で繁殖させた若い個体の放鳥が試みられています。そのお陰で、スペイン南部カディス県のハンダ(Janda)という地域で繁殖が確認されているそうです。

このプロジェクトで放鳥されているホオアカトキの足には、識別用の足輪が付けられているそうなので、もしかすると、私たちが見たガリシア州のラマジョサに居たホオアカトキは、このプロジェクトの賜物かもしれません。繁殖が確認されているスペイン南部カディス県のハンダ(Janda)から、私たちが見た場所ラマジョサまでの直線距離は約900㎞。結構な距離を頑張って飛んで来たんですね。

最後に

一体何時までラマジョサ周辺にこのホオアカトキが居座るかは分かりませんが、3月になったらまた行ってみようかなと考えています。3月は繁殖期に入るので、きっと仲間を探しに別のところに移っているとは思いますが…。

それにしてもこんなに貴重な鳥を間近に見ることができて本当にラッキーでした。「エレミータ 計画(Proyecto Eremita)」がこれからも成功して、もっと仲間が増えることを願っています。

資料

・「エレミータ 計画(Proyecto Eremita)」について

https://www.zoobotanicojerez.com/proyecto-eremita#:~:text=En%202004%20se%20inici%C3%B3%20el,para%20establecer%20una%20poblaci%C3%B3n%20sedentaria%2C

・2019年の「エレミータ 計画(Proyecto Eremita)」の報告書

https://www.zoobotanicojerez.com/fileadmin/documentos/2019/Resumen_Proyecto_Eremita_2019.pdf

チョコレート物語-アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)

スペイン、カステージャ・イ・レオン州のレオン県に位置するアストルガ (Astorga) という街をご存じですか?人口1万1千人程の小さな街ですが、ここにはアントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」があるので、ガウディ建築のファンの方はご存じかもしれません。ガウディ建築のほとんどがバルセロナに集中していて、数少ないバルセロナ以外にあるガウディ建築の一つがこの「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」です。

アントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」(写真: 筆者撮影)

その素晴らしいガウディ建築から歩いて10分程の所に、今回紹介する「アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)」はあります。では一緒に博物館を訪れてみましょう!

神の食物

チョコレートの原料であるカカオは、南米オリノコ川とアマゾン川流域が起源の植物です。高い温度と湿度が成長の条件で、二つの大きな川の流域はカカオが成長するのに理想的な場所でした。

そして、最初にカカオを栽培し、飲み物にしたのは、メキシコ湾やジャングルに住むマヤ文明(紀元前1000年頃~16世紀頃)やオルメカ文明(紀元前1200年頃~紀元前200年頃)の人達でした。紀元前1750年頃の器にカカオの残滓が付いていたものが発見されていて、これが最も古いカカオの記録とされているようです。本当に長い長い歴史を持っていたことがわかりますね。これは、豪奢な品物の数々と共にメキシコで見つかっており、カカオの飲み物はマヤ文明社会において、高貴な階級の人達のみが飲める飲み物であったことを推定することができます。

というのも、カカオはマヤ文明やアステカ文明の人達にとっては、神の食物と考えられていたのです。カカオは神聖な食物だったのです。

カカオの花はカカオの木の幹から直接ぶら下がって咲いている(写真: Wikipedia Domain)

ケツァルコアトル (Quezalcoatl) という神の伝説

伝説によると、羽のある蛇ケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が、「ショコラトル(xocolotl)」と呼ばれていたカカオの植物を知恵を授けるために人間に贈ったのだとか。しかし、神の食物であるこの植物を、死すべき人間に与えたことにより他の神々の怒りを買い、ケツァルコアトル(Quezalcoatl)は神の国から追放される羽目になりました。

こちらには、カカオの植物を知恵を授けるためにケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が人間に送ったという伝説が説明されています。(写真: 筆者撮影)

カカオの用途

神の食物と考えられていたカカオには様々な用途やシンボルが与えられていました。この「チョコレート博物館」の中にあった説明書によると、鎮痛剤、奉納物、貢物、貨幣、滋養食、強壮剤、媚薬、祭儀用の道具、交換するための高価な品物、豊穣の象徴、権力の象徴、そして社会的特権の象徴等々。これを見ると、マヤ文明やオルメカ文明の人達にとって必要不可欠な存在であったことが容易に想像できます。

マヤ文明やオルメカ文明で貨幣としての価値があったカカオの種は、面白い事に贋金ならぬ偽種まであったそうで、ソラマメの中に泥などを入れてカカオの種に似せていたとか。これらの偽種のことを「カチュアチチウア(cachuachichiua)」と呼んでいたらしいので、偽種の名前まで付くほど出回っていたのかもしれませんね。

当時のカカオの値段について説明してあるパネル (写真: 筆者撮影)

スペインにやって来たカカオ

中南米でのカカオは、前述したように「神の食物」と考えられていましたが、基本的には、カカオを粉にしてトウモロコシの粉や唐辛子、バニラなどの香料と共に水や湯に溶かして、食べ物というより飲み物として食されていました。今のチョコレートドリンクとは全く異なり、甘くなく、辛くて苦い飲み物だったようです。

そして、スペインに最初にこのカカオドリンクのレシピを紹介したのは、アステカ帝国を征服したスペインの征服者エルナン・コルテスに同行していたヘロニモ・アギラル修道士だと言われています。このヘロニモ・アギラル修道士は、1534年スペインのアラゴン州にあるピエドラ修道院の修道院長にカカオドリンクのレシピを送りました。

ところが、中南米で好まれていたカカオドリンクの辛くて苦い味は、スペイン人の口には合わず、修道士たちの工夫により蜂蜜・バニラ・シナモンを入れて飲みやすくアレンジされていきました。

カカオの葉や美も展示してありました (写真: 筆者撮影)

チョコレートは飲み物?それとも食べ物?

さて、スペインの修道士たちによってアレンジされたカカオドリンク(飲むチョコレート)は、100年位門外不出のものとしてスペインでのみ飲まれていました。主に、修道院や貴族、王族等、特権階級の人達だけが飲めるとても貴重な飲み物でした。

ここで、特に修道院の中で積極的に飲まれていたというこのカカオドリンク(飲むチョコレート)の面白いお話があります。キリスト教では、イースター前の四旬節に断食する習慣があります。スペイン版カカオドリンク(飲むチョコレート)の発明は16世紀なので、この頃には初期キリスト教の時代よりもかなり緩い断食スタイルになっていたようですが、修道院内では一般家庭よりも厳しい断食が行われていました。しかし飲み物は断食の対象になっていなかったため、修道士の中にはカカオドリンクを飲み断食を乗り切っている人もいて、それが物議を醸したのです。一体、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物なのか、それとも食べ物なのかと!結局、ローマ法王庁は、四旬節の間、カカオドリンク(飲むチョコレート)を食べても断食を破ることはない、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物であって食べ物ではないとする勅令を出したことで四旬節の断食中にも飲むことが許され、これを機に、修道士の間での需要が高まったそうです。

アストルガの街とチョコレートの出会い

「チョコレート博物館」のあるアストルガ市とチョコレート製造の関係は、16世紀、エルナン・コルテスが中米を征服して帰還したときにまで遡ります。1545年、エルナン・コルテスの娘とアストルガ侯爵の相続人との間で結婚の合意がなされました。その後、アストルガ侯爵と君主カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の関係によって、カカオの導入が可能になりました。

アステカ王国を征服したエルナン・コルテスの肖像画(写真: Wikipedia Domain)

アストルガの街で何故チョコレート製造が盛んになったのか

当時、アストルガには、アストルガ侯爵家お抱えの荷馬車屋を営む組織がありましたが、この荷馬車屋の組織は、メキシコから送られてくるカカオを、港から内陸部へスペイン各地と取引し、カカオを含む海外産品の輸送を独占していました。彼らはまた、アストルガで作られたチョコレートをスペイン各地に流通させる役割を担い、アストルガの名声に貢献しました。

また、アストルガには、チョコレート購入者である病院、薬局、修道院、教会が広く存在していたこともの、アストルガでのチョコレート生産を決定づけた要因だそうです。病院や薬局では、チョコレートはお薬の役目を果たしていたようです。こんなおいしいお薬だったら、病気の人達も喜んで飲んでいたことでしょう。

そして、このアストルガの街は寒く乾燥した気候なので、チョコレートがすぐに冷えて扱いやすかったことも、この街でチョコレート製造が盛んになった要因といえます。

チョコレート製造に使用されていた様々な機械も展示されています (写真: 筆者撮影)

沢山のチョコレート製造メーカー

「チョコレート博物館」には、17世紀から始まったと言われるアストルガでのチョコレート製造について詳しく説明する展示室がありました。

カカオを焙煎する機械 (写真: 筆者撮影)

19世紀から20世紀初頭まで、最大のチョコレート・ブームが起こり機械が導入されました。記録によると、1925年には51のチョコレート・メーカーがあったらしく、2024年現在でのアストルガの人口が1万人ちょっとなので、この小さな街にこんなにチョコレート・メーカーがあったなんてビックリです。チョコレートの街としての歴史を通じて、アストルガには400を超えるチョコレート・メーカーが存在したそうなので、正しく「チョコレートの街」と呼んでも過言ではないでしょう。

この板は、出来上がったチョコレートを一定の大きさの板チョコにするためのもの (写真: 筆者撮影)

チョコレートにまつわる宣伝広告

こちらの展示室には、チョコレートの包み紙や、チョコレートが入っていた缶、チョコレートのおまけとしてついてきていたブロマイドやカード等、当時を思い起こさせる色んな物が展示してありました。

チョコレートの「おまけ」で付いていたブロマイド。スペインでは人気のあった闘牛士の絵などが描かれています (写真: 筆者撮影)
こちらは、チョコレートが入っていた缶。なかなかお洒落なデザインです (写真: 筆者撮影)

お土産にはアストルガのチョコレートを!

「チョコレート博物館」の最後の楽しみは、矢張りチョコレートを試食することです!お土産用の様々なチョコレートも売ってありますが、3種類のチョコレートの試食ができました。ナッツチョコ・ミルクチョコ・ダークチョコの試食をさせてもらい、私も我が家のお土産にダークチョコを一つ買って帰りました。味も濃厚な食べ応えのあるチョコレートで、とても美味しいですよ。

カカオ75%のチョコレート。昔に比べてパッケージはシンプルなもの (写真: 筆者撮影)

現在、日本国内でもアマゾンなどのネット販売で世界中の物が日本の自宅に居ながら手に入る時代ですが、アストルガのチョコレートは全く紹介されていないので、アストルガまでいらっしゃった方にはお土産にお勧めです!せっかく遠いスペインの地元で買い求めてお土産にした品物が、日本でも売っていたら残念ですよね!でもアストルガのチョコレートだったらそんなことはないですよ。

アストルガの「チョコレート博物館」情報

住所:エスタシオン通り16番地(Avd. de la Estación 16)
電話:(34)987 616 220 E-mail:museochocolate@astorga.es /reservasmucha@astorga.es    
開館時間:火~土 10:00~14:00(13.30まで入館) 16:30~19:00(18:30まで入館)  日曜日・祭日 10:30~14:30  *月曜日は休館/休館休館日: 12月24・25・31日、1月1日・5日・6日、5月22日                                     入場料:4€   11 ~18歳 3€   無料-10歳までの子供 

                       

参考

・アストルガ市役所の「チョコレート博物館」のサイト。

https://www.aytoastorga.es/turismo-y-ocio/MUCHA/index.html

・カステージャ・イ・レオン州のサイト。

https://museoscastillayleon.jcyl.es/web/jcyl/MuseosCastillayLeon/es/Plantilla100Detalle/1284811313457/Institucion/1284809941138/DirectorioPadre

スペインのイチオシお菓子-カスティジェハ・デ・ラ・クエスタの焼き菓子 (Tortas de Aceite de Castilleja de la Cuesta)

美食の国スペイン。スペインと言えばバル!バルと言えばピンチョ!ピンチョと言えばトルティージャ・デ・パタタ(スペインオムレツ)!と連想ゲームの様に次々と出てきますが、スペインのお菓子と言えば何が思い浮かびますか?数年前に日本ではちょっとしたブームになった「バスクチーズケーキ」が思い浮かぶ人もいるかもしれません。でも実はこの「バスクチーズケーキ」ってスペイン人の中では全く知られていないお菓子です。サンセバスチャン発祥のお菓子ですが、スペイン国内ではサンセバスチャンでしか食べれないお菓子かもしれません。遠い東の果ての国日本でブームになったのは奇跡かも⁈

欧州連合(EU)のTSG – 伝統的特産品保証付きのお菓子

さて、今回紹介するスペインの一押しお菓子は、欧州連合(EU)の品質認証に登録され、スペインの「本物の美味しさ」を保証している「伝統的特産品で美味しいもの」の一つに認証されている「トルタス・デ・アセイテ・デ・カスティジェハ・デ・ラ・クエスタ(Tortas de Aceite de Castilleja de la Cuesta)」というお菓子です。

日本語に訳すと「カスティジェハ・デ・ラ・クエスタの焼き菓子(筆者訳)」という意味。「カスティジェハ・デ・ラ・クエスタ」は、スペイン南部アンダルシア地方のセビージャの街の中にある地区の名前です。セビージャのカスティジェハ・デ・ラ・クエスタという地区の伝統菓子になります。

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6枚入りのシンプルなパッケージ(写真: 筆者撮影)

「トルタス・デ・アセイテ・デ・カスティジェハ・デ・ラ・クエスタ(Tortas de Aceite de Castilleja de la Cuesta)」の特徴

上の写真でもお分かりになるかもしれませんが、材料にエキストラバージンオリーブオイルが24%も使われている贅沢なお菓子です。

材料は、小麦粉、砂糖、ゴマ、アニス、塩、アニスエッセンス、そしてエキストラバージンオリーブオイルです。ゴマやアニスが入っているため風味も良く、薄く伸ばした生地を焼いてあり、パイ生地の様なサクサク感が特徴です。

エキストラバージンオリーブオイルの割合が多いので扱いにくいのが特徴で、なんと一つ一つ丁寧に手作業で生地を練り、熟練した作り手が丸い形に伸ばして焼いていきます。

一枚一枚、油紙に包んで食べやすいようにしてあります(写真: 筆者撮影)

「トルタス・デ・アセイテ・デ・カスティジェハ・デ・ラ・クエスタ(Tortas de Aceite de Castilleja de la Cuesta)」の歴史

前述したように、元々はセビージャの街のカスティジェハ・デ・ラ・クエスタ地区の伝統的で家庭で作られていたお菓子で、徐々にアンダルシア西部にも広まっていきました。特に、復活祭の間に作られていたらしく、きっと卵が入っていないお菓子なのでその時期に食べられていたのでしょう。というのも、スペインでは9世紀から18世紀にかけて、教会が聖週間の間肉や卵を食べることを禁じていたのです。

そして1910年、セビージャに住むイネス・ロサレス(Inés Rosales)という名前の女性が、セビージャの街のカスティジェハ・デ・ラ・クエスタ地区から約30㎞ほど離れたアルハラフェ(Aljarafe)という町にあった自分の家のレシピ本からこの伝統的なお菓子のレシピを救い出して、製造・販売を始めました。名前も「イネス・ロサーレスの焼き菓子(筆者訳)」と命名され、この女性起業家の名前が冠されています。

レトロなパッケージ

上の写真を見てください。「イネス・ロサーレスの焼き菓子(筆者訳)」は、一枚一枚丁寧に油紙に包まれています。これは、パイ生地の様に壊れやすいお菓子を守るため、油脂の配分が多いお菓子なので手が脂っこくならないため、食べやすくするために工夫されたパッケージです。

製造・販売当時からこのスタイルで包装されていたのかどうかは分かりませんが、会社の所在住所と電話番号が包装油紙に印刷されています。そして、電話番号(TELÉFONO)が「30」と印刷されているのが見えます。1910年当時、まだまだ電話を所有する人が稀だったので、電話番号が30という、今では驚くような番号でした。今も当時のままのレトロなパッケージ、包み方にとてもほっこりさせられますね。

色んなフレイバーを楽しもう!

オリジナルレシピの他にも色んなフレイバーが楽しめます。

まずこちらはオレンジ。

スペイン語でオレンジは、「ナランハ(Naranja)」といいます(写真: 筆者撮影)

こちらはレモン。

レモンは、スペイン語でも似た発音「リモン(Limón)」(写真: 筆者撮影)

そして、シナモンもあります。

シナモンは、スペイン語では「カネラ(Canela)」と言います(写真: 筆者撮影)

個人的にはアニスとゴマの風味たっぷりなオリジナルレシピの味が一番お薦めですが、他の味のお菓子もとっても美味しいですよ!残念なのは、スペインから日本へのお土産にするにはあまりにも壊れやすい繊細なお菓子だということ!それでも、わざわざ箱に入れて緩衝材を詰め日本にお土産として持っていき家族や友人に渡すと、皆口をそろえて「これ、美味しいね!」って言われるお菓子の一つです。

是非、スペインにいらっしゃったら食べてみてください!手軽にスーパー等でも手に入りますよ。ただ気を付けてほしいことは、似たようなお菓子が他にも売っていますが「イネス・ロサーレスの焼き菓子(筆者訳)」ほどおいしいのは無いので、このレトロなパッケージを忘れずにお買い求めください。

参考

・イネス・ロサレス(Inés Rosales)社のウエブサイト

https://www.inesrosales.com/tortas-de-aceite-dulces-ines-rosales/torta-aceite-original

・「TSG – 伝統的特産品保証」についての説明があるイネス・ロサレス(Inés Rosales)社のサイト

https://www.tortasdeaceite.com/selloetg.php

・在日欧州連合部の公式ウエブマガジンに「TSG – 伝統的特産品保証」についての説明があります。

ロマネスクへのいざない (18)- アストゥリアス州 (5)–ルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)

3泊4日でアストゥリアス州のロマネスクとプレロマネスクを訪れた第2日目。中には入れなかったが、「ルガス(Lugás)」という村にある12世紀末に建てられた当時のロマネスク様式の正面玄関入口と南門が残るサンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)を訪れた。

ロマネスク様式が残存する教会の正面玄関入口(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この旅程を知りたい方はこちらをどうぞ。

このルガス(Lugás)村でお祝いされていた聖母マリア祭は、何世紀もの間アストゥリアス地方での重要なお祭りだったという。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道「サンティアゴの道(Camino de Santiago)」の一つである「カミーノ・デル・ノルテ(北の道 Camino del Norte)」と呼ばれる海沿いを歩く巡礼者たちが、ルガス村の聖マリア祭に訪れていた。中世を生きる人たちにとってここは巡礼と信仰を具体化する特別な場所、神聖な場所だったようだ。

ロマネスク様式が残る正面玄関入口と南口

サンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)は12世紀末に建設されたが、その後何度も改築・増築されてきた。特に1690年に行われた増築工事により、前述した二つの入口を除き、バロック様式の教会として生まれ変わっている。

正面玄関入口

正面玄関入口には3つの半円形のアーキボルトがあり、柱頭には美しい植物の装飾が施してある。

入口への床はまるでチェス盤の様な白と赤の石畳。その斬新さはお洒落な雰囲気を醸し出している(写真: 筆者撮影)

サンティアゴ巡礼の道の模様

一番外側のアーキボルトには、ここから500km以上離れたフランスとの国境に近い所にあるハカ(Jaca)という場所で最初に始まった「アへドレサード(ajedrezado)」と呼ばれる市松模様が見られる。この模様は、サンティアゴ巡礼の道沿いの教会等に多く用いられているものだ。この模様からもサンティアゴ巡礼の道を通して文化が伝わっていった証明を目にすることができる。

次のアーキボルトは大胆なジグザク模様で、私たちの目を引く。

向かって左側の柱頭に、下の写真に見られる一つだけ植物ではない装飾がある。

柱頭の上部のアーキボルト部分には、当時の青い色彩が残っている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

これは、旧約聖書のダニエル書に出てくる一場面「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」である。ダニエルはイスラエルの重要な預言者のひとりだが、ベルシア王が自分ではなく神を崇拝するダニエルに腹を立て、腹を空かせているライオンがいる洞窟の中でダニエルを一晩過ごさせた。翌朝ライオンに食われていると思っていたダニエルが、無傷で神に祈っていること見たペルシア王は驚いた。この話がサンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)の柱頭に描かれている。あまりライオンぽくないが、まるでダニエルに甘えるようにダニエルの両肩に前足を載せるライオンの姿が描かれている。

一般的なロマネスクスタイルの「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」では、ダニエルは両手を合わせるか両手を広げて上に揚げている姿で現され、そのダニエルの足元にライオンが描かれ、服従の意を表していることが多い。しかし、ルガスのサンタ・マリア教会では、確かにダニエルは両手を合わせて祈っている様子だが、前述のようにライオンがダニエルの両肩に前足を載せていて、珍しいスタイルの一つだといえるだろう。

教会の入口にあった説明書によると、「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」は、罪や悪霊や悪魔によって束縛されている人間の魂を象徴している。無実の罪によって死刑に課され復活したイエスと、ライオンに食われる刑を課され穴に投げ込まれたにもかかわらず食われることなく無事に穴から出てくるダニエルは、重ね合わされてロマネスクでは表現されていると一般的には解釈されているようだ。(「Iconografía y Simbolismo Románico」より)

柱頭には美しい植物の装飾が施されている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

様々なの影響を受けた装飾

南口のアーキボルトは2本あり、その装飾は興味深い。

シンプルな中にも存在感があるアーキボルトの模様(写真: 筆者撮影)

上の写真でもよく分かるが、外側のアーキボルトには、嘴のある鳥のモチーフが施されているのが見える。これは、入口の説明書によると、サクソン人からの影響を受けているらしい。サクソン人は北ドイツで形成されたゲルマン系の部族で、4~5世紀にはイギリスにわたってアングロサクソン人となった人たちだ。そして、この嘴のある鳥の模様は、イングランド・フランス・アイルランド等でもよく見られる模様で、アストゥリアス地方でも見られる模様だということ。これも北の巡礼の道を通って様々な文化が伝わってきた証拠の一つだろう。

内側のアーキボルトは、まるで小文字のオメガ「ω」が連なっているような模様だ。入口の説明書によると、「ロージョス・サモラ―ノス(rollos zamoranos)」と呼ばれる「サモーラの円筒状に巻いた形(筆者訳)」で、名前の通りカスティージャ・イ・レオン州のサモーラという街が起源のイスラム文化のオリエンタルな影響を受けた形だとか。

嘴のある鳥と円筒状の模様があるアーキボルト(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

グリーンマン

下の写真は、大きな口を開けて植物の茎や葉を出す擬人化された仮面を持つグリーンマン。

口の中から大きな葉っぱが飛び出してくる動きがある模様だ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

グリーンマンと呼ばれる植物を吐き出す仮面は、ロマネスクでは頻繁にみられるモチーフの一つであり、生命の無限の再生サイクルに関連する大地から生じた宗教に由来する。何故グリーンマンをロマネスク教会の装飾に多用したのだろうか。今も専門家たちの意見が分かれハッキリした意味は定説としては無いようだ。ただ、生命の無限の再生を表す、すなわち、「再び生まれる、よみがえる」という意味がキリストの復活に結びつけられたのではないかという説もあり、これは納得いく説だと思われる。

最後に

現在は小さな村でひっそりと佇むルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)。しかしその装飾を一つひとつ見ていくと、同じスペイン国内で始まったアへドレサード(ajedrezado)」と呼ばれる市松模様や、遠くドイツ北部のサラセン人を起源とする人たちがイングランド・フランス・アイルランド等へ渡りそこで使い始めた嘴のある鳥の模様、そして異教徒文化であるイスラム文化の影響を受けた模様など、距離・文化・宗教を超えてサンティアゴ巡礼の道を通して様々な交流が行われていたこと、伝達されていた証拠となる模様を見ることができたことはとても興味深く、貴重なものであった。

参考

・アルテギア(arteguia)のウエブサイト。スペインロマネスク美術と中世美術を紹介するサイト。本も多数出版している。

https://www.arteguias.com/santuario/santamarialugas.htm

・Youtube でもルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)が見れます。

ロマネスクへのいざない (17)- ラ・リオハ州(1)-ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)

今回は、ラ・リオハ州にあるロマネスクを紹介する。ラ・リオハ州と言えば、まず最初にスペインワインを思い浮かべる方も多いだろう。スペインを代表する赤ワインとして有名なクネ(Cune)ワイナリーが造っているインペリアル(Imperial)もラ・リオハ州にある。

クネワイナリーに興味のある方はこちらもどうぞ。

今回紹介するビゲラ(Viguera)は、ワイナリーの街アロ(Haro)から東南に60㎞程、州都であるログローニョ(Logroño)からは20㎞程に位置する小さな村だ。

たまたまこの村に宿をとり、ラ・リオハ州の観光旅行をしようとしていたのだが、宿主から「ここからすぐ近くにサン・エステバンというロマネスク様式の礼拝堂があるから、訪れてみることをお薦めするわよ。」と言われて初めてその存在を知った。サン・エステバン礼拝堂を訪れるには、村の中心部にあるバルに寄って礼拝堂の鍵を借りてから行かなければならないとの助言もあり、正直言って、村のバルの人が礼拝堂の鍵を管理しているくらいなので、文化的価値はあまり高いものではないのだろうと高をくくっていた。まさかロマネスクの珠玉が隠されているとも知らずに・・・。

まるでイグルー!

ビゲラ(Viguera)を出て、急な斜面を登っていくと、まるでイグルーの様な不思議な建物が見えてくる。えっ、これが礼拝堂⁈ というのが最初の印象だった。普通、私がこれまで見てきたロマネスク様式の教会には、鐘楼部分があり、十字架があり、瓦屋根があり、入口はロマネスク様式特有の半円アーチがあり、一目でその建物が宗教的な建物であることが分かるようなものばかりだった。

しかし、サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)は、失礼を承知で敢えて言うならば、まるで避難場所、しっかりとした羊飼い達の雨宿り場所、という感じで、とても粗末で原始的なものだった。

とてもとても、キリスト教の礼拝堂とは考えられないような外観(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

そそり立った岩山の足元にひっそりと

写真を見ていただくとお分かりになるように、このサン・エステバン礼拝堂がある場所は、そそり立つ岩の穿った部分にあり、礼拝堂の横から見える景色も岩山やその側面にある洞窟の様な部分が多くある。

この礼拝堂の起源を示す文献が残っていないので、ハッキリとしたことは分かっていないらしいが、その起源は10世紀頃まで遡ると考えられている。この地方は、イスラム教徒支配を受けた後、再びキリスト教徒たちが奪回した(レコンキスタ)歴史がある。サン・エステバン礼拝堂は、レコンキスタ後にキリスト教徒によって建てられたロマネスク様式(11~12世紀)以前の建築物である。

多くの研究者たちは、この礼拝堂は建設当時、渓谷を構成する崖や岩山の多くの洞窟や窪みに定住していた、様々な隠遁者たちが集まって祈りを捧げていた修道院のような場所だと考えている。あるいは、長さ8メートル、幅4メートルほどの小さな建物であることから、修道院ではなく、隠遁者たちの祈りの場所、と同時に軍事的な要塞を兼ねた場所だったのではないかという説もある。

12世紀になり、この礼拝堂は改修工事が行われた。ロマネスク様式の特徴の一つである半円形ボールトに置き換えられ、プレ・ロマネスクによくみられる直線的なものから現在の半円形の外観になった。(ビゲラ市役所のウエブサイトより)

ビゲラの村から見た礼拝堂周辺のそそり立つ岩山(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

内部には素晴らしい壁画が!

ビゲラ村のバルから借りてきた鍵で入口を開けて中に入ってみた。初めは暗くてあまりよく見えず、教会とは思えないほど簡素な、ハッキリ言って何も無いような印象だった。

入口から左手の奥に祭壇や主要アーチが見える(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

入口のドアを開けたままにして光を入れ、少しづつ薄暗い光に目も慣れてきたその時、ビックリするようなものが目の前に広がっていた。

保存状態は決して良好とは言えず、また多くの壁画は消失してしまっているにもかかわらず、力強い壁画が描かれている。

入口の右側と天井部分に残る壁画(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この壁画はラ・リオハ州の中でほぼ唯一の貴重なロマネスク絵画であり、外観からの予想から大きく外れた嬉しい驚きであった。人里離れたかなり急な斜面を登って辿り着き、壮大な景色を見ることができる場所に建てられたこのとても粗末な建物の中に、魅力的かつ神秘的な壁画が待ち受けているなんて、だれが想像できるだろうか。

かなりの急斜面を見上げると、岩山にぽっかり空いた口に礼拝堂はあった(写真. 筆者撮影)

壁画のテーマは黙示録

壁面を飾るほとんどの絵画のテーマは、聖書の黙示録の記述に基づいている。「生ける者にエスコートされる玉座」、「神秘の子羊と香炉を持つ天使」、「琴と杯を持つ24人の長老」。さらに、「戦士の衣装をまとった騎士」、マンドラと呼ばれるアーモンド型の中で天使に囲まれて座っている「威厳あるマリア」、10世紀後半にこの辺りのイレグア渓谷とレザ渓谷に君臨したビゲラの君主の称号を持つラミロ・ガルセス夫妻と同一視する人もいる「王と王妃の像」などがある。また、イエスの12使徒と考えられる一群の人の姿も見える。(ビゲラ市役所のウエブサイトより)

「香炉を持つ天使」服には十字架が入った模様が描かれている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
「神秘の子羊」十字架をもっている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

 上の写真「神秘の子羊と香炉を持つ天使」は、イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)と呼ばれるミサが行われる祭壇がある聖なる場所と信者達がミサに参加する場所を隔てる壁にあるアーチの内部に施されている壁画である。

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)は、前述したようにロマネスク様式以前のプレ・ロマネスク様式と呼ばれるものであるが、特にイスラム文化の影響を色濃く受け継ぐモサラベ様式の影響を受けている。

イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)はモサラベ様式の特徴の一つであり、この礼拝堂の重要な特徴でもある。当時、モサラベ式ミサでは、参加する一般信者たちはこの壁から先の神聖な領域には立ち入ることができず、祭壇から離れた所に居なければならなかった。

モサラベ様式の重要な特徴であるイコノスタシスまたは聖障(せいしょう)。この真ん中のアーチの内側に「神秘の子羊と香炉を持つ天使」は描かれている(写真. 筆者撮影)

イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)の左側上部には、小姓の様な子供(?)、女性、そして中央には王冠を被り剣を手に持つ王の姿が見える。描かれている3人が一体誰なのか、何を表しているのか、調べてみたが分からなかった。

右側の女性の何か伺うような目つき、手には何か隠し持っているような仕草、どれも謎だらけ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

次に、マンドラと呼ばれるアーモンド型の中で天使に囲まれて座っている「威厳あるマリア」を見てみよう。「威厳あるマリア」の左側には女性、右側には王の姿がみえる。

下の写真ではよく見えないが、向かって左側の王の耳元に何やら不気味な黒い動物の姿がある。これは、「悪魔から助言される王」を表現している。(サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)への登り口の説明板より)

マンドラと呼ばれるアーモンド型の中にはマリアではなくイエスを描いたものが一般的だが、ここではマリアが描かれている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アップにした写真で見てみよう。確かに耳元に悪魔らしき生き物が何かをささやいているようだ。

「悪魔から助言される王」(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

モサラベ様式の影響

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)は、前述したように、その起源は10世紀頃まで遡ると言われている。10世紀のスペインは、南はイスラム教徒に支配されており、北部では盛んにキリスト教徒がイスラム教徒から土地を奪回するレコンキスタ(国土回復運動)が行われていた。そして、丁度アストゥリアス王国の首都オビエドからレオンへと遷都され、レオン王国が誕生していた。

アストゥリアス王国の簡単な歴史については、こちらを参照してください。

今はラ・リオハ州の中にビゲラ村は位置しているが、10世紀にはレオン王国に属していた。この頃レオン王国内では、イスラム教徒が支配するスペイン南部アンダルシアに影響を受け、キリスト教文化と融合した多様な芸術表現が現れた。これが「モサラべ様式」である。建築、絵画、銀細工品、象牙彫など、東方的装飾性が濃いのも特徴の一つである。

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)の壁画は赤、黄土色、白、黒の4色で描かれているが、ある部分の背景は黄土色で、別の部分の背景は赤色で塗られており、太く黒い線描の人物像が生き生きと描かれている。

「戦士の衣装をまとった騎士」アーモンド型の目とくびれたウエスト、腰に巻いた服はエジプトの壁画を彷彿とさせる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

人間は細長く描かれ、動きだしそうな印象を見る人に与える。一人一人の顔は、どれもよく似た特徴を持ち、横顔は楕円形で、反対側の耳まで一直線に伸びている。目は2つの弧型で形成され、大きな丸い瞳孔は常に黒く、眉毛は鼻の直線で終わる2本の線である。また、太い黒の線描で人物を構成し、その上に彩色を施す方法がとられており、これらはモサラベ様式の影響を強く受けている。(アルテギアより)

「イエスの12使徒」の一部分。手が体に比べて大きいが、動きを表現しているようだ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

下の写真は「琴と杯を持つ24人の長老」。残念ながら24人全員の人物像は残存していないが、わずかにこれらの長老たちの頭上に残りの長老たちの足と服のすそ部分が見える。興味深い事には、この写真の長老たちの背景は赤色だが、上の層の背景は黄土色で色分けがしてある。何か意味があったのだろうか、それとも構図の工夫の観点から色分けしたのだろうか。今となっては分からない。

「琴と杯を持つ24人の長老」三日月模様の服は、イスラム文化の影響だろうか(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

長老たちは各々中世フィドル(Giga)と呼ばれる現代のバイオリンのような弦楽器をと軟膏や香水が入った球状のフラスコを手に持っている。

中世フィドル(Giga)(ウィキペディアドメイン写真)

最後に

興味深い事は、この礼拝堂は何世紀にも亘り完全に忘却の彼方に消え去っていたことだ。確かにかなり近づかないと礼拝堂の姿は見えない。更に、礼拝堂に近づくにはかなり急な傾斜面を登っていかなくてはいけない。しかし、ビゲラ村からはそう離れてもいないし、この礼拝堂近くを散歩していた村人たちはいただろう。ただ、あまりにもその粗末な外見から、中に入ってみようという興味をそそられるような人がいなかったのだろう。1950年代に「再発見」され、修復工事が行われたという話を聞いて驚いた。そして、その修復工事の際にこのフレスコ画が見つかった。それが前述したように聖書の黙示録の一説を描いたものである。

ビゲラの村から少し離れていて、かなり急な斜面を登らなければならないとしても、十分に訪れる価値があるもので、もっと大々的にアピールすればよいのにと、少し残念でもある。

サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)の素晴らしい壁画は、スペインプレ・ロマネスクの至宝といえよう。もしかすると、他の小さな村にも忘れ去られた至宝が眠っているかもしれない。

参考

・ビゲラ市役所のウエブサイト

https://aytoviguera.larioja.org/descubre-viguera/ermita-de-san-esteban

・アルテギアのウエブサイト

https://www.arteguias.com/ermita/viguera.htm

・ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)を扱った動画が幾つかあったのでこの場で紹介する。

一緒に探そう!家族みんなで楽しめるサラマンカの観光

絵本「ウォーリーをさがせ!」のような細かいイラストの中に隠れている「なにか」を探し出すことは、子供は勿論、大人も大好きですよね。スペインのサラマンカには面白い探し物が色々あります。一緒に探してみませんか?

サラマンカ大学の「カエル」を見つよう!

サラマンカ大学は現存するスペイン最古の大学として有名です。ヨーロッパ内でもイタリアのボローニャ大学、イギリスのオックスフォード大学、フランスのパリ大学等と同様に11世紀~13世紀にかけて高等教育機関、いわゆる「大学」として設立されたもので、サラマンカ大学の創立年は1218年です。去る2018年には創立800年記念が大々的に行われました。800年間も連綿と続いて現在進行形で発展していることは敬嘆に値します。

この沢山の彫り物の中にされこうべの上に乗っかっているカエルはいます(写真: 筆者撮影)

その大学を代表する建物のファサードは16世紀に造られましたが、サラマンカのシンボルともいえるされこうべの上に乗っかっているカエルの彫り物があります。サラマンカ大学に入学した学生たちは必ずこのカエルの彫り物を探します。見つけた人には幸運が訪れ、大学の全教科に合格するという言い伝えがあるからです。

450年以上もの間、されこうべの上に乗っかっているカエルを見つけてみてくださいね!見つける場所のヒントですが、右側のかなり上の方にその彫刻はあります。

サラマンカのお土産物屋さんにはファサードに彫られているのと同じされこうべに乗っかったカエルの置物が色々売ってあります(写真: 筆者撮影)

サラマンカ新大聖堂の不思議なモチーフとは一体なに

サラマンカ大学のカエルを見つけたら、次にサラマンカ大聖堂の様々な楽しい彫り物を探しに行きましょう。

サラマンカ新大聖堂はチュリゲレスコ様式とも呼ばれる銀細工様式(プラテレスコ様式)の飾り彫りが所狭しとばかりに施されているのが特徴でもあり見どころでもあります。様々な宗教的モチーフを具象化したその飾り彫りは見る人を飽きさせないものですが、大きな建物にこれでもか!これでもか!と彫られているまるで銀細工のように繊細で数えきれない飾り彫りの中から不思議なモチーフを見つけ出すのは至難の業だと言えるでしょう。

そこでヒントです。不思議なモチーフはプエルタ・デ・ラモス(Puerta de Ramos)と呼ばれる入口の飾り彫りの中にあります。さて、一体何でしょう?

では、いよいよ不思議なモチーフの正体を暴露しましょう!笑

不思議かつ驚きのモチーフは、宇宙飛行士です。えっ⁈宇宙飛行士⁈ 18世紀に完成した大聖堂の飾り彫りに20世紀の宇宙飛行士が何故いるの⁈ と困惑された方もいらっしゃることでしょう。でも、紛れもない立派な宇宙飛行士が大聖堂入口の飾り彫りの中に施されています。

紛れもない宇宙飛行士が大きな葉っぱの上に座っています(写真: 筆者撮影)

不思議なモチーフが彫られた理由とは⁇

1993年に「ラス・エダデス・デル・オンブレ (Las Edades del Hombre)」という展示会がサラマンカ新大聖堂で開催されましたが、プエルタ・デ・ラモス入口部分の劣化がひどかったために修復されることになりました。

丁度前年1992年にスペインで初めて宇宙飛行士の候補となるペドロ・ドゥーケ (Pedro Duque) 氏が選出されました。スペイン中で話題になり、このスペインの歴史的瞬間を証明するという意味で宇宙飛行士が選ばれたそうです。

というのも、スペインの石工達は建物建築や修復に携わる際、その時代の歴史的瞬間を彫り物のモチーフによって証明することが伝統的に行われていました。そのためこの修復工事に携わった石工ミゲル・ロメロ (Miguel Romero) 氏が20世紀を象徴するもの、スペイン初の快挙となる初めての宇宙飛行士候補が選ばれた国民的歓喜の歴史的瞬間を証明するものとして宇宙飛行士の姿を彫ったという訳です。

まだまだ探そう!不思議なモチーフ

宇宙飛行士の他にも不思議なモチーフがプエルタ・デ・ラモス入口部分には彫られています。宇宙飛行士が歴史的瞬間を証明するものとして彫られていますが、こちらは20世紀を代表するみんな大好きな食べ物が彫られています。さて、何でしょうか?

それは、ズバリ!アイスクリームです!

それも、単にアイスクリームが彫られているのではなく、まるでタイムスリップした18世紀の悪魔が20世紀のアイスクリームを食べているのです。 嬉しそうにそして誇らしげにコーン入りのダブルアイスクリームを持っている悪魔。憎めないですね!思わず、「いつまでももったいぶって食べないと、溶けちゃうよ!」って声をかけたくなります。

¡Qué aproveche! たっぷり召し上がれ!(写真: 筆者撮影)

宇宙飛行士やアイスクリームを食べる悪魔と同じエリアには、国際自然保護連合(IUCN)が作成した絶滅の恐れのある野生生物のリストに載っているスペインオオヤマネコ、闘牛でお馴染みの雄牛や、ザリガニ、コウノトリ、ウサギの姿も彫られていて子供たちと一緒に見つけるのにもってこいです。

両頬の下から長いひげの様な毛が生えているのが特徴のスペインオオヤマネコ(写真: 筆者撮影)
残念ながら角が折れて失われてしまっている闘牛。矢張り角がない闘牛は迫力がいまいちですね(写真: 筆者撮影)
こちらはザリガニ。サラマンカではザリガニ、コウノトリ、ウサギは水・空・大地を表す生き物です(写真: 筆者撮影)

厳粛かつ荘厳な大聖堂の入口に、こんな楽しいモチーフが彫られているのは意外ではないでしょうか。一つ一つ注意してみていくと石工達の遊び心満載です。子供たちと一緒に、自分だったら何を彫って後世に伝えていきたいかなと考えたりするともっと楽しくなりそうです。

たとえ修復工事によって新しく加えられたモチーフとは言え、日本では考えられないような自由な発想ですよね。伝統を守りながらも新しいことを加えていく柔軟さに敬嘆させられます。

赤ちゃんを運んでくる⁈ コウノトリ(写真: 筆者撮影)
触るとご利益があると言われているため、みんなに触りまくられているウサギは、表面がツルツルになって変色しています(笑)(写真: 筆者撮影)

コロンブスを探せ!

最後に、15世紀大航海時代の探検家であるコロンブスの像を探してみましょう!

こちらはコロン公園の中にあります。スペインではコロンブスのことはコロンと呼ばれていて、コロン広場は名前の如くコロンブス広場のこと。こちらは簡単に見つけられます。

地球儀を持ちアメリカ大陸を指さすコロンブス(写真: 筆者撮影)

その他に、街の中にある像を見つけるのも楽しいですよ。

こちらは、クリスマスのお菓子トゥロン(Turrón)を売るおばさんがマヨール広場の近く、市場の横に座っています。

優しそうな顔をしたトゥロン売りのおばさん(写真: 筆者撮影)

クリスマスのお菓子トゥロン(Turrón)については、こちらもどうぞ。

子供と一緒に海外旅行となると、なかなか子供が退屈しないようにするのが大変ですが、街の中や建物の装飾の中で探し物をしてみると子供たちも退屈せずに家族みんなで楽しめるかもしれません。

楽しい探し物が一杯あるサラマンカの街に、是非子供たちと一緒に訪れてみては如何でしょうか。

ロマネスクへのいざない (16)- アストゥリアス州 (4)– プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)

宿泊していたビジャビシオサ(Villaviciosa)の街から車で20分とかからない所にサン・サルバドール教会はあった。

この教会は、1913年2月5日に国定史跡(Monumento Nacional)に指定されたが、2015年には、ユネスコが「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道である、フランスからの巡礼の道並びにスペイン北部経由の巡礼の道(筆者訳)(«Caminos de Santiago de Compostela: Camino francés y Caminos del Norte de España» 」に承認した際、海岸沿いの道の個別資産(参照番号669bis-013)の一つとして含まれた。(ウィキベテアより)

切り石建築ではなく、漆喰と塗装が施されている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アストゥリアス文化(プレロマネスク様式)とは

10世紀末から12世紀にかけてヨーロッパ各地でロマネスク様式の教会や修道院が盛んに建設されたが、スペインにはロマネスク様式への架け橋となった西ゴード、アストゥリアス、モサラベの3種類のプレロマネスク様式がある。ここでは現在スペインのアストゥリアス州にのみ現存するその土地に根差したアストゥリアス建築を中心とするアストゥリアス文化の教会を見てみる。

アストゥリアス文化は、8世紀から10世紀の頭まで200年ちょっとの間に花開いた文化であり、それはアルフォンソ2世(Alfonso II)が統治していた791年から842年、ラミノ1世(Ramino I)とオルドーニョ1世(Ordoño I)が統治していた842年から866年、アルフォンソ3世(Alfonso III)が統治していた866年から910年までの3段階の発展があった。

プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、このアストゥリアス文化(プレロマネスク様式)の教会として、921年に献堂されたが、この年は既に首都がアストゥリアスのオビエドから現在のカステージャ・イ・レオン州のレオン市に遷都され、アストゥリアス王国ではなくレオン王国になっていたという時代背景がある。

後陣を外側から見た教会。窓はまだ小さいもので格子窓が使われているのはアストゥリアス文化の特徴の一つ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

色濃く残るアストゥリアス文化の特徴

この教会はアストゥリアス文化の特徴を兼ね備えた教会である。

バシリカ間取り、身廊(Nave principal)と身廊の両側の外廊(Nave)の3つから成り、教会の祭壇を含む頭部(Cabecera)は3つの部分に分かれ、その天井は半円形ボールトで覆われている。身廊は外廊に比べより高くより広くなっており、身廊と外廊は半円アーチの柱で区切られている。そして入り口のホール部分からトリビューン階上廊へ上っていく造りになっていた。これは、君主がミサに出席する際に二階にある席に座るためのものであり、そこには衝立等が置かれていて、ミサに出席している他の一般の信者たちからは見えないような配慮がなされていた。この部分は現在では焼失されてしまったのが残念だ。

プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、アストゥリアス文化最後の建築時代の最も興味深い例のひとつであると言われている。

手元にあるオビエド大学の美術史教授カルメン・アダムス・フェルナンデス(Carmen Adams Fernández)著「El Arte Asturiano Prerrománico・Románico・Gótico(アストゥリアス文化 プレロマネスク・ロマネスク・ゴシック)(筆者訳)」では、プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、「彫刻装飾はバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdediós)をモデルとしているが、建築の間取りについては、リージョのサン・ミゲル教会(Iglesia de San Miguel de Lillo)やバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdedós)といったより近い時代の建築よりも、バシリカ・サントゥジャノ(Santullano または Basilica de San Julián de los Prados) との類似性が確立されていることから、そのモデルはアストゥリアス文化の初期、特にアルフォンソ2世(Alfonso II)の時代にある(筆者訳)」と指摘している。

前述したように、この教会が献堂された921年は、910年にレオンに遷都されてから既に10年の歳月が過ぎていた。アストゥリアスの人々はアストゥリアス王国の繁栄時代を懐かしみ、復古主義的になっていたのだろうか。アルフォンソ2世(Alfonso II)の時代と言えば前述したように791年から842年なので、60年から100年近く時代を遡っていることになる。興味深いものだ。

半円アーチで区切られた身廊と外廊。今もミサがあげられるため長椅子が置いてある(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

モデルとなったバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdediós)についてはこちらをどうぞ。

1000年の重みを感じさせられる内部

下の写真を見てお分かりになるように、後陣の祭壇部は半円アーチと柱にて3つの部分に区切られており、中央部分にはアストゥリアス文化の特徴の一つである格子窓が明り取りとなっている。原始キリスト教時代から「3」という数字には特別な宗教的意味が込められていた。それは、「三位一体」を具象化していたのである。「三位一体」とは、325年に開かれたニケーア公会議に始まり数回の公会議を経てキリスト教の正当教義となった、「神とキリストと聖霊の三者はそれぞれ別な位格(ペルソナ)をもつが、実体は一体である」という教義のことである。また、キリストが磔刑に処せられた時の年齢が33歳であったことや、その際午後3時に息を引き取ったということからも「3」という数字にキリストを重ね合わせたとも言われている。

薄っすらと幾何学的な絵の跡が見られる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こちらの写真は身廊の両側の外廊(Nave)に当たる後陣部分である。ここにもアストゥリアス文化の特徴の一つである格子窓があるが、これは10世紀当時のオリジナルなものだという説明を教会を開けて見せて下さった管理人の方から聞き、1000年以上の歳月に耐えられる当時の建築技術の高さを改めて感じさせられた。

こちらの天井にも幾何学模様が見える(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

次の写真は、後陣の祭壇部と身廊の両側の外廊(Nave)に当たる後陣部分を隔てている塞がった半円アーチと柱がある壁。これも大変保存状態の良いオリジナルの一つだ。

塞がれた半円アーチと柱によって後陣を3つに分ける壁(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

また、教会内部の床部分はコンクリートでできているが、これは中世初期スペイン建築の特徴の一つである。これもオリジナルだ。

見えずらいが、10世紀から1000年以上も多くの信者たちを迎えてきた床(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

不思議な窓とその小部屋

教会の外に出て、外から後陣を見てみると、前述の明り取りの格子窓の上に下の写真のような2つの小さな馬蹄形アーチを載せた窓がある。

スペイン建築の特徴の一つ、馬蹄形アーチ窓(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

実は、祭壇部分がある中央後陣の上には小部屋が設けられている。この小部屋は、アストゥリア文化の教会建築の特徴の一つである。不思議なことに、内部からこの小部屋に入ることはできず、外部からもこの2つの小さな馬蹄形アーチを載せた窓からしか入れないのである。しかも、この窓から入るための足場も何もない上に、この窓はかなり小さいので大人が一人やっと入れるくらいの幅しか無い。

中央の格子窓の下に足場があるが、格子窓の上にある2つの小さな馬蹄形アーチ窓までは到底届かない高さ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この謎の小部屋についてアルテギア(arteguia)のサイトに、「この小部屋の起源や機能については、研究者の間でも意見が一致していない。構造的、美的機能を果たしていることは間違いないが、他の目的、おそらく聖遺物を保管する場所として、あるいは穀物貯蔵庫として使われた可能性もある。(筆者訳)」と説明されている。内部からも外部からも侵入が困難であったこの小部屋は、大切なものを保管する場所として使われていたのであろうが、謎が解決することはないのだろうと思った。それだけに色々な想像をかきたてくれる。

最後に

下記参考に、プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)を訪れたい方のためにアストゥリアス州の観光サイトを紹介しているが、私が10月末に訪れた際には、教会の前の家に住んでいらっしゃる管理人の方が教会の入口を開けて見せてくれた。事前予約もなく無料で観覧できたが、やはり事前に連絡をして日時を予約して行った方が賢明であろう。

スペインの中でも特にアストゥリアス州でしか見れない-実際には、現在のアストゥリアス州以外でも数件残存するが-特殊なアストゥリアス文化、そして1000以上の気の遠くなるような長い年月をタイムスリップするかのような錯覚を与えてくれる教会を是非、訪れてほしい。

このアストゥリアスのプレロマネスクとロマネスクを訪ねた旅のルートを知りたい方はこちらをどうぞ。

参考

・アストゥリアス建築について、建築家丹下敏明氏が直截簡明に説明してあるお薦めのエッセイ。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53485769.html

・アルテギア(arteguia)のウエブサイト。スペインロマネスク美術と中世美術を紹介するサイト。本も多数出版している。

https://www.arteguias.com/iglesia/sansalvadorpriesca.htm

・アストゥリアス州の観光サイト。こちらには連絡先などの基本情報がある。

https://www.turismoasturias.es/descubre/cultura/prerromanico/iglesia-de-san-salvador-de-priesca

・スペイン中世初期美術友の会(筆者訳 Asociación de Amigos del Arte Altomedieval Español)のウエブサイト。アストゥリアス文化についても出ている。

https://www.turismo-prerromanico.com/home-b__trashed-2__trashed-2__trashed-2-2-2/monumento/san-salvador-de-priesca-20130116115217

スペインのワイナリー見学(3)-クネ(CVNE)

イースター休暇を利用してラ・リオハ州にあるクーネ(CVNE)というワイナリー見学に行ってきました。スペインワインと聞いて一番有名なワインの産地はやはりリオハワインだと思います。その中でも、クネ(CVNE)は1879年から140年以上も続く伝統あるワイナリーでまさしくスペインを代表するワイナリーと言えます。

ワイナリー見学はこちらから!(写真: 筆者撮影)

「クネ(CVNE)」ワイナリーの歴史

通称「クネ」と呼ばれているワイナリーの正式名称はコンパニア・ビニコラ・デル・ノルテ・デ・エスパーニャ(Compañía Vinícola del Norte de España )で、その頭文字を取って「C.V.N.E」です。日本語に訳すと「スペイン北部のワイン醸造会社(筆者訳)」となり、えらく抽象的な名前の会社だなというのが私の最初の印象でした。(笑) 「クネ(Cune)」と呼ばれている理由は、「V」を「U」にする方が呼び名として洒落た感じだったからだとか。上の写真でもワイナリーの名前「クネ(Cune)」の文字が見えます。

ワイナリーの敷地内は、ちょっとレトロな雰囲気が漂っていました(写真: 筆者撮影)

前述したようにこのワイナリーは、1879年リオハ州にあるアロ(Haro)という街にレアル・デ・アスーア兄弟(Real de Asúa)によって設立されました。もともとはリオハ州出身ではない二人でしたが、健康上の理由からこの地に移り住むことを決め、家族経営のワイナリーを始めることにしたとのこと。今も同じレアル・デ・アスーア家の人達の手により、質の高い、職人的かつ伝統的なワインを生産し続けています。

アロ(Haro)にはクネ(CVNE)以外にも有名なワイナリーが沢山あります(写真: 筆者撮影)

クネ(Cune)と言えばインペリアル(Imperial)!!

スペイン人にクネ(Cune)の代表的なワインは何?と尋ねると、必ず帰ってくる答えは「インペリアル・レセルバ(Imperial Reserva)!!」。このワインは、良質なぶどうが収穫され、優良なヴィンテージが期待出来る年にのみ造られる特別なワインです。

私の義母はリオハ州出身ですが、クリスマスプレゼントの定番がこの「インペリアル・レセルバ(Imperial Reserva)」。「このワインを嫌いな人なんていないわよ!」と言っている通り、地元の人達にも圧倒的な信頼を置かれているワインなのです。それもそのはず。このインペリアルワインはスペイン国王が毎年樽で購入しているプレミアムスペインワインなのです!

更に、「インペリアル ・グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」はアメリカのワイン専門誌『ワイン・スペクテーター』が選ぶ2013年世界のTOP100ワインランキングにて堂々【第一位】に輝き、スペインワイン初の快挙、まさに革命的な出来事となりました。

マグヌム (magnum) と呼ばれる1.5L入りのワインと3L入りの巨大ワインが売ってありました。うーん、3Lのワインを注ぐのはかなり大変そう…(写真: 筆者撮影)

スペインフェリペ国王とレティシア王女は2004年5月22日に結婚式を挙げられたので丁度今年は20周年という記念の年です。その壮麗な儀式の後で、披露宴の食事に振舞われた赤ワインがクネ(Cune)の「インペリアル ・グラン・レセルバ 1994(Imperial Gran Reserva 1994)」でした。前述のワイン・スペクテーター』が選ぶ2013年世界のTOP100ワインランキングにて堂々【第一位】に輝いた「インペリアル グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」は、奇しくもお二人が結婚された年のワインなので、今年5月22日の結婚記念日にはこの「インペリアル グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」でお祝いされるかもしれませんね。

ちなみに、結婚式に振舞われた白ワインは「テーラス・ガウダ(Terras Gauda)」でした。このワインのワイナリーについて興味がある方は、こちらもご覧ください。

エッフェル設計のワイン倉庫

樽詰めしたワインを寝かす倉庫は、伝説の建築家アレクサンドル・グスタフ・エッフェルのスタジオが設計したもので、1890年から1909年にかけて建てられました。建築家アレクサンドル・グスタフ・エッフェルと言えば、パリのエッフェル塔が有名ですよね。

約17mx47mの長方形の間取りで、その広さは800㎡というかなり大きな倉庫(写真: 筆者撮影)

上の写真を見てお分かりになるように、これだけ大きな倉庫に柱が1本もありません。屋根は壁から壁へと走る金属製のトラスで支えられ、革新的な固定方式を採用した堂々たる構造となっていて、空間革命となりました。

この大きく開放的な空間は、建物内の樽の管理を大幅に最適化し、ワインの棚入れ、メンテナンス、管理を容易にしました。エッフェルが設計した倉庫と整然と並べられた大量のワイン樽は必見の価値ありです。

「インペリアル(IMPERIAL)」ワインの樽(写真: 筆者撮影)

ワインの墓場(Cementerio)⁉

次に、ワイナリーの見学の最大のミステリーとなる「墓場(Cementerio)」と呼ばれる地下室へと誘引されました。ガイドさんの懐中電灯の明かりだけを頼りに「墓場(Cementerio)」へと入ると、まるでミステリー映画かヨーロッパの中世にでもタイムスリップしたかのような錯覚を覚えました。

まるでワインのカタコンベのよう!(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

ここには、ワイナリー創立以来最も古いワインから今日のワインまでを保管してあります。ここの暗闇・温度・湿度といった理想的な条件下で、生き物であるワインは瓶詰めされた後も熟成し続けるのです、という説明がありました。「ワインが生き物」ということを考えたこともなかった私にとっては、真っ暗で湿気のあるこの地下室でいつか栓を抜かれ外界の空気と触れ合うまで、この「生き物」は息をひそめてジッと横たわって待ち続けているんだ、という背筋がゾワッとするような想像をかき立てられました。

少なくとも8万本の瓶が横たわっている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この後、ガイドさんがこの「墓場(Cementerio)」のある伝説を語ってくれました。1979年、クネ(CVNE)の創立100周年を記念して、設立者のレアル・デ・アスーア兄弟の子孫たちは、1888年のワインや、スペイン市民戦争が始まった1936年のワインなど重要なヴィンテージのボトルを、閉ざされた立ち入り禁止の門の奥に保管するという協定に署名しました。そして伝説によると、1979年に門を閉じた鍵は川に投げ込まれ、次の100周年にあたる2079年に、その協定に署名したレアル・デ・アスーア兄弟の子孫たちが再び集まれば、門は再び開くのだそうです。

写真では見えずらいですが、閉ざされた立ち入り禁止の門のこの中に、100年間の重要なヴィンテージのボトルが保管されています(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

テイスティング タイム 

まるで小説にでも出てきそうな伝説と「ワインの墓場」を後にして、湿気のある肌寒い地下から再び光射す地上に戻ってきました。なんともホッしました。(笑)

そして、楽しみにしていた試飲タイム!ここでは、一般には市販されていない、限定ワインの試飲ができました。深い赤色、深い味わい、両方ともとても美味しく頂けました。ただ、インペリアル(Imperial)の試飲もあるのかなーなんて期待していましたが、残念ながら出てきませんでした。(笑)

ほのぼのとした絵が描かれているラベルも素敵!(写真: 筆者撮影)

ガイドをしてくれた可愛いマリア(María)のワイナリーへの愛情や誇りが私たちにも伝わってきて、とても楽しいワイナリー見学ができました。

もし、ワイナリー見学に興味のある方はラ・リオハ州アロ(Haro)に是非足を運んでみてください。この町には沢山の有名どころワイナリーがツアーを開催しているので、参加されるときっと旅の良い思い出になること間違いなしです。

テイスティングの説明をするガイドのマリア(María)(写真: 筆者撮影)

参考

・「クネ(Cune)グループ」の公式サイト。個人でワイナリー見学を予約される方はこちらからどうぞ。https://cvne.com/visitas-home/

・ラ・リオハ州のワインを楽しむスペイン観光公式サイト。https://www.spain.info/ja/supein-tankyuu/rioha-ekusuperientu-wain-tanoshimu

・同じラ・リオハ州のワイナリー見学の別の記事はこちらからどうぞ。