娼婦とピクニック⁈ サラマンカの楽しいお祭り「ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)」

今日(2025年4月28日)はサラマンカの人にとって特別な日。ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)と呼ばれるお祭りの日です。このお祭り、現代に生きる私達にはビックリするようなルーツを持つお祭りですが、地元の人達は自分たちの伝統文化に誇りをもって楽しんでいるようです。

サラマンカ大聖堂(写真: 筆者撮影)

イースターの後のお祭り

キリスト教徒の国スペインでは、他のキリスト教徒の国々と同様に復活祭を祝う様々なお祭りがあります。サラマンカのルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)は復活祭の月曜日の次の月曜日に祝われ、一般的には復活祭の翌日の月曜日にお祭りが多いので、ひと呼吸おいてこのお祭りが行われることも特徴の一つかもしれません。

というのも、ひと呼吸おかなければならない理由がこのお祭りの起源にありそうです。

聖週間中には聖母マリアやキリストの受難等を表した山車が街を練り歩きます(写真: 筆者撮影)

フェリペ王子の結婚式

1543年11月12日、16歳だった王子フェリペ2世とポルトガルのマリア・マヌエラ王女はサラマンカの街で結婚することになっていました。サラマンカには、1218年にスペイン最古の大学であるサラマンカ大学が設立され、フェリペ王子の結婚式が行われた16世紀にはスペイン国内のみならず、世界中の学生がサラマンカ大学で勉強していました。当時、サラマンカには8千人以上の学生が住んでいたらしく、同じ時期のマドリードの人口が1万1千人だった(ウィキペディア参照)ことを鑑みると、驚くほど多くの学生たちがこの街に住んでいたようです。

サラマンカ大学ファサード(写真: 筆者撮影)

結婚式の祝賀は14日の夜から19日まで行われ、その間街中で王室主催の様々なパーティー、お祭り、馬上槍試合、伝統的な両陣営によるトーナメントなどが途切れることなく続きました。ところが王室主催以外にも、街中ではこれ幸いと、淫らな酒場や売春宿などでの一般市民や学生たちがお祭り騒ぎで賑わっていました。このどんちゃん騒ぎの様子に、敬虔かつ厳格な若きフェリペ2世は驚愕します。それもそのはず。サラマンカ大学は、知識の殿堂として、またヨーロッパのキリスト教の光として、神学・哲学・法学の研究を進めていたので、サラマンカは厳粛な街というイメージをフェリペ王子は抱いていたのです。ところが、その厳粛な街サラマンカには別の顔も兼ね備えていました。それは、ありとあらゆる娯楽を無制限にそして無秩序に楽しめるというものでした。

フェリペ2世の勅令

このことがよっぽど衝撃的なものだったのか、フィリッペ2世は、四旬節と聖週間の間、娼婦たちはサラマンカを離れ、対岸にある売春宿に閉じこもらなければならないという勅令を出します。つまり、娼婦たちは1ヶ月以上サラマンカの街から追い出され、学生等の男性たちは復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)まではジッと我慢していなければならなかったという訳です。そして、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の月曜日には、堰を切ったように娼婦たちはボートで街に戻りました。

貝の家の窓(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りに欠かせないオルナッソ(Hornazo)

彼女たちの帰還は、学生たちの間でお祭り騒ぎとなり、彼女たちを歓迎するために川までやってきて、酒を飲んだり、サラマンカの郷土料理であるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めた人気のオルナッソ(Hornazo)と呼ばれる食べ物を振る舞い、彼女たちの帰還を大いに祝い楽しんだそうです。

これが、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りのルーツです。

復活祭の翌日の月曜日はまだキリスト復活を祝う宗教的な意味合いの強いお祭りが多かった中、このような宗教的道徳に反するお祭りを祝うにはフィリッペ2世も躊躇したのでしょう。きっと、内心ではこのような破廉恥なお祭りは禁止してしまいたかったというのがフィリッペ2世の本音だったのでしょうが、流石にこれほど熱狂的に祝い、民衆から支持されていたお祭りを完全に禁止することは統治をする上でも得策ではないと考えたに違いありません。そのため、せめて復活祭からもう少し時間が経った次の月曜日までのひと呼吸をおくことになったのでしょう。

オルナッソ(Hornazo)(写真: 筆者撮影)

現在のルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭り

流石に、21世紀の今日ではサラマンカの街から追い出される娼婦もいませんし、娼婦たちとどんちゃん騒ぎをする男性も居ませんが、お祭りは無形文化財としても指定され、復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)の午後は、サラマンカ中の市民が思い思いにオルナッソ(Hornazo)と呼ばれるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めたパイ持参で川沿いにてピクニックをしてお祝いしています。生憎お天気に恵まれない時は、ピクニックではなく友人や家族の家に集まってオルナッソ(Hornazo)を食べます。

オルナッソ(Hornazo)の中身は具が詰まっていて食べ応え十分です(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の午後は、学校は勿論のこと様々な職場もお店も全て休みとなり、街中には人っ子一人いません。サラマンカの人達は皆、トルメス川沿いの原っぱでオルナッソ(Hornazo)を囲んで家族や友人たちとのピクニックを楽しんでいるからです。

大停電(Apagón)でもなんのその!

偶然、今日はスペイン中で大停電(Apagón)が起きたのですが、幸いここサラマンカはスペインの中でも電気の復旧が早く、約3時間半程の停電ですみました。でも、もともと午後はサラマンカ中のお店も役所も閉まってしまうルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の日だったので、あまり大きな被害はなかったようです。その上、サラマンカのほとんどの市民は、お天気に恵まれたこともあり、トルメス川沿いでオルナッソ(Hornazo)を囲んでピクニックをしていたので、あまり電気を恋しく思うこともなかったとか。今年は特に大勢のサラマンカの人達が川沿いで楽しんだようです。

皆さんも来年の復活祭の月曜日の次の月曜日にサラマンカにいらっしゃる際は、是非オルナッソ(Hornazo)持参でトルメス川沿いへ行ってピクニックを楽しんでみませんか。

チョコレート物語-アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)

スペイン、カステージャ・イ・レオン州のレオン県に位置するアストルガ (Astorga) という街をご存じですか?人口1万1千人程の小さな街ですが、ここにはアントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」があるので、ガウディ建築のファンの方はご存じかもしれません。ガウディ建築のほとんどがバルセロナに集中していて、数少ないバルセロナ以外にあるガウディ建築の一つがこの「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」です。

アントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」(写真: 筆者撮影)

その素晴らしいガウディ建築から歩いて10分程の所に、今回紹介する「アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)」はあります。では一緒に博物館を訪れてみましょう!

神の食物

チョコレートの原料であるカカオは、南米オリノコ川とアマゾン川流域が起源の植物です。高い温度と湿度が成長の条件で、二つの大きな川の流域はカカオが成長するのに理想的な場所でした。

そして、最初にカカオを栽培し、飲み物にしたのは、メキシコ湾やジャングルに住むマヤ文明(紀元前1000年頃~16世紀頃)やオルメカ文明(紀元前1200年頃~紀元前200年頃)の人達でした。紀元前1750年頃の器にカカオの残滓が付いていたものが発見されていて、これが最も古いカカオの記録とされているようです。本当に長い長い歴史を持っていたことがわかりますね。これは、豪奢な品物の数々と共にメキシコで見つかっており、カカオの飲み物はマヤ文明社会において、高貴な階級の人達のみが飲める飲み物であったことを推定することができます。

というのも、カカオはマヤ文明やアステカ文明の人達にとっては、神の食物と考えられていたのです。カカオは神聖な食物だったのです。

カカオの花はカカオの木の幹から直接ぶら下がって咲いている(写真: Wikipedia Domain)

ケツァルコアトル (Quezalcoatl) という神の伝説

伝説によると、羽のある蛇ケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が、「ショコラトル(xocolotl)」と呼ばれていたカカオの植物を知恵を授けるために人間に贈ったのだとか。しかし、神の食物であるこの植物を、死すべき人間に与えたことにより他の神々の怒りを買い、ケツァルコアトル(Quezalcoatl)は神の国から追放される羽目になりました。

こちらには、カカオの植物を知恵を授けるためにケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が人間に送ったという伝説が説明されています。(写真: 筆者撮影)

カカオの用途

神の食物と考えられていたカカオには様々な用途やシンボルが与えられていました。この「チョコレート博物館」の中にあった説明書によると、鎮痛剤、奉納物、貢物、貨幣、滋養食、強壮剤、媚薬、祭儀用の道具、交換するための高価な品物、豊穣の象徴、権力の象徴、そして社会的特権の象徴等々。これを見ると、マヤ文明やオルメカ文明の人達にとって必要不可欠な存在であったことが容易に想像できます。

マヤ文明やオルメカ文明で貨幣としての価値があったカカオの種は、面白い事に贋金ならぬ偽種まであったそうで、ソラマメの中に泥などを入れてカカオの種に似せていたとか。これらの偽種のことを「カチュアチチウア(cachuachichiua)」と呼んでいたらしいので、偽種の名前まで付くほど出回っていたのかもしれませんね。

当時のカカオの値段について説明してあるパネル (写真: 筆者撮影)

スペインにやって来たカカオ

中南米でのカカオは、前述したように「神の食物」と考えられていましたが、基本的には、カカオを粉にしてトウモロコシの粉や唐辛子、バニラなどの香料と共に水や湯に溶かして、食べ物というより飲み物として食されていました。今のチョコレートドリンクとは全く異なり、甘くなく、辛くて苦い飲み物だったようです。

そして、スペインに最初にこのカカオドリンクのレシピを紹介したのは、アステカ帝国を征服したスペインの征服者エルナン・コルテスに同行していたヘロニモ・アギラル修道士だと言われています。このヘロニモ・アギラル修道士は、1534年スペインのアラゴン州にあるピエドラ修道院の修道院長にカカオドリンクのレシピを送りました。

ところが、中南米で好まれていたカカオドリンクの辛くて苦い味は、スペイン人の口には合わず、修道士たちの工夫により蜂蜜・バニラ・シナモンを入れて飲みやすくアレンジされていきました。

カカオの葉や美も展示してありました (写真: 筆者撮影)

チョコレートは飲み物?それとも食べ物?

さて、スペインの修道士たちによってアレンジされたカカオドリンク(飲むチョコレート)は、100年位門外不出のものとしてスペインでのみ飲まれていました。主に、修道院や貴族、王族等、特権階級の人達だけが飲めるとても貴重な飲み物でした。

ここで、特に修道院の中で積極的に飲まれていたというこのカカオドリンク(飲むチョコレート)の面白いお話があります。キリスト教では、イースター前の四旬節に断食する習慣があります。スペイン版カカオドリンク(飲むチョコレート)の発明は16世紀なので、この頃には初期キリスト教の時代よりもかなり緩い断食スタイルになっていたようですが、修道院内では一般家庭よりも厳しい断食が行われていました。しかし飲み物は断食の対象になっていなかったため、修道士の中にはカカオドリンクを飲み断食を乗り切っている人もいて、それが物議を醸したのです。一体、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物なのか、それとも食べ物なのかと!結局、ローマ法王庁は、四旬節の間、カカオドリンク(飲むチョコレート)を食べても断食を破ることはない、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物であって食べ物ではないとする勅令を出したことで四旬節の断食中にも飲むことが許され、これを機に、修道士の間での需要が高まったそうです。

アストルガの街とチョコレートの出会い

「チョコレート博物館」のあるアストルガ市とチョコレート製造の関係は、16世紀、エルナン・コルテスが中米を征服して帰還したときにまで遡ります。1545年、エルナン・コルテスの娘とアストルガ侯爵の相続人との間で結婚の合意がなされました。その後、アストルガ侯爵と君主カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の関係によって、カカオの導入が可能になりました。

アステカ王国を征服したエルナン・コルテスの肖像画(写真: Wikipedia Domain)

アストルガの街で何故チョコレート製造が盛んになったのか

当時、アストルガには、アストルガ侯爵家お抱えの荷馬車屋を営む組織がありましたが、この荷馬車屋の組織は、メキシコから送られてくるカカオを、港から内陸部へスペイン各地と取引し、カカオを含む海外産品の輸送を独占していました。彼らはまた、アストルガで作られたチョコレートをスペイン各地に流通させる役割を担い、アストルガの名声に貢献しました。

また、アストルガには、チョコレート購入者である病院、薬局、修道院、教会が広く存在していたこともの、アストルガでのチョコレート生産を決定づけた要因だそうです。病院や薬局では、チョコレートはお薬の役目を果たしていたようです。こんなおいしいお薬だったら、病気の人達も喜んで飲んでいたことでしょう。

そして、このアストルガの街は寒く乾燥した気候なので、チョコレートがすぐに冷えて扱いやすかったことも、この街でチョコレート製造が盛んになった要因といえます。

チョコレート製造に使用されていた様々な機械も展示されています (写真: 筆者撮影)

沢山のチョコレート製造メーカー

「チョコレート博物館」には、17世紀から始まったと言われるアストルガでのチョコレート製造について詳しく説明する展示室がありました。

カカオを焙煎する機械 (写真: 筆者撮影)

19世紀から20世紀初頭まで、最大のチョコレート・ブームが起こり機械が導入されました。記録によると、1925年には51のチョコレート・メーカーがあったらしく、2024年現在でのアストルガの人口が1万人ちょっとなので、この小さな街にこんなにチョコレート・メーカーがあったなんてビックリです。チョコレートの街としての歴史を通じて、アストルガには400を超えるチョコレート・メーカーが存在したそうなので、正しく「チョコレートの街」と呼んでも過言ではないでしょう。

この板は、出来上がったチョコレートを一定の大きさの板チョコにするためのもの (写真: 筆者撮影)

チョコレートにまつわる宣伝広告

こちらの展示室には、チョコレートの包み紙や、チョコレートが入っていた缶、チョコレートのおまけとしてついてきていたブロマイドやカード等、当時を思い起こさせる色んな物が展示してありました。

チョコレートの「おまけ」で付いていたブロマイド。スペインでは人気のあった闘牛士の絵などが描かれています (写真: 筆者撮影)
こちらは、チョコレートが入っていた缶。なかなかお洒落なデザインです (写真: 筆者撮影)

お土産にはアストルガのチョコレートを!

「チョコレート博物館」の最後の楽しみは、矢張りチョコレートを試食することです!お土産用の様々なチョコレートも売ってありますが、3種類のチョコレートの試食ができました。ナッツチョコ・ミルクチョコ・ダークチョコの試食をさせてもらい、私も我が家のお土産にダークチョコを一つ買って帰りました。味も濃厚な食べ応えのあるチョコレートで、とても美味しいですよ。

カカオ75%のチョコレート。昔に比べてパッケージはシンプルなもの (写真: 筆者撮影)

現在、日本国内でもアマゾンなどのネット販売で世界中の物が日本の自宅に居ながら手に入る時代ですが、アストルガのチョコレートは全く紹介されていないので、アストルガまでいらっしゃった方にはお土産にお勧めです!せっかく遠いスペインの地元で買い求めてお土産にした品物が、日本でも売っていたら残念ですよね!でもアストルガのチョコレートだったらそんなことはないですよ。

アストルガの「チョコレート博物館」情報

住所:エスタシオン通り16番地(Avd. de la Estación 16)
電話:(34)987 616 220 E-mail:museochocolate@astorga.es /reservasmucha@astorga.es    
開館時間:火~土 10:00~14:00(13.30まで入館) 16:30~19:00(18:30まで入館)  日曜日・祭日 10:30~14:30  *月曜日は休館/休館休館日: 12月24・25・31日、1月1日・5日・6日、5月22日                                     入場料:4€   11 ~18歳 3€   無料-10歳までの子供 

                       

参考

・アストルガ市役所の「チョコレート博物館」のサイト。

https://www.aytoastorga.es/turismo-y-ocio/MUCHA/index.html

・カステージャ・イ・レオン州のサイト。

https://museoscastillayleon.jcyl.es/web/jcyl/MuseosCastillayLeon/es/Plantilla100Detalle/1284811313457/Institucion/1284809941138/DirectorioPadre

一緒に探そう!家族みんなで楽しめるサラマンカの観光

絵本「ウォーリーをさがせ!」のような細かいイラストの中に隠れている「なにか」を探し出すことは、子供は勿論、大人も大好きですよね。スペインのサラマンカには面白い探し物が色々あります。一緒に探してみませんか?

サラマンカ大学の「カエル」を見つよう!

サラマンカ大学は現存するスペイン最古の大学として有名です。ヨーロッパ内でもイタリアのボローニャ大学、イギリスのオックスフォード大学、フランスのパリ大学等と同様に11世紀~13世紀にかけて高等教育機関、いわゆる「大学」として設立されたもので、サラマンカ大学の創立年は1218年です。去る2018年には創立800年記念が大々的に行われました。800年間も連綿と続いて現在進行形で発展していることは敬嘆に値します。

この沢山の彫り物の中にされこうべの上に乗っかっているカエルはいます(写真: 筆者撮影)

その大学を代表する建物のファサードは16世紀に造られましたが、サラマンカのシンボルともいえるされこうべの上に乗っかっているカエルの彫り物があります。サラマンカ大学に入学した学生たちは必ずこのカエルの彫り物を探します。見つけた人には幸運が訪れ、大学の全教科に合格するという言い伝えがあるからです。

450年以上もの間、されこうべの上に乗っかっているカエルを見つけてみてくださいね!見つける場所のヒントですが、右側のかなり上の方にその彫刻はあります。

サラマンカのお土産物屋さんにはファサードに彫られているのと同じされこうべに乗っかったカエルの置物が色々売ってあります(写真: 筆者撮影)

サラマンカ新大聖堂の不思議なモチーフとは一体なに

サラマンカ大学のカエルを見つけたら、次にサラマンカ大聖堂の様々な楽しい彫り物を探しに行きましょう。

サラマンカ新大聖堂はチュリゲレスコ様式とも呼ばれる銀細工様式(プラテレスコ様式)の飾り彫りが所狭しとばかりに施されているのが特徴でもあり見どころでもあります。様々な宗教的モチーフを具象化したその飾り彫りは見る人を飽きさせないものですが、大きな建物にこれでもか!これでもか!と彫られているまるで銀細工のように繊細で数えきれない飾り彫りの中から不思議なモチーフを見つけ出すのは至難の業だと言えるでしょう。

そこでヒントです。不思議なモチーフはプエルタ・デ・ラモス(Puerta de Ramos)と呼ばれる入口の飾り彫りの中にあります。さて、一体何でしょう?

では、いよいよ不思議なモチーフの正体を暴露しましょう!笑

不思議かつ驚きのモチーフは、宇宙飛行士です。えっ⁈宇宙飛行士⁈ 18世紀に完成した大聖堂の飾り彫りに20世紀の宇宙飛行士が何故いるの⁈ と困惑された方もいらっしゃることでしょう。でも、紛れもない立派な宇宙飛行士が大聖堂入口の飾り彫りの中に施されています。

紛れもない宇宙飛行士が大きな葉っぱの上に座っています(写真: 筆者撮影)

不思議なモチーフが彫られた理由とは⁇

1993年に「ラス・エダデス・デル・オンブレ (Las Edades del Hombre)」という展示会がサラマンカ新大聖堂で開催されましたが、プエルタ・デ・ラモス入口部分の劣化がひどかったために修復されることになりました。

丁度前年1992年にスペインで初めて宇宙飛行士の候補となるペドロ・ドゥーケ (Pedro Duque) 氏が選出されました。スペイン中で話題になり、このスペインの歴史的瞬間を証明するという意味で宇宙飛行士が選ばれたそうです。

というのも、スペインの石工達は建物建築や修復に携わる際、その時代の歴史的瞬間を彫り物のモチーフによって証明することが伝統的に行われていました。そのためこの修復工事に携わった石工ミゲル・ロメロ (Miguel Romero) 氏が20世紀を象徴するもの、スペイン初の快挙となる初めての宇宙飛行士候補が選ばれた国民的歓喜の歴史的瞬間を証明するものとして宇宙飛行士の姿を彫ったという訳です。

まだまだ探そう!不思議なモチーフ

宇宙飛行士の他にも不思議なモチーフがプエルタ・デ・ラモス入口部分には彫られています。宇宙飛行士が歴史的瞬間を証明するものとして彫られていますが、こちらは20世紀を代表するみんな大好きな食べ物が彫られています。さて、何でしょうか?

それは、ズバリ!アイスクリームです!

それも、単にアイスクリームが彫られているのではなく、まるでタイムスリップした18世紀の悪魔が20世紀のアイスクリームを食べているのです。 嬉しそうにそして誇らしげにコーン入りのダブルアイスクリームを持っている悪魔。憎めないですね!思わず、「いつまでももったいぶって食べないと、溶けちゃうよ!」って声をかけたくなります。

¡Qué aproveche! たっぷり召し上がれ!(写真: 筆者撮影)

宇宙飛行士やアイスクリームを食べる悪魔と同じエリアには、国際自然保護連合(IUCN)が作成した絶滅の恐れのある野生生物のリストに載っているスペインオオヤマネコ、闘牛でお馴染みの雄牛や、ザリガニ、コウノトリ、ウサギの姿も彫られていて子供たちと一緒に見つけるのにもってこいです。

両頬の下から長いひげの様な毛が生えているのが特徴のスペインオオヤマネコ(写真: 筆者撮影)
残念ながら角が折れて失われてしまっている闘牛。矢張り角がない闘牛は迫力がいまいちですね(写真: 筆者撮影)
こちらはザリガニ。サラマンカではザリガニ、コウノトリ、ウサギは水・空・大地を表す生き物です(写真: 筆者撮影)

厳粛かつ荘厳な大聖堂の入口に、こんな楽しいモチーフが彫られているのは意外ではないでしょうか。一つ一つ注意してみていくと石工達の遊び心満載です。子供たちと一緒に、自分だったら何を彫って後世に伝えていきたいかなと考えたりするともっと楽しくなりそうです。

たとえ修復工事によって新しく加えられたモチーフとは言え、日本では考えられないような自由な発想ですよね。伝統を守りながらも新しいことを加えていく柔軟さに敬嘆させられます。

赤ちゃんを運んでくる⁈ コウノトリ(写真: 筆者撮影)
触るとご利益があると言われているため、みんなに触りまくられているウサギは、表面がツルツルになって変色しています(笑)(写真: 筆者撮影)

コロンブスを探せ!

最後に、15世紀大航海時代の探検家であるコロンブスの像を探してみましょう!

こちらはコロン公園の中にあります。スペインではコロンブスのことはコロンと呼ばれていて、コロン広場は名前の如くコロンブス広場のこと。こちらは簡単に見つけられます。

地球儀を持ちアメリカ大陸を指さすコロンブス(写真: 筆者撮影)

その他に、街の中にある像を見つけるのも楽しいですよ。

こちらは、クリスマスのお菓子トゥロン(Turrón)を売るおばさんがマヨール広場の近く、市場の横に座っています。

優しそうな顔をしたトゥロン売りのおばさん(写真: 筆者撮影)

クリスマスのお菓子トゥロン(Turrón)については、こちらもどうぞ。

子供と一緒に海外旅行となると、なかなか子供が退屈しないようにするのが大変ですが、街の中や建物の装飾の中で探し物をしてみると子供たちも退屈せずに家族みんなで楽しめるかもしれません。

楽しい探し物が一杯あるサラマンカの街に、是非子供たちと一緒に訪れてみては如何でしょうか。

ロマネスクへのいざない (13)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県 (10)– モナステリオ・デ・ロディ―ジャの ヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle de Monasterio de Rodilla)

ピクニックでもできそうな気持のよい場所にヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle de Monasterio de Rodilla) はある (写真: 筆者撮影)

スペインの文化遺産にも指定されているヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle)は、12世紀後半(1170年以降)に建てられたロディージャ修道院(Monasterio de Rodilla)の古い教会である。現在、この修道院は存在せず、その名前だけがこの土地の名前となって残っているにすぎない。

10世紀頃からこの土地に修道士たちが住み始め、ローマ街道から少し離れた、泉のそばにこのロディージャ修道院(Monasterio de Rodilla)が建てられたが、ここから40km程離れたオニャ修道院(Monasterio de Oña)に1063年に併合された。

今回、事前予約など無しでこの礼拝堂を訪れたため、礼拝堂自体は閉まっていて中には入ることはできず残念だった。ここでは、礼拝堂の外観について見てみる。

オリジナルな礼拝堂

モナステリオ・デ・ロディ―ジャの ヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle de Monasterio de Rodilla)は、「スペインで建設されたロマネスク様式のバシリカの中で最も優れた例である」、とウィキペディアには紹介されている。更には、「東洋と西ゴートの影響を受けた12世紀の無名の芸術家たちの優しい手から生まれたままの姿で、きれいに保存されている」と続く。

ここで言う「バシリカ」とは、長方形の建物でキリスト教の教会堂の建築形式である。特徴としては、身廊、側廊があり、入口から入って身廊に入りその突き当りにアプス(後陣)と呼ばれる祭壇がある部分がある。基本的には、アプス(後陣)は、イエスが生まれた方向であり、イエスの「私は光である」という言葉から光(太陽)が生まれる方向、つまり東側に位置するように造られ、教会への入口は西側に位置していた。

ところが、理由は分かっていないらしいが、このヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle)の礼拝堂への入口は西側ではなく、北側に位置している。

まるで大きな半円の素描のような三つのアーチ(写真: 筆者撮影)

また、アプス(後陣)は半円形の形をしている。ここの礼拝堂も通常の半円形を成しているが、その半円形に三つの大きなアーチ型をした線が描かれ、各々のアーチの中に細長い窓が造られていて、とても動きのある軽快なイメージを受ける。一般的なアプス(後陣)がもっとどっしりとしたイメージを与えているだけに、この礼拝堂のアプス(後陣)のオリジナル性は際立っている。

幾つか他のロマネスク様式のアプス(後陣)も紹介して比較してみよう。

こちらは、同じブルゴス県にあるサン・ペドロ・デ・テハダ教会(Iglesia de San Pedro de Tejada)のアプス(後陣)。途中から柱が細くなっていてほっそり感かつ優雅な雰囲気が出ている。

サン・ペドロ・デ・テハダ教会(Iglesia de San Pedro de Tejada)のアプス(後陣)(写真: 筆者撮影)

こちらも同じブルゴス県にあるビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会(Iglesia de San Martín de Tours en Viscaínos de la Sierra)のアプス(後陣)。もっとでシンプルかつ重厚感を与えている。

ビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会(Iglesia de San Martín de Tours en Viscaínos de la Sierra)のアプス(後陣)(写真: 筆者撮影)

最後に比較してみるのは、アストゥリアス地方にあるアマンディのサン・フアン教会 (Iglesia de San Juan de Amandi) のアプス(後陣)。こちらも上のビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会(Iglesia de San Martín de Tours en Viscaínos de la Sierra)のアプス(後陣)に似ていて、重厚感を与えている。三層に区切ってあるのは、ここのアプス(後陣)の特徴でもある。

アマンディのサン・フアン教会 (Iglesia de San Juan de Amandi) のアプス(後陣)(写真: 筆者撮影)

比較してみるとお分かりになると思うが、ヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle)はロマネスク様式のアプス(後陣)の中でも新奇な趣向を見て取ることができる。

北側にある入口

北側にある入口を見てみよう。

北側に位置する教会の入口(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

入口のアーキボルトは三層から成っていて、ほんの少し先が尖っているのが見える。これは、この後に訪れる初期ゴシック様式への過渡期であり、黎明期の到来を表している。実際、この入口は12世紀後半のもので、この頃にはスペインにも少しづつゴシック様式の波が押し寄せていた。しかしその装飾は、ビザンチン文化の影響を受けたロマネスク様式のものである。

円柱の4つの柱頭は、ロマネスクではお馴染みの鳥とライオンの姿が見える。そして入口を見てまず目に留まるのは、矢張り入口の左右に彫られているライオンの頭部だろう。なかなか表情豊かで印象的である。これは、「教会の番人としてのライオン」を表していて、教会に入る人々に、神聖な場所にいることを警告し、態度を改め、適切な態度を取らなければならないことを示している。

ライオンというよりまるで鬼の顔のよう(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この教会の番人としてのライオンは、あまりに実際のライオンとはかけ離れた顔つきのような気もするが、忘れてはいけないことは、ロマネスクの時代には、本物のライオンを見たことがある人はおそらく一人もいなかったであろうことだ。というのも、ヨーロッパには今も昔もライオンはいない。今のようにテレビやインターネットでライオンの姿を見ることが容易であったわけではない。まして、動物園等ない当時、本物のライオンにお目にかかれる機会など全くなかったのである。全てのこのような動物は石工達の想像上の動物、またはそれ以前に描かれていた絵等の資料を基にして作られたのであった。

魅力的な持ち送り(Canecillos または Modillones)

前述の北側の入口の屋根部分にも見えるが、ヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂 (Ermita de Nuestra Señora del Valle)には、スペイン語でカネシージョス(Canecillos)またはモディジョネス(Modillones)と呼ばれる24の持ち送りがある。通常、ロマネスク様式における持ち送りは身廊や後陣、入口の瓦屋根の下にあり、張り出した屋根部分を支える機能を担っていると同時に、装飾としての役目も担っていた。

ロマネスクにおけるライオンに与えられた象徴的な意味は多岐にわたっている。その上、前述した「教会の番人としてのライオン」というような良い意味だけではなく、悪い意味を象徴するものとしてもその姿が用いられてきた。例えば、「悪魔の化身」としてのライオンや貪食な動物であるというイメージからくる「死」や「精神的な死」をも意味していた。(「ロマネスクの図像と象徴(筆者訳: Iconografía y Simbolismo Románico de David de la Garma ramíez、出版社: arteguias)」より)

ライオンだろうか。歯を見せて笑っているようなユーモラスな表情は魅力的。(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
鋭い嘴からワシではないかと思われる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
流石に犬は本物の犬の姿をしていて分かりやすい(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

人間を描いた持ち送りも多数見られる。

人間の胸像、職業や活動を示すもの(ハンマーを持った鍛冶屋や大工、バイオリンを持った音楽家、裸の男(おそらく男根)などがそれに当たる。

ハンマーを持った鍛冶屋(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
背中合わせの男女だろうか?小首をかしげる女性の姿は惹きつけられる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
楽器を弾く男。バイオリンだろうか?(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
こちらは裸の男。破損しているが男根とみられる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

東方の影響

南側の浮き彫りには、聖母マリアと幼子イエスが描かれており、マリアが戴冠する「知恵の王座(ラテン語ではセデス・サピエンティアエ(Sedes Sapientiae))」というビザンチン様式の伝統的な正面配置になっている。残念ながら幼子イエスの彫刻は事実上失われている。

東方のビザンチン文化の影響を受けた聖母マリアと失われた幼子イエス
(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

一つの建築物の中に様々な文化・様式が融合され、調和を持った教会へと仕上げられている所はこのヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂の魅力の一つであろう。

最後に

この地方には、シエラ派(筆者訳 La escuela de la Sierra)と呼ばれるロマネスクの教会や修道院を造った人たちがいた。「シエラ」スペイン語で「Sierra」は、「(比較的低い)連峰、山脈、山」という意味で、この地方がシエラ・デ・ラ・デマンダ(Sierra de la Demanda)というデマンダ連峰の位置することから由来する名前だ。

このシエラ派の人達が造った興味深く、美しい教会が多数この地方にはある。その上、デマンダ連峰の素晴らしい自然、風景は、教会に興味がない人達をもきっと魅了する所だろう。是非、一度、この地方に足を延ばされることをお勧めする。

・youtubeでいろんな角度から見たヌエストラ・セニョーラ・デル・バジェ礼拝堂が見えます。

・こちらは、礼拝堂の中も見れる youtube。

参考

・カステージャ・イ・レオン州の公式観光案内ウエブサイトには、コンタクトの電話番号があります。内部も見学したい方は、事前に連絡されて訪ねることをお勧めします。2023年11月現在で確認した限りは、冬の期間11月~3月くらいまでは基本的には中を訪れることはできないとのことでした。冬の季節以外は、週末にガイド付き(今のところスペイン語のみ)で中を見学できるが、事前予約が必要とのことでした。

https://www.turismocastillayleon.com/es/arte-cultura-patrimonio/monumentos/iglesias-ermitas/ermita-senora-valle

ロマネスクへのいざない (12)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県 (9)– ミニョン・デ・サンティバニェス村の聖ペドロ教会 (Iglesia de San Pedro en Miñón de Santibáñez)

16世紀に再建されたので外観はロマネスク様式のものとは異なる

ブルゴス市から約20㎞、ミニョン・デ・サンティバニェスという村に聖ペドロ教会はある。この同じブルゴス県にある1011年に設立されたベネディクト会修道院の聖サルバドール・デ・オーニャ修道院に残っている文書によると、ミニョン・デ・サンティバニェスという村の起源は11世紀まで遡る

聖ペドロ教会は、後期ロマネスク様式時代に当たる12世紀の終わりから13世紀の初めにかけて建設された。そのため、ロマネスク様式とは言え、入口の門部分がゴシック様式の影響も受けてわずかながら尖っている。そして、教会は16世紀に再建され、ロマネスク様式はこの入り口部分と教会の中にある洗礼盤のみが残っているのみである。再建された際、出入り口に厚いバットレスが建てられたため、アーキボルトを支える柱頭や入口の門の一部が切断された。もう少し、オリジナルであったロマネスク様式の入口を尊重して完全な形で保存してほしかったと惜しまれるが、今ではなすすべもない。

ミニョン・デ・サンティバニェス村の聖ペドロ教会は、1983年にはスペインの文化財に指定されている。

なんて漫画チック‼

入口の前に来て、入口に彫られているモチーフを見て「なんて漫画チックな彫り物!」というのが第一印象だった。百聞は一見に如かず、とにかく下の写真をご覧いただきたい。

ロマネスク様式の特徴の一つである半円形の入口のとっぺんが心持ち尖っているのはゴシック様式への過渡期であったため

今まで見てきたロマネスク様式の彫り物の中でも、これほど漫画チックなものは見たことはない。今回のブルゴス県のロマネスク様式の旅の中で見た彫り物の中でも異彩を放っている。一見稚拙な印象さえも与える。アーキボルトに施されている18人の姿は、日本の漫画で見たことがあるようなユーモラスで他のものとは一味違うものだ。もう少し近くから見てみよう。

日本の漫画に出てくるような彫り物でちょっと親近感を覚える (笑)

一般的にロマネスク様式の人物像は、施されている場所の空間による制限もあり、極端にバランスが取れていないものも見受けられるが、ここに彫られている楽師たちや書物を持つ人物像等はあまりにも頭でっかちで丸みを帯び漫画チックである。

一見稚拙だが一人一人存在感がありユーモラスな人たち

また、顔つきもちょっと現実離れしたまるでお化けのような顔つきだ。ちなみに、同じブルゴス県にあり同じく12世紀末に造られたアエド・デ・ブトロン村にある聖母の被昇天教会(Iglesia de La Asunción de Ahedo de Butrón)に施されている楽師たちを紹介しよう。

こちらは天使の羽、洋服の襞(ひだ)、表情など細部にわたり緻密な彫り物が施されていて石工達の高度な技術が一目でわかる

同じ時代の、同じ地方の、同じロマネスク様式のものとはかなり違っていることがお分かりになるだろう。

これが何を意味するのか。この入り口を造った石工達が意図的にこのようなユニークな彫り物を施したのか、単に石工達の技術が未熟であったためこのような稚拙ではあるが面白み溢れる独創的な作品になったのか、色んな文献を当たってみたが答えになるものは見つからなかった。ただ、この漫画チックで一度見たら忘れられない入口を造った石工達は、後世に名前を残すこともなかった名もなき、しかし当時人気のあった地元の石工達によって造られたことだけは確かなようだ。

(アエド・デ・ブトロン村の聖母の被昇天教会(Iglesia de La Asunción de Ahedo de Butrón)についてもっと知りたい方はこちらもどうぞ。)

ゾディアック-12個の神秘的なメダイヨン

もう一つ目を引くのは、入り口のアーチとして機能しているアーチボルトに施されている12個のメダイヨンだ。メダイヨンとは円形の浮彫装飾である。

1139年の第2ラテラン公会議で教会自身がモチーフを禁じることに決めた、弓を引き絞る弩(いしゆみ)の射手の姿も見える。「射手座」を表しているのか?

それらの装飾は、四足獣、爬虫類、そして人間の姿を、常に円形の枠の形に合わせて描かれており、己の四肢の先端をつかまえたり噛んだりしているもの、S字型にデザイン化しているものなどが見られる。

ミニョン・デ・サンティバニェスの聖ペドロ教会のすぐ近くにある家の教会管理人の方が、教会の簡単な説明が書かれた紙を1枚くれたが、その説明文の中には、装飾的発想に従ってこのようなモチーフを選択したのだろうとあった。

しかし他の研究者たちの意見として、天球上の12星座を示すゾディアックだろうという説もある。例えば、ライオンは「獅子座」、女性は「乙女座」、弓を引き絞る弩(いしゆみ)の射手は「射手座」を意味する。だが、その他のモチーフについては説明できないものもあるとのことだった。

実際、ロマネスク様式の教会にはゾディアックが描かれていることがある。興味深いことは、星によって影響を受けるという占星術は、キリスト教の中では軽蔑すべき異教徒たちの迷信と考えられていた。では何故、天球上の12星座を示すゾディアックを教会の入口の装飾に使ったのだろうか?これは、天球上の12星座を示すゾディアックが示すものは、農業暦のようなものを指していると考えられている。つまり、ロマネスク芸術では、神が絶対的な支配者である1年の月の時系列的なサイクルであり、「時間の支配者である神」という意味が与えられていたのだ。(「Iconografía y Simbolismo Románico 」(「ロマネスク様式 図像と象徴」筆者訳) David de la Garma Ramíez 著 出版社 Arteguias より)

円形の枠の中に合わせたデザインの模様は緻密だ

最後に

アーキボルトに施されている18人のユーモラスで独創的な姿を彫った石工と、12個のメダイヨンのデザインし彫った石工は、全く異なる別の石工達の手による作品だと思われる。何故なら双方のスタイルがあまりにも異なるものだからだ。詳しいことは分からないが、当時の教会装飾に対する考え方や同時代・同地域であっても様々なモチーフが用いられてことは興味深い。

特筆すべき点として、前述した説明書によると、埃除け用覆いの役割を果たしている入口の最後のアーキボルトは3本の細いアーチ型で、ロマネスク様式としては珍しいタイプのアーキボルトで、ブルゴス県では唯一の例だとのこと。

まるで歯のような長方形の飾りの上に3本のアーキボルトがあるが、このようなタイプのアーキボルトはブルゴス県では唯一の例

私の注意を引いた別の点は、ミニョン・デ・サンティバニェスの聖ペドロ教会の入口の柱の高さが他のものよりもかなり低いことである。私の背の高さ位だったので、160㎝程の高さだ。当時の人達にとっても、ちょっと背をかがめて教会に入らなけらばならない高さだったのではないだろうか。

18人の漫画チックな人物像にしても12個のメダイヨンに彫られているモチーフにしても謎だらけだが、何世紀にも亘りこの不思議なモチーフの門をくぐって教会に礼拝してきた村人たちの姿を想像したり、16世紀に再建した際、この入り口だけは壊さず残しておいたその当時の人達のこのモチーフに対する愛情などに想いをはせ、800年以上も昔に名も無き石工達が残した作品を歳月を超えて実際に自分の目で見れる幸運を感じた。

柱頭は劣化が激しいが、肉厚の葉や人魚が二股に分かれた尾をつかんでいる姿をかろうじて認識できる

情報

ここで紹介したミニョン・デ・サンティバニェスの聖ペドロ教会 (Iglesia de San Pedro en Miñón de Santibáñez)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。こちらのルートを知りたい方は下のブログを参考にして頂きたい。

・スペイン語だが、教会についてだけではなく、興味深い図面なども見れる。最初に述べた、ロマネスク様式の洗礼盤の写真も掲載されている。

https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/MI%C3%91ON%20DE%20SANTIBA%C3%91EZ.pdf

ロマネスクへのいざない (11)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県 (8)– ビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours en Vizcaínos de la Sierra)

ブルゴス県のデマンダ連峰にある小さなビスカイーノス村は、ペドロソ川のそばにあり、標高1000mを超える所にある。私が目指したサン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours)は村へ入る道路に隣接して立っているので、すらっとした鐘楼がいきなり目の前に現れた。

アーチ型夫婦窓が美しい教会だ(写真: 筆者撮影)

この村は、この町を囲む広大な山岳地帯全体と同様に、9世紀末から10世紀にかけて政治的にも人口の面でも重要な位置を占めていた。そして、この時代はアストゥリアス-レオン王国とカスティージャ伯爵領の人口補充が進んだ時期とも重なる。(「arteguias」ウエブサイトより)

シエラ派 (Escuela de la Sierra) の職人たち

以前紹介したピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)の最後にも言及したが、この地方には、シエラ・デ・ラ・デマンダ(Sierra de la Demanda)というデマンダ連峰があり、そこから由来する名前でシエラ派(筆者訳 La escuela de la Sierra)と呼ばれるロマネスクの教会や修道院を造った職人たちがいた。

ピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)についてはこちらをどうぞ。

このシエラ派(La escuela de la Sierra)の職人たちは、主に10世紀、11世紀、12世紀にかけて活躍した。そして12世紀にはその姿が消え始める。理由は、シロス修道院の回廊を作った4人の親方職人たちの覇権が強かったことに由来する。

水平な教会の単調さを破る高い塔、そして特にその彫塑的な造形(escultura monumental)はシエラ派(La escuela de la Sierra)の特徴として挙げられる。また、現在鐘楼としての役割を果たしている塔が、建設当初は防御の役割を担っていたことも特筆すべき点である

その他のシエラ派(La escuela de la Sierra)の教会について興味のある方はこちらもどうぞ。

サン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours)

サン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours)の最初の教会は、プレロマネスク様式で9~10世紀に建てられたが、11世紀の終わりまたは12世紀の初めに、シエラ派 (La escuela de la Sierra)と呼ばれるロマネスク様式のものに取って代わった。そして、12世紀後半には、同じロマネスク様式ではあるが別の流派であるシレンセ派(La escuela de la Silense)により、柱廊のある玄関(La galería porticada)と、鐘楼(La torre)が追加された。

近代に入り、何度か改修工事が行われた。最も重要なのは18世紀のことで、前述の回廊のある玄関(La galería porticada)が解体され、再建された

車を降りて教会の入口へ歩いていくと、先程目の前に現れたすらっとした鐘楼の姿のイメージとは全く異なる堂々とした姿が現れた。ただ、他のシエラ派(La escuela de la Sierra)による教会に比べ柱廊のある玄関(La galería porticada)は簡素だ。それでも、横の広がりと高い塔による縦への広がりの調和が美しい教会だ。

砂岩の石組みは濃い褐色、または深い紫がかったトーンもある色で、落ち着いた雰囲気がある(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

シエラ派(La escuela de la Sierra)特有の彫刻

コーニス(軒蛇腹)部分にある持ち送りには、シエラ派特有の自然主義ではないが原始的で表情豊かな様々な彫刻が施されている。

2頭のライオンの首をロープで掴んでいる人物が描かれた彫刻は面白いモチーフで注目に値する。

なんとなく漫画チック。2頭のライオンはちょっととぼけた顔をしていて迫力には欠けるが、憎めない(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こちらは猿だろうか。歯を食いしばって立派な歯を見せているところは笑いを誘われる。

確かに原始的だがとても親しみを持てる彫刻ばかり(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

性を示す男性。頭でっかちでこちらも笑いを誘う。それにしても教会も以前は性に対してもっと寛容だったのだろうか。ロマネスクでは時々見るモチーフである。

教会に想像上の動物などが彫られていてるのは不思議だが、性を示す男性が彫られているのはもっと不思議だ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

arteguias のウエブサイトには、「これは、メソポタミアから中世ヨーロッパに伝わった古代の図像であろう。」と言及されていました。そうだとすると、これらの彫刻たちは長い時間をかけて遠いところからやって来たんだ、お疲れ様、と労をねぎらいたくなってしまう。(笑)

シレンセ派(Escuela de la Silense) の彫刻

ここから近いサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monasterio de Santo Domingo de Silos)で活躍した職人達がシレンセ派(La escuela de la Silense)である。前述したように12世紀末にシレンセ派(La escuela de la Silens)の職人たちが、柱廊のある玄関(La galería porticada)と鐘楼(La torre)を造った。彼らが彫った柱廊のある玄関(La galería porticada)の柱頭などはかなりシエラ派(La escuela de la Sierra)のものとは趣を異にしてる。

ロマネスクでは好んで用いられたモチーフの女の頭を持つ鳥ハイピュリアとドラゴンが見える。シレンセ派(La escuela de la Silens)の方が緻密かつ高度な技術があることが分かる。ただ、シレンセ派(Escuela de la Silens)の彫刻のようなユーモラスさ、温かみのある表情には欠ける。

木の実またはブドウを食べるドラゴン(左側の柱頭)と向い合せに配置されているハイピュリア(右側の柱頭)(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

柱廊のある玄関(La galería porticada)の入口の両側にある柱頭には、右側にはライオン、左側にはドラゴンが彫られているが、シエラ派(La escuela de la Sierra)のようなおとぼけライオンではなく、歯をむき出した凶暴な雰囲気を現し毛並みも細かく彫ってあり迫力満点。

同じ教会に施された彫刻も、異なる派の職人の手によるとこんなにも趣の異なるものになるのかと驚かされる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

鐘楼(La torre)

鐘楼も同じシエラ派(La escuela de la Sierra)が12世紀後半に造ったものだ。この鐘楼は3層から成り、下の層は上層部の構造部分を支える高台としての役目を持ち、南北方向に完璧な半円筒形ヴォールトで覆われている。真ん中の層は、四方にアーチ状夫婦窓があり開口している。上の層は、真ん中の層よりも幅の狭い小窓があり、これもアーチ状夫婦窓である。このアーチ状夫婦窓は、2本の外柱に半円形のアーチで囲まれた中にあるという特徴があり、更にリズミカルな印象を私たちに与える。

上層部分のアーチ状夫婦窓が小さくなることにより、まるで天に昇っているような錯覚も与えられる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アーチ状夫婦窓の柱頭には、小型の果実、シダのような葉、人の頭、四足獣、ハイピュリア、ワシなどが描かれている。(「arteguias」ウエブサイトより)

小型の果実がぶら下がっている柱頭(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

四足獣がみえる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

最後に

全く異なる時代の様式で改築されている教会や建物は多いが、このビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours en Vizcaínos de la Sierra)は、同じロマネスク期の中で職人たちが属する派の相違により異なる特徴を持った彫刻や石組みの仕方などがひとつの教会の中に見られる貴重な教会の一つだろう。

洗練されたシレンセ派(La esuela de la Silense)が、温かみがあり表情豊かではあるものの原始的なシエラ派(La escuela de la Sierra)を席巻し、遂には消滅させてしまったというこの地方の歴史から、当時の職人たちの市場獲得の激しさを垣間見たような気がした。

こちらは、造られた時期によって石の組み方の違いや、教会内部にある西ゴード時代の洗礼盤等も見れるので見逃すにはもったいない動画。

デマンダ連峰(Sierra de la Demanda)にあるシエラ派 (Escuela de la Sierra) の建物

今から約1ヵ月ほど前に、ブルゴス県観光課によりシエラ派 (La escuela de la Sierra) の教会を紹介する動画が計10本 youtube にアップされた。その中から幾つか紹介する。残念ながらスペイン語のみだが、内部や教会の周囲などの様子が分かり興味深い動画だ。

・12世紀に造られたバルバディージョ・デ・エレーロスの聖コスメ&聖ダミアン礼拝堂 (Ermita de los Santos Cosme y Damián de Barbadillo de Herreros)を紹介した youtube 。

・プレロマネスク時代の10世紀~11世紀に造られ、その後12世紀に増築されたトルバーニョス・デ・アバホの聖キルコ&聖フリタ教会 (Iglesia San Quirco y Santa Julita de Tolbaños de Abajo)を紹介した youtube 。

・12世紀末に造られたアルランソンの聖大天使ミカエル教会 (Iglesia de San Miguel Arcángel de Alranzón)を紹介した youtube 。

・12世紀に造られたリオカバド・デ・ラ・シエラの聖コロマ教会 (Iglesia de Santa Coloma de Riocavado de la Sierra)を紹介した youtube 。

・12世紀に造られたリコバド・デ・ラ・シエラの聖コロマ教会 (Iglesia de San Millán Obispo de San Millán de Lara)を紹介した youtube 。

参考

ここで紹介したビスカイーノス・デ・ラ・シエラのサン・マルティン・デ・トゥール教会 (Iglesia de San Martín de Tours en Vizcaínos de la Sierra)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にしてほしい。

・スペイン語ですが、教会についてだけではなく、興味深い図面なども見れます。

https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/burgos_VIZACA%C3%8DNOS_DE_LA_SIERRA.pdf

・こちらもスペイン語ですが、興味のある方は是非ご覧ください。

https://www.arteguias.com/iglesia/vizcainosdelasierra.htm

・デマンダ連峰の観光案内。残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/

・デマンダ連峰にあるロマネスク建築のパンフレット。これも残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/wp-content/uploads/2019/01/FOLLETO-ROMA%CC%81NICO-SERRANO.pdf

https://goo.gl/maps/JdMPigBAKd1zY3pD8?coh=178573&entry=tt

レオン(León)へ行こう!(5)―ナショナル ジオグラフィック トラベル リーダーズ チョイス アワード 2023

去る2023年4月25日、ナショナル ジオグラフィック トラベル マガジンで、スペイン国内ベスト デスティネーションを読者の方々に選んでもらうという第1回読者賞「ナショナル ジオグラフィック トラベル リーダーズ チョイス アワード 2023(Premios de los Lectores 2023 de Viajes Nacional Geographic)」の授賞式が行われました。そして、私が大好きなレオン市が栄えある「ベスト アーバン デスティネーション賞」に輝きました!

夜になるとレオン大聖堂の中の照明が美しいステンドグラスを浮かび上がらせます。鮮明に撮れず残念ですが、雰囲気だけでもお届けします(写真:筆者撮影)

ベスト アーバン デスティネーション賞 (Mejor Destino Urbano Nacional)

この賞は、ナショナルジオグラフィックトラベルマガジンの読者数千人の投票によって選ばれました。これは、歴史的遺産と文化的生活という面において、レオン市が「スペインの中で最も重要な都市のひとつ」という理由でこの賞に選ばれました。このブログでもレオン市の魅力についての記事があります。興味のある方はこちらもどうぞ。

レオン市内には、2000年の歳月をレオンの街と共に経てきた「ローマ時代の城壁(Muralla Romana)」、スペインの精神的バックボーンを作ってきたキリスト教の建築物でもあり、レオン王国の歴代王が埋葬されている霊廟がある「聖イシドロ王立参事会教会(Real Colegiata de San Isidoro)」、レオン市民の誇りでもありレオン市民の心の拠り所でもある「レオン大聖堂(Catedral de León)」、修道院、病院、刑務所、パラドールと使用目的が変遷していった「サン・マルコス教会(Iglesia de San Marcos)」、日本人でも知らない人はいないくらい有名なアント二・ガウディが建築した「カサ・ボティネス (Casa Botines)」、2005年に開館した現代美術館「ムサク(MSAC)」という、時代ごとの素晴らしい建築物をまるでタイムスリップして楽しめるように見て回ることができます。これが受賞理由の一つ「歴史的遺産」に当たるものです。

ガウディ建築「カサ・ボティネス」とベンチに座るガウディ。
ガウディの隣には地元のおばあちゃんとお孫さんが散歩の休憩中でした。(写真:筆者撮影)

もう一つの理由「文化的生活」の中の重要な要素として含まれていることに、レオンの街にある「バル」と呼ばれる多くタパスバーがあります。スペイン人にとって、「バル」のない生活は考えられません。どんなに小さな村でも必ずと言っていいほど「バル」はあります。数多くの「バル」で出される様々なタパスの質の高さもレオンの魅力の一つです。地元の食材を使った伝統的なタパスや家庭的なタパス、前衛的なタパスや切ったフランスパンを軽く焼き、その上に様々な料理を載せて食べる「トスタ」と呼ばれるものなど、実に色んな種類の美味しいタパスがレオンでは食べれます。「食」は旅の喜びの一つ、発見の一つ、そしてそこに住む人の生活様式や文化を知るすべとなるものの一つです。実は、スペインの中で、住民一人当たりのバルが最も多い都市はこのレオン市なのです!人口1,000人当たり5.03軒のバルがあるということ。確かに、ウメド地区(Barrio Húmedo)やロマンティコ地区 (Barrio Romántico)には沢山の「バル」が軒を争っており、どこに入ろうか?と、迷ってしまうほどです。

ロマンティコ地区(Barrio Romántico)にあるバル「エル・ガジネロ(El Gallinero)」。ここは手作りトルティージャ・デ・パタタス(Tortilla de patatas)がタパス。(写真:筆者撮影)
バル「エル・ガジネロ(El Gallinero)」の看板タパス、トルティージャ・デ・パタタス(Tortilla de patatas)美味しいですよ!(写真:筆者撮影)

「住民一人当たりのバルが最も多い都市はどこ?」というタイトルで「ラ・ラソン(La Razón)」という新聞に記事(2023年2月8日付)が載っています。スペイン語ですが、こちらです。

https://www.larazon.es/castilla-y-leon/cual-ciudad-espana-mas-bares-habitante_2023020863e13c3c308cc00001feb77b.html

レオンの魅力をもっと知りたい方は、こちらもどうぞ。

こちらがナショナルジオグラフィックトラベルのウエブサイトに出ている「ベスト アーバン デスティネーション賞」の内容です。

https://viajes.nationalgeographic.com.es/a/48-horas-sorprendentes-leon_12963

カスティージャ・イ・レオン州は観光の穴場!

今回の第1回読者賞「ナショナル ジオグラフィック トラベル リーダーズ チョイスアワード2023」の中では、カスティージャ・イ・レオン州の活躍が目立ちました。

「スペイン ベスト ガストロノミー デスティネーション賞 (Mejor Destino Gastronómico de España)」にはブルゴス市が、そして「ベスト ガストロノミック ルート賞(Mejor Ruta Gastronómica)」の最終候補に残りながら惜しくも賞を逃した「リベラ・デ・ドゥエロのワインルート(Ruta del Vino Ribera de Duero)」が特別賞 (Mención especial) を獲得しました。

カスティージャ・イ・レオン州は、美味しいワインあり、料理あり、歴史あり、文化ありの観光にはうってつけの場所なのです。その上、バルセロナやグラナダのように常に多くの観光客でにぎわっている所と異なり、もっとゆっくりと静かに自分のペースでまるでそこで生活しているように旅を楽しめる所です。

リベラ・デ・ドゥエロのワイン(Ribera de Duero)「マタロメラ(Matarromera)」
マドリッドにあるティッセン-ボルネミッサ美術館とのコラボで絵画がラベルに使われています(写真:筆者撮影)

ナショナルジオグラフィックトラベルのウエブサイトに出ている「スペイン ベスト ガストロノミー デスティネーション賞 (Mejor Destino Gastronómico de España)」を受賞したブルゴスの記事です。

https://viajes.nationalgeographic.com.es/a/burgos-sin-salir-ciudad_16573

こちらがナショナルジオグラフィックトラベルのウエブサイトに出ている「リベラ・デ・ドゥエロのワインルート(Ruta del Vino Ribera de Duero)」の記事。

https://viajes.nationalgeographic.com.es/a/ruta-por-ribera-duero_8054

「リベラ・デ・ドゥエロのワインルート(Ruta del Vino Ribera de Duero)」のウエブサイトです。興味のある方はこちらもどうぞ。英語版もあります。

https://www.rutadelvinoriberadelduero.es/

日本は大人気

「海外のベスト デスティネーション賞 (Mejor Destino Internacional)」では、日本が選ばれました!

最近、スペインでの日本人気は高いなと実感していただけに「やっぱり!」という感想です。私の周りでも日本を訪れたことがある人、訪れてみたいと考えている人は多く、和食レストランがどんどん増えてきていることからも、スペインから日本への旅行者がしばらくは増え続けそうですね。それに、若者の間で日本の漫画やアニメのポップカルチャーも根強い人気で、若者層から中年層まで幅広く層の厚い日本大好きスペイン人がいます。(笑)

ただ、日本も東京浅草や京都などの人気観光地は、外国人観光客が増えて一体ここは日本なの?というような状況だと聞いています。ある程度人数を制限するなどの対策を取っていかないと、スペイン語でもよく使われる「Morir de éxito (成功による死)」という表現のように、あまりに人気があり観光客が増えすぎて逆に観光客から避けられることになり遂には観光客が大幅に減るという事態が起こる可能性も起こりうるなという危機感を覚えています。住む人も、訪れる人たちも皆が心地よく過ごせるような工夫を民間共に知恵を絞って実行していかなければならないターニングポイントに来ていると思います。

最後に

ナショナル ジオグラフィック トラベル マガジンのスペイン語版は、スペイン国内だけではなく、スペイン語語圏の中南米の国々でも読まれている非常にポピュラーな雑誌です。スペイン国内を対象にした賞を中心に行われた読者投票なので、投票した人はスペインに住む人々が多かったと推測されますが、今回の受賞内容を見て分かることは、一般的な観光地や観光客でごった返している所ではなく、地元の人達から愛されている場所、居心地の良い場所、今もスペインらしさが残されている場所などが選ばれているということです。「観光地」という仮面を被ったまるで人工的でよそよそしく、地元の人々の日常からかけ離れてしまった場所ではなく、もっと地に足のついた「地元の人達が住みやすい場所、地元の人達のための場所」を見てみたいという方には、レオンはお薦めの街です。是非、次の旅行にレオンを加えて計画を立ててみてくださいね。

最近ファザード部分がきれいになって、華麗な姿を現したサン・マルコス教会(写真:筆者撮影)

今回の内容の元となったナショナルジオグラフィックトラベルのウエブサイトはこちらです。

https://viajes.nationalgeographic.com.es/a/asi-fue-la-entrega-de-los-i-premios-de-los-lectores-2023-de-viajes-national-geographic_19258

ロマネスクへのいざない (10)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県(7) – ピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)

柱廊のある玄関部分から(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

柱廊のある玄関(Galería porticada)の中から見える風景

キリスト教最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられたこの教会は、12世紀前半に第一期の建設が始められ、半円形の後陣、プレスビテリオ(Presbiterio)と呼ばれる祭壇、正門を含む身廊の最初の二つの部分(主扉を含む)が造られた。12世紀末には、柱廊のある玄関が造られ、最終的には16世紀に教会の拡張並びに修復工事が行われ、塔が造り替えられた。

この教会を見た時、がっしりとした、力強い教会という印象を抱いた。近くにあるハラミ―ジョ・デ・ラ・フエンテ教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora de Jaramillo de la Fuente) のような調和の取れた美しさには欠けるが、柱廊のある玄関の中に入り、そこから見る村は、いくつものアーチとその間に村の家々、山々がある周りの自然が溶け込んだ美しく、心落ち着く風景だった。

ハラミ―ジョ・デ・ラ・フエンテ教会 (Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora de Jaramillo de la Fuente)についてはこちらをどうぞ。

教会の入口(Portada)

柱廊のある玄関(Galería porticada)部分に入ると、教会の入口(Portada)がある。半円形の5層から成るアーキボルトは、教会の中へいざなうかのように立体的だ。

自然と教会の中に足を踏み入れたくなるような入口(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

教会が建てられている地形の傾斜のため入口には数段の階段があるが、5層のアーキボルトとこの階段がまるで教会の中の祭壇部分の一点に導いているような錯覚を受ける。

左右の柱頭には様々な彫刻が施されているが、建築当初から柱廊のある玄関(Galería porticada)によって入口(Portada)部分は風雪から守られてきたこともあり、比較的保存状態は良い。900年という歳月を経ていることを考えると保存状態の良さは驚きでもある。

興味深い彫刻としては、石棺に納められた遺体を見守る二人の女性の姿と、それを祝福する教会関係者の姿が三面的に構成されているシーンがある。これは、今も何を表現しているのか議論が分かれているようだ。一説によると聖ニコラウスの生涯の一つのシーンに関連していると言われているが、他の説では地元の伝統的なものを表現しているのではないかとも言われている。(arteguias.com より)

遺体が横たわる石棺を飾る布の襞(ひだ)の表現は素晴らしいものだ。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

他にも保存状態の良い「東方三博士(三賢王)の礼拝」場面を確認することができる。聖母マリアの膝に抱かれ贈り物に興味を抱く幼子イエスを見ると、普通の子供と同じようで微笑ましくなる。贈り物を捧げる博士の後ろで、もう二人の博士が軽い雑談でもしながら順番待ちしている姿も、見る私たちに親近感を抱かせる構図だ。それにしても、まるで自分は関係ないよとでも言いそうな聖ヨゼフはちょっと気になる。

ロマネスクで特に好まれた「三方博士の礼拝」の構図。白髭をたくわえた跪く老人、その後ろに後ろを向く若者、最後が老人でも若者でもない成人男性の姿をした三方博士たち。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

ロマネスクの彫刻によくみられる二つに分かれた尾の部分を握る人魚やその人魚に弓を向けているケンタウロスの姿もある。手元にある「Iconografía y simbolismo Románico」(「ロマネスク 図像と象徴(筆者訳)」 出版社 arteguias)によると、男性を象徴するケンタウロスと女性を象徴する人魚という観点から、生殖性やエロチシズムを表現している。その一方で他の解釈として、罪深いものとしての象徴である人魚に対してケンタウロスが信仰の矢を放つことで、人魚を回心させる役割を担っているという。

ロマネスクの彫刻で人気があった人魚とケンタウロス(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こちらもロマネスクの彫刻によくみられる旧約聖書の中の登場人物として、怪力の持ち主サムソンがいる

怪力サムソンは、古代イスラエル人にとっては英雄的な存在の士師で、髪の毛に力が宿っていた。サムソンは、サムソンの妻デリラに口説かれ、彼の怪力はどこから来るのかを尋ねられて最終的には怪力の秘密を明かしてしまい、デリラに寝ている間に髪の毛を切られて宿っていた力を抜き取られる。こうして金に目がくらんだデリラはサムソンを裏切り、サムソンは敵のペレシテ人達に捕らえられ悲劇的な最期を遂げる。サムソンとデリラを扱った絵やオペラ、小説、映画など多数あるので、ご存じの方も多いかもしれない。

ロマネスクの彫刻では、ライオンにまたがったり、組み伏せたりした長い髪の男として描かれているが、ここでは怪力サムソンがライオンの顎を掴んで倒す場面が描かれている。

狭い柱頭の中に見る人たちがすぐ認識できる構図に上手くまとめられている(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アーキボルトの外側に左右二つの浅浮彫りがある。左側の浅浮彫りは不思議な生き物と何を意味しているのか分からない場面で、これについて言及しているものを見つけることができなかったのは残念だ。マントを羽織った聖職者(?)がまるで1982年のアメリカのSF映画「E.T.」に出てくる迷子の宇宙人そっくり!な生き物に何か与えているようだ。左側にはオオトカゲのような生き物が逆立ちしたような状態で描かれている。うーん、なんとも言えない不思議な場面だ。

謎の多い浅浮彫り。実は聖女ユリアナとドラゴン、そしてもう一つの生物は…?(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

このブログを公開した後、ブルゴスの観光部に別の件で質問した際、つい最近デマンダ連峰にあるロマネスク建築についての動画を youtube にアップしたということでその動画が送られてきた。その動画の中で簡単にアーキボルトの外側にある左右二つの浅浮彫りについて言及されていた。この謎の人物はマントを羽織った「聖職者」ではなく、聖女ユリアナ(Santa Juliana)だと判明。そして、この聖女ユリアナを中世の絵画や教会の中では、翼のあるドラゴンと戦っている姿や足元にドラゴンを従えている姿で描かれているとのこと。(ウィキペディアより)ということは、左側の逆立ちしたオオトカゲのような生き物は聖女ユリアナに服従するドラゴンを表しているようだ。しかし、右側の「E.T.」に出てくる迷子の宇宙人の正体はまだ不明なままなので、今後正体が判明したら報告したいと思う。

ピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)の動画。中も少し見れる。

柱廊のある玄関(Galería porticada)

サン・エステバン・プロトマルティール教会の特徴である柱廊のある玄関(Galería porticada)は、前述したように12世紀末の第2次工事で建てられたものだ。同地方のビスカイノス・デ・ラ・シエラにあるトゥールの聖マルタン教会(Iglesia de San Martín de Tours en Viscaínos de la Sierra)やハラミージョ・デ・ラ・フエンテの聖母被昇天教会(Iglesia de la Asunción de Nuestra Señora en Jaramillo de la Fuente)との、様式的な同一性が見られる。これは、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monasterio de Santo Domingo de Silos)の影響を受けているからだという。(arteguias.com より)

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monasterio de Santo Domingo de Silos)についてはこちらをどうぞ。

外から見た柱廊のある玄関。矢張りこの教会の一番美しい部分だろう。(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

柱廊部分は、向かって右側(東側)に5つ、左側(西側)には6つ、合計11のアーチから成り、ほぼ中央に入口用のアーチがある。柱頭の装飾は植物の装飾が中心で、アカンサスの葉、パルメットと呼ばれる棕櫚葉文、果実がぶら下がっているものなど、さまざまな種類のものがある。

果実がぶら下がっている植物(写真:アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

最後に

この地方には、シエラ派(筆者訳 La escuela de la Sierra)と呼ばれるロマネスクの教会や修道院を造った人たちがいた。「シエラ」スペイン語で「Sierra」は、「(比較的低い)連峰、山脈、山」という意味で、この地方がシエラ・デ・ラ・デマンダ(Sierra de la Demanda)というデマンダ連峰の位置することから由来する名前だ。

このシエラ派の人達が造った興味深く、美しい教会が多数この地方にはある。その上、デマンダ連峰の素晴らしい自然、風景は、教会に興味がない人達をもきっと魅了する所だろう。是非、一度、この地方に足を延ばされることをお勧めする。

参考

ここで紹介したピネダ・ラ・シエラのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Pineda de la Sierra)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にしてほしい。

・ブルゴスの観光サイト。英語もあります。

https://turismoburgos.org/iglesia-de-san-esteban-protomartir-de-pineda-de-la-sierra/

・arteguias のウエブサイト。スペイン語ですが、詳しく説明されています。

https://www.arteguias.com/iglesia/pinedasierra.htm

・デマンダ連峰の観光案内。残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/

・デマンダ連峰にあるロマネスク建築のパンフレット。これも残念ながらスペイン語のみです。

https://sierradelademanda.com/wp-content/uploads/2019/01/FOLLETO-ROMA%CC%81NICO-SERRANO.pdf

参考文献:

-「Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)」出版社:Encuentro Ediciones

– 「Iconografía y simbolismo Románico」 出版社: arteguias)

ロマネスクへのいざない (9)- カスティーリャ・イ・レオン州-ブルゴス県(6) – モラディージャ・デ・セダノのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Moradilla de Sedano)

キリスト教最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられた教会

県庁所在地ブルゴス市から北へ約50㎞、一年を通して常住している村人の数が10人ちょっとという村というより小集落とでもいった方がぴったりな所に、一見あまり装飾のない直線的な教会があった。モラディージャ・デ・セダノ村にあるサン・エステバン・プロトマルティル教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir)だ。プロトマルティル(Prótomartir)とは、(キリスト教)最初の殉教者という意味。聖人ステファノ(スペイン語名ではエステバン)は、紀元35年または36年頃に石打の刑によって殉教したギリシア系ユダヤ人だった。(ウィキペディアより)

最初の殉教者聖ステファノ(エステバン)に捧げられたこの教会は、1188年に建てられたとガイドブックには書いてあったが、外見はもっと時代が下った様式のようだ。17世紀末または18世紀初頭に後陣(アプス)と翼廊部分の一部が火事で焼け落ちたといわれている (きちんとした文書としては残っていない)。ブルゴス県の中だけではなく、カスティージャ・イ・レオン州の中でも後期ロマネスクの最も優れた教会の一つと言われているのでここまで訪ねてきたが、ロマネスクにしては装飾があまりない外見は、ちょっと期待外れだったというのが第一印象だった。教会の入口は鍵で閉ざされており、中も見れないらしい…。

教会の周りを繁々と見ていると、この教会を見に来たという親子二人に出会った。この二人は、事前にこの教会の管理人と連絡を取っていたので、もうすぐ管理人が来て教会を開けて見せてくれるとのこと。なんて、運がいいんだろう!と喜び、私たちも管理人が来るのをしばらく一緒に待っていた。

村の高台にあるこの教会から見るセダノ谷の景色は美しい。この教会が建てられた12世紀とあまり変わらない景色が広がっているのではないだろうか。

教会の敷地内に十字架があった。(写真:筆者撮影)

教会入口に入るとそこには・・・!

管理人が来て、鍵を開けて中に入れてくれた。中に入った途端、素晴らしいタンパンが目に飛び込んできた。12世紀に作られた教会の玄関は、20世紀に作られた覆いにより風雪から保護されていたのだ。ロマネスクの宝のようなこのタンパンは、アーモンド型の中に座っているキリストを中心に沢山の人物や天使、植物などが所狭しと彫られていてる。キリストが左手に持っている本は、この地上に誕生したすべての人の名が記された「命の書」だ。そして、アーモンド型の枠部分に “vicit leo de tribu iuda, radix David, alelluia” という文字が見える。これは、「ユダ族の獅子。
ダビデの子孫が征服したのだ! アレルヤ!」という旧約聖書の言葉が刻んである。旧約聖書には救世主はダビデ王の子孫から現れるという記述があり、そこから、キリスト教において「ダビデの子孫」とは救世主イエス・キリストを意味する。他には、アーモンド型の外側にカーブを描くように4人の天使が見られるが、これは新約聖書の4つの福音書を書いた、ルカ、マタイ、マルコ、ヨハネを表している。

タンパンを囲む繰り型(縁取り)のアーキボルトは3本ある。下から見ていくと、最初のアーキボルトには真ん中に天使が座りその両側にそれぞれ黙示録の12人の長老たちが楽器を弾いているが、聖書の記述にあるように、キリストこそが「命の書」を閉じている封印を解くことができると祝っている姿を現しているとか。24人の長老たちの頭には光輪がみえる。(「Portadas románicos de Castilla y León formas, imágenes y significados」 Marta Poza Yague, Fundación Santa María la Real del Patrimonio Histórico より)

天使の羽が赤いのは12世紀に作られた当時は多彩色で装飾されていたため。
(写真:アルベルト・F・メダルデ)

真ん中のアーキボルトには、新たにユダヤ人の王となる子(イエズス)が生まれたと聞いてヘロデ王がベツレヘムで2歳以下の男児をすべて殺した「幼児虐殺」(La matanza de los inocentes)大天使ミカエルによるマリアに神の子を身ごもったという知らせをする「受胎告知」(La anunciaióm)聖母マリアがエリザベトを訪問する「エリザベトご訪問」 (La visitación)天使によってヘロデ王が幼子イエズスを殺す企てがあると知らされたマリアとヨゼフがエジプトへ逃れる「エジプトへの逃避」 (La huida a Egipto)ロマネスクでよく見られる場面が描かれている。

また、上半身に鷲の翼を持ち下半身がライオンである伝説上の生物グリフィンギリシア神話に登場する半人半獣の種族ケンタウロスが矢を持つ姿、ライオンの首を切る人物(サムソンか?)なども描かれている。宗教的なモチーフと伝説や神話の生き物などが同じアーキボルトに関係性もなく描かれているのは興味深い。12世紀のロマネスク時代にはまだまだキリスト教一色ではなく、伝説や神話が宗教と共存してもっと自由に表現できたんだろう。

そして一番上のアーキボルトには、生命力の象徴である植物アカントスが施されている。

ケンタウロスやグリフィンの姿も見える。中央に女性が抱き合って再会を喜んでいるのが「マリアのエリザベトご訪問」、その隣に天使と両手を広げている女性は「受胎告知」、左手には「幼児虐殺」の場面も。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

入口の両側に柱があるが、左側の柱頭には「最後の晩餐」の場面があり、右側の柱頭には「馬上槍試合」まるで日本の狛犬のような生物などが描かれている。

最後の晩餐(写真:アルベルト・F・メダルデ)
右端が「馬上槍試合」、その隣はまるで狛犬!(写真:アルベルト・F・メダルデ)

珍しいことに、この入口の両側には、しゃがみこんでいる人物の上に立つ2人の大きな像がある。こういった像は初めて見たので、管理人の方に何を表しているのかと尋ねてみると、「下にいるのが悪魔で上にいるのがその悪魔を退治しているとか、下は旧約聖書を表し上は新約聖書を表している等いろいろ言われているが、本当のところはまだわかっていない」との説明があった。

家に戻って本やインターネットでも探してみたが、「預言者に寄りかかる福音史家を表していると思われる」(Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)より)とか、「しゃがんだ姿勢の悪魔のようなものを槍で突く天使とされ、罪に対するキリストの勝利と解釈できる寓意的表現である」(arteguia.com より)等と、全く異なる説明がしてあった。

こちらが問題の二人?! (笑) (写真:アルベルト・F・メダルデ)

教会の内部

素晴らしい装飾と未だに謎に包まれた入口を見た後に教会の内部へと入ると、3本の柱が束ねられたように立っており、その柱3本ともがジグザグ状に造られている!!! 今から800年以上も前に建てられた教会の中で、まるで現代建築のような斬新なデザインの柱に遭遇しようとは夢にも思っていなかった。管理人によると、世界で唯一だという。何故このデザインなのかということは分かっていないが、たぶんオリエントの影響だろうということだった。

まるで現代建築のような新鮮さ!(写真:アルベルト・F・メダルデ)

3本の束になっている柱の柱頭部分には主に植物のモチーフが施されていたが、神話に出てくる女の頭を持つ鳥ハイピュリアも見られる。装飾技術の高さやモチーフ等から、同じブルゴス県にあるサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院(Monasterio de Santo Domingo de Silos)の石工の棟梁の弟子たちによって造られたと考えられている。(サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院については、こちらもどうぞ)

このブログの最後に載せている動画の中で、「この時代には『ドラゴンを教会の中に入れる』ことは禁止されていたが、ある柱頭部分にはドラゴンの姿が見られ、『ドラゴンが紛れ込んでいるよ』」という説明部分がある。教会内部にドラゴンがいるのは珍しいことだという。空想上の生物ドラゴンが、まるで実在するかのような説明に思わず吹き出してしまった。コッソリとそしてひっそりと800年以上も居座っているドラゴンを愛おしくも感じた。残念ながら、私が訪れた時にはドラゴンの説明がなく、教会を住まいとする「紛れ込んだドラゴン」を見つけることはできなかったので、写真はない。それにしても、禁止されていたドラゴンを教会の中に入れ込んだ石工は冗談でやったのか、それとも禁止されていたことへの抗議か、はたまたドラゴンの姿をしてドラゴンに非ずで別の生物として描かれたのか、今となっては謎だ。

石工による装飾技術の高さが窺える(写真:アルベルト・F・メダルデ)
神話に出てくる女の頭を持つ鳥ハイピュリア(写真:アルベルト・F・メダルデ)
「威厳」「尊厳」を意味するクジャクが2羽(写真:アルベルト・F・メダルデ)
祭壇部分は14世紀に造られたゴシック様式(写真:アルベルト・F・メダルデ)

教会の外

教会の入口がある南側の壁には、20世紀にタンパンを守るように作られた覆い兼入口の左側には3つのアーチが、右側には二つのアーチがある。これは、ロマネスク様式のポーチ型回廊を数世紀後に解体し、壁に取り付けたものである可能性が高い。(arteguia.com より)

解体前のポーチ型回廊は、さぞ美しいものだっただろう。ロマネスク後期の作品でゴシック様式の影響を受けているのか、アーチはロマネスク特有の完全な半円形ではなく、若干頭の部分が尖っているのが分かる。

左側にある3つのアーチ。先がちょっと尖り気味(写真:アルベルト・F・メダルデ)
ドラゴンとハイピュリアの姿が見える(写真:アルベルト・F・メダルデ)

最後に

教会に着いた時のちょっと期待外れ…という気持ちは一気に吹き飛び、入口のタンパンやアーキボルトの素晴らしさ、内部にある忘れられない印象的なジグザグ状の柱など、ブルゴス県の中だけではなく、カスティージャ・イ・レオン州の中でも後期ロマネスクの最も優れた教会の一つと言われていることに納得した。

もし興味のある方は、事前に連絡してから行くべきだろう。扉を開けてもらい、アッと驚かされる素晴らしい装飾や斬新なジグザグ状の柱などがあるロマネスクの魅力一杯の教会内部を見ずして帰ってしまうことだけは避けたいものだ。

ジグザグ状の柱や禁止されていたドラゴンを教会内に施した石工達の考え方や意図するもの等を色々想像しながら、答えのない答えの推理を自分なりに巡らすことも、ロマネスク訪問の楽しみの一つだと改めて実感した。

参考

ここで紹介したモラディージャ・デ・セダノのサン・エステバン・プロトマルティール教会 (Iglesia de San Eesteban Prótomartir en Moradilla de Sedano)は、ブルゴス県のロマネスクを訪ねたルートの中の一つです。こちらのルートを知りたい方はこちらを参考にして下さい。

・スペイン語ですが説明が詳しいので、興味のある方はどうぞ。

https://www.arteguias.com/iglesia/moradillodesedano.htm

https://www.romanicodigital.com/sites/default/files/pdfs/files/burgos_MORADILLO_DE_SEDANO.pdf

・スペイン語による説明ですが、教会の中も見れます。ここで説明している人物は、私たちにも説明してくださった管理人の方のようです。

・ブルゴス県の観光案内。英語もあるのでここから教会へ入るための予約をするとよいでしょう。

https://turismoburgos.org/iglesia-de-san-esteban-de-moradillo-de-sedano/#

・参考文献:

-「Rutas románicas en Castilla y León 2 (Provincia de Burgos)」出版社:Encuentro Ediciones

– 「Portadas románicos de Castilla y León formas, imágenes y significados」 著者: Marta Poza Yague, 出版社: Fundación Santa María la Real del Patrimonio Histórico

レオン(León)へ行こう!(4)―クリスマスツリーの前身か⁈「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」

12月に入り、スペインの街は一気に賑やか、華やかになってきています。街には色鮮やかなクリスマス・イルミネーションが始まり、クリスマスの飾り付けがお店屋さんや街角でもお目見えしてきています。最近のスペインの傾向としては、伝統的ないわゆるキリスト教に関係するイエス誕生にまつわる場面の飾り付け等はどんどん影をひそめ、もっと商業的でニュートラルなデザインのイルミネーションや飾り付けが幅を利かせています。個人的には華やかなイルミネーションではなく、原点に立ち返ったイエス誕生を祝う喜びの祭典、長く寒く暗い冬を生活する庶民の楽しみでもあり喜びでもあったクリスマスを祝うもっと素朴で精神的で伝統的な飾り付けの方に心を惹かれます。

古くて新しいクリスマスの飾り

実は、レオン市ではここ20~25年位前からお目見えした古くて新しいレオン特有のクリスマスの飾り付けがあります。「クリスマスのラモ・レオネス(Ramo leonés de Navidad)」と呼ばれる飾り付けです。最近では、レオンの街中に大きなこの飾り付けが立てられたり、街中を歩いていると様々な店先でこの飾り付けを見ることができます。私が最初に留学した90年代前半には見たことも聞いたこともないものでしたが、今ではとてもポピュラーな飾り付けとなっています。

レオン街中の公園に今年も現れた巨大なレオンのラモ・レオネス (写真: 筆者撮影)

クリスマスのラモ・レオネスは木製のフレームを使用しますが、その形は日本の相合傘のイラストを思い出していただくとわかりやすいかと思います。三角形の真ん中から出ている木製の一本足が台に乗っているというイメージです。上の写真をご覧ください。百聞は一見に如かずですね。三角形部分は、半円形や四角形のものもありますが、私が実際に見たものは殆ど三角形のものでした。そして、その三角形の2等辺部分には1年12ヶ月を表す12本のロウソクを飾り、三角形の底辺部分にはリボン、毛糸、刺繍、レース、果物、ビスケットなど、さまざまな種類の供物を吊るします。一本足が乗る台には、栗や木の実を入れた籠などが飾れれていることもあります。

クリスマスのラモ・レオネスの起源

クリスマスのラモ・レオネスの起源は、キリスト教以前の時代まで遡ります。「ラモ・レオネス」の「ラモ(ramo)」とはスペイン語では木の枝という意味の言葉ですが、「Ramo leonés de Navidad」を直訳すると「クリスマスのレオンの枝」という意味です。つまりその起源には、キリスト教以前のヨーロッパ諸国で一般的だった自然崇拝があり、特に樹木崇拝があります。樹木崇拝は、春を迎える前兆としてまた冬至にまつわる祭事で豊穣の象徴として一般的なものでした。レオンにおける「ラモ・レオネス」も、豊穣を祈り春への序曲として捧げられていたものだったと考えられています。

約200年ほど前に作られた「ラモ・レオネス」現存するものでは最も古いものだとか(写真: 筆者撮影)

そして時代が下り、キリスト教がこの地にもたらされた時には「ラモ・レオネス」は異教徒のシンボルとされましたが、だんだん教会に適応されていきました。これは、キリスト教がヨーロッパ全土に広がっていく過程ですべての地域で行われた適応の一つで、もともと古くからその土地で祝われていた儀式やお祭りを異教徒のものとして切って捨ててしまうのではなく、上手くキリスト教儀式の中に取り込む形で融合させていき、人々の反発を買うことなく、人々の心をつなぎとめ、キリスト教の布教を助ける働きをしていったのです。

クリスマスのラモ・レオネスは、クリスマスツリーの前身とも言われているそうです。

クリスマスのラモ・レオネスの種類

レオン地方の村々には、色んな種類の「ラモ・レオネス」があります。代表的なものをいくつか見てみましょう。

植物の枝で作られたもの。これは、キリスト教以前にあった最も古い原型に近いものです。常緑樹の植物から採取するのが一般的だったようで、月桂樹、ヒイラギ、松などの枝を使用していました。

偏菱形 (へんりょうけい)のもの。これは、先端が上向きと下向きの2つの三角形で形成されているものです。

キュービックのもの。これは、2つの正方形がマストと互いに結合して形成されているため、立方体状になっています。

円筒形のもの。2本の水平な木の輪を重ねたもので、マストに取り付けられています。

ラストル。草を集めるための農具に形が似ているためこの名がつきました。長方形です。

他にも様々にアレンジされたものがあるようですが、やはり一般的には相合傘のやつが主流のようですね。

売られていた様々な「ラモ・レオネス」(写真: 筆者撮影)

蘇ったクリスマスのラモ・レオネス

長い伝統を持ち、キリスト教にも上手く融合しながら生きながらえてきたこのクリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」は、私たちがよく知っている姿のヨーロッパ他国の伝統であるクリスマスツリーがスペインに入ってくると、だんだんと姿を消していきました。実際、今から約20年ほど前までは、私の知っているレオンの友人や家族などほとんどの人達は「ラモ・レオネス」について見たことも聞いたことなかったそうです。

1996年のクリスマスに、レオン伝統文化協会(La asociación ‘Facendera pola Llingua’)が、レオン語(ラテン語から派生した一つで、カスティージャ・イ・レオン州のレオン県とサモラ県の一部で話されている-ウィキペディアより)で書いたクリスマスカードに「クリスマスのラモ・レオネス」の絵を描き入れて大量に印刷して配ったことから、このレオンの伝統的な飾り付けが一般的に知られることになりました。

それ以来少しずつ市民権を回復していき、私が調べた限りでは、2014年よりレオン市内の広場に8メートルもの巨大な「ラモ・レオネス」が飾られています。それ以前の2010年のレオンの新聞記事には、レオンにある大手デパート「エル・コルテ・イングレス(El Corte Ingés)」にこの飾り付けを売るコーナーが登場したり、街中の店のショーウインドーに飾り付けられていることが載っていました。また、2005年のレオンの新聞「ディアリオ・デ・レオン」には、広場に飾られている「ラモ・レオネス」に毎日2000人の人が見に来ていると報じています。

最後に

クリスマスの飾り付け「ラモ・レオネス」が復活してきた90年代後半といえば、スペインの経済は好景気が始まりどんどんグローバル化が進み、他のヨーロッパ諸国に追いつけ追い抜けの時代でした。 スペイン国外のクリスマス様式や飾り付けもどんどん導入され、画一的かつ商業的なものへと急速に変化していったこの時期に、もっと自分たちだけのローカルなもの、自分たちの起源となるものに目を向けるようになり、レオンの人々から忘れ去られた飾り付けが復活し、現代に生きるレオンの人々に受け入れられたことは面白いことです。グローバル化が進むことで逆にアイデンティティーを求める機運が高まったのでしょう。一方で、多くの若者にとって宗教というものが遠い存在になっている今、また、キリスト教という宗教に反発・反感を抱く広い世代の人々にとっても、キリスト教が入ってくる以前から存在していたこの飾り付け「ラモ・レオネス」は、もっとニュートラルで宗教色の薄いクリスマスの飾り付けとしてすんなり抵抗なく受け入れられたのでしょう。

クリスマスの飾り付け一つからでも、その時代に生きる人々の考え方や生き方、時代の流れ、主張とてもいうべき声なき声などが聞こえてきそうで、興味深いものです。

もし、クリスマスの時期にスペインを訪れる機会があれば、是非レオンまで足を延ばしてこのクリスマスツリーの原型といわれている「ラモ・レオネス」を見に来てくださいね。

情報

・2020年12月18日付け「ディアリオ・デ・レオン (Diario de León)」という地方新聞に、レオンのクリスマスブーケについて詳しく報道されています。このブログの内容もこの記事を参考にしてます。

https://www.diariodeleon.es/articulo/navidad-leon/ramo-leones-navidad-tradicion-leon/202012181539372071100.html