娼婦とピクニック⁈ サラマンカの楽しいお祭り「ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)」

今日(2025年4月28日)はサラマンカの人にとって特別な日。ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)と呼ばれるお祭りの日です。このお祭り、現代に生きる私達にはビックリするようなルーツを持つお祭りですが、地元の人達は自分たちの伝統文化に誇りをもって楽しんでいるようです。

サラマンカ大聖堂(写真: 筆者撮影)

イースターの後のお祭り

キリスト教徒の国スペインでは、他のキリスト教徒の国々と同様に復活祭を祝う様々なお祭りがあります。サラマンカのルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)は復活祭の月曜日の次の月曜日に祝われ、一般的には復活祭の翌日の月曜日にお祭りが多いので、ひと呼吸おいてこのお祭りが行われることも特徴の一つかもしれません。

というのも、ひと呼吸おかなければならない理由がこのお祭りの起源にありそうです。

聖週間中には聖母マリアやキリストの受難等を表した山車が街を練り歩きます(写真: 筆者撮影)

フェリペ王子の結婚式

1543年11月12日、16歳だった王子フェリペ2世とポルトガルのマリア・マヌエラ王女はサラマンカの街で結婚することになっていました。サラマンカには、1218年にスペイン最古の大学であるサラマンカ大学が設立され、フェリペ王子の結婚式が行われた16世紀にはスペイン国内のみならず、世界中の学生がサラマンカ大学で勉強していました。当時、サラマンカには8千人以上の学生が住んでいたらしく、同じ時期のマドリードの人口が1万1千人だった(ウィキペディア参照)ことを鑑みると、驚くほど多くの学生たちがこの街に住んでいたようです。

サラマンカ大学ファサード(写真: 筆者撮影)

結婚式の祝賀は14日の夜から19日まで行われ、その間街中で王室主催の様々なパーティー、お祭り、馬上槍試合、伝統的な両陣営によるトーナメントなどが途切れることなく続きました。ところが王室主催以外にも、街中ではこれ幸いと、淫らな酒場や売春宿などでの一般市民や学生たちがお祭り騒ぎで賑わっていました。このどんちゃん騒ぎの様子に、敬虔かつ厳格な若きフェリペ2世は驚愕します。それもそのはず。サラマンカ大学は、知識の殿堂として、またヨーロッパのキリスト教の光として、神学・哲学・法学の研究を進めていたので、サラマンカは厳粛な街というイメージをフェリペ王子は抱いていたのです。ところが、その厳粛な街サラマンカには別の顔も兼ね備えていました。それは、ありとあらゆる娯楽を無制限にそして無秩序に楽しめるというものでした。

フェリペ2世の勅令

このことがよっぽど衝撃的なものだったのか、フィリッペ2世は、四旬節と聖週間の間、娼婦たちはサラマンカを離れ、対岸にある売春宿に閉じこもらなければならないという勅令を出します。つまり、娼婦たちは1ヶ月以上サラマンカの街から追い出され、学生等の男性たちは復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)まではジッと我慢していなければならなかったという訳です。そして、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の月曜日には、堰を切ったように娼婦たちはボートで街に戻りました。

貝の家の窓(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りに欠かせないオルナッソ(Hornazo)

彼女たちの帰還は、学生たちの間でお祭り騒ぎとなり、彼女たちを歓迎するために川までやってきて、酒を飲んだり、サラマンカの郷土料理であるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めた人気のオルナッソ(Hornazo)と呼ばれる食べ物を振る舞い、彼女たちの帰還を大いに祝い楽しんだそうです。

これが、ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭りのルーツです。

復活祭の翌日の月曜日はまだキリスト復活を祝う宗教的な意味合いの強いお祭りが多かった中、このような宗教的道徳に反するお祭りを祝うにはフィリッペ2世も躊躇したのでしょう。きっと、内心ではこのような破廉恥なお祭りは禁止してしまいたかったというのがフィリッペ2世の本音だったのでしょうが、流石にこれほど熱狂的に祝い、民衆から支持されていたお祭りを完全に禁止することは統治をする上でも得策ではないと考えたに違いありません。そのため、せめて復活祭からもう少し時間が経った次の月曜日までのひと呼吸をおくことになったのでしょう。

オルナッソ(Hornazo)(写真: 筆者撮影)

現在のルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)のお祭り

流石に、21世紀の今日ではサラマンカの街から追い出される娼婦もいませんし、娼婦たちとどんちゃん騒ぎをする男性も居ませんが、お祭りは無形文化財としても指定され、復活祭の月曜日の次の月曜日(ルーネス・デ・アグアス)の午後は、サラマンカ中の市民が思い思いにオルナッソ(Hornazo)と呼ばれるチョリソやスペインソーセージ、ハムやゆで卵を詰めたパイ持参で川沿いにてピクニックをしてお祝いしています。生憎お天気に恵まれない時は、ピクニックではなく友人や家族の家に集まってオルナッソ(Hornazo)を食べます。

オルナッソ(Hornazo)の中身は具が詰まっていて食べ応え十分です(写真: 筆者撮影)

ルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の午後は、学校は勿論のこと様々な職場もお店も全て休みとなり、街中には人っ子一人いません。サラマンカの人達は皆、トルメス川沿いの原っぱでオルナッソ(Hornazo)を囲んで家族や友人たちとのピクニックを楽しんでいるからです。

大停電(Apagón)でもなんのその!

偶然、今日はスペイン中で大停電(Apagón)が起きたのですが、幸いここサラマンカはスペインの中でも電気の復旧が早く、約3時間半程の停電ですみました。でも、もともと午後はサラマンカ中のお店も役所も閉まってしまうルーネス・デ・アグアス(Lunes de Aguas)の日だったので、あまり大きな被害はなかったようです。その上、サラマンカのほとんどの市民は、お天気に恵まれたこともあり、トルメス川沿いでオルナッソ(Hornazo)を囲んでピクニックをしていたので、あまり電気を恋しく思うこともなかったとか。今年は特に大勢のサラマンカの人達が川沿いで楽しんだようです。

皆さんも来年の復活祭の月曜日の次の月曜日にサラマンカにいらっしゃる際は、是非オルナッソ(Hornazo)持参でトルメス川沿いへ行ってピクニックを楽しんでみませんか。

2025年3月30日までにスペインに行く人必見!-プラド美術館の植物散歩(Un paseo botánico por el Prado)

去る2月3日、マドリードにあるスペインが誇るプラド美術館に久しぶりに行ってきました。丁度中国の春節の時期に重なったので中国からの団体さん達の姿が多かったのですが、それでも夏に比べれば少ない方だったかもしれません。まあ、ヨーロッパ内でも人気の美術館の一つなので、何時行っても人は多いようです。

今回、3月30日まで開催されている展覧会の一つ、「プラド美術館の植物散歩(Un paseo botánico por el Prado)(筆者訳)」を見てきました。この企画は、園芸家でもあり芸術の中の植物を研究しているスペイン人エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏とプラド美術館のコラボで実現したものです。彼は、今までも絵画等の中に描かれている植物を研究した題材を本にして出版したり、ラジオや新聞などでもこの題材について語っています。以前、彼の本を読んだこともあり行ってきました。

各時代の植物の表現方法

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が述べているように、芸術の中で描かれている植物は、各時代によってそれぞれ異なる手法で表現されています。

例えば、10世紀から12世紀にかけてヨーロッパに広まったロマネスク様式では、植物を極限まで単純化することで、植物に独特の美しさやダイナリズムを与えました。今回の展覧会の一つに、マドリードからすぐ近くに位置するセゴビア県のベラ・クルス礼拝堂に描かれている「アダムの誕生」の場面があります。

12世紀に描かれた壁画。左側が神がアダムを造った場面、右側は禁断の実を食べたアダムとイブが裸であることを恥ずかしがる姿が描かれています (Wikipedia Dmain)

上の写真を見ていただくと左端に大きな木があり、その横で神がアダムを創り、アダムが誕生しています。この木はナツメヤシだということ。ナツメヤシはヨーロッパ芸術の世界では常連さんらしく、「楽園」の象徴として描かれてきたそうです。「エデンの園」等をテーマにした絵画には必ずと言ってもいいほど描かれている木だということです。

こちらがナツメヤシの写真。上の壁画の植物をナツメヤシと見破るのは結構難しいですね(ウィキペディアドメイン)

また、12世紀~15世紀のゴシック時代には、それぞれの植物、それぞれの花を正確に描写することが目指されたと彼は語っています。ゴシック時代の絵として、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクの「生命の泉」が紹介されていました。

絵に沿って作られた額のこの形はかなり珍しい(ウィキペディアドメイン)

この絵の中のどこに植物が描かれているのかちょっと見分けずらいですが、実は、2段目の楽器を弾いている天使たちが座っている緑色の所は、一面の野イチゴ畑です。他にも、20種類程の異なる植物が緻密に描かれていて、ロマネスク時代とはかなり異なる表現方法が用いられていることは分かります。

イチゴはその赤い実がキリストが流した血に見立てられることが多いとか。また、イチゴの葉は3枚の葉から構成されているので、キリスト教の父・子・聖霊を示す三位一体を象徴しているのだそうです。

ヤン・ファン・エイクの「生命の泉」の中で描かれている野イチゴは、学名をフラガリア・ベスカ(Fragaria vesca)と呼ばれている実はとても小さなエゾヘビイチゴです(ウィキペディアドメイン)

そしてルネサンス時代になると、植物自体が主人公となり、静物画が独自の存在感を獲得していきました。その後、16世紀末から18世紀初頭にかけてヨーロッパで広がったバロック時代になると、意図的にバランスを崩した動的でダイナミックな表現が好まれるようになりました。17世紀にスペインの宮廷画家として活躍したフアン・バン・デル・アメンは、多くの静物画を残していますが、その中の一つが今回取り上げられています。

背景が黒に様々な花が浮かび上がる美しい絵画(ウィキペディアドメイン)

この絵の中でひときわ目立っているのが、沢山の小さな花によって大きな丸い花の形をしているセイヨウテマリカンボクの白い花でしょう。背景が黒なので余計に浮きだち、存在感抜群です。この花は、元々ヨーロッパが原産の植物ですが、バロック時代ではとても好まれて絵の題材にされた植物の一つだったそうです。そして、現在もこの植物はスペインではよく庭に植えられる人気の植物の一つです。何を隠そう、我が家の庭にもこの木を植えていて、夏になると大きな手毬のような花を沢山咲かせ私たちを楽しませてくれています。

セイヨウテマリカンボクの花は、ちょっとアジサイの花のよう(ウィキペディアドメイン)

大航海時代の植物たち

16世紀以降は、大航海時代へと入っていきます。と同時に、遠い国々からもたらされたエキゾチックな植物がスペインにも紹介されていきます。南米・北米・アジア等、今までヨーロッパの人々が見たこともないような色や形の珍しい植物に、多くの人が魅了されていきましたが、芸術家もまた然りでした。芸術家たちは、熱心に植物を観察し、それらを繊細に描き出し、そしてあたかも一人の人間の様な魅力的な姿をキャンバスに収めたのです。

展示会の中では17世紀のスペインの画家トマス・イエペスの静物画が紹介されています。残念ながら作品の写真を撮ることができず、パブリックドメインの写真も入手できなかったのでお見せすることはできませんが、この静物画には東アジアを原産とするハゲイトウという赤・黄・緑の三色カラーの葉が美しい植物が描かれています。(この記事の最後にプラド美術館の本展覧会の公式ウエブサイトを紹介していますが、そこを開いてもらうとこの作品も見ることができます。)もっとも、静物画の中では枯れた花として描かれていて、この植物の特徴である鮮やかな三色カラーは描かれていません。絵のトーンに一致しないとの判断だったのかもしれませんが、画家の意図は謎です。

一見ポインセチアかと見誤ってしまいそうなハゲイトウ(ウィキペディアドメイン)

植物に託されたもの

昔の人にとって植物はとても身近なものでした。その身近な植物に、神話的または宗教的な意味を持たせたり、高貴な象徴性や伝統的な象徴性も含ませることを芸術家たちはしてきました。何気なく描かれた一輪の花や植物によって、芸術家たちが描く絵の主題を更に立体的にし、意味を際立たせたり奥深いものにしたりする効果を期待していたのです。

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が語るように、現代社会は、こうした植物たちとの結びつきから切り離されてしまいました。このことは芸術作品の鑑賞にも反映され、私たちは絵を見る際、これらの植物たちに全く注意を払うことなく絵の前を通り過ぎていくことが多くなっています。園芸家でもある彼は、「私たちはただ植物たちを探し、それに耳を傾けるだけで、プラド美術館の庭師になったような気分になれる。」と言っています。

最後に

エドゥアルド・バルバ・ゴメス(Edurardo Barba Gómez)氏が指摘しているように、多くの芸術作品は植物で溢れています。何気なく描かれているような小さな植物にも、実は画家が表現したかったことやその植物に託す意味等があり、とても興味深い展示会でした。また、一つの植物が時の権力者の権力の象徴であったり、大航海時代、新大陸からヨーロッパに紹介された植物たちは遠い旅をし、全く異なる環境からやって来たこと等まで思いを馳せると、どんどん想像が広がっていく楽しみもありました。うっかり見落としてしまいそうな植物、これからはもっとじっくりと絵画を楽しむことができそうです。そして、別の角度から絵画や彫刻を観察することができそうです。

もし、3月末までにスペイン、マドリードにいらっしゃる機会があれば、是非この展示会にも足を運んでみてください。きっと新しい発見の散歩となることでしょう。

プラド美術館の公式サイトからこの展覧会の情報を入力することができます。また、今回の展覧会で紹介されている全ての絵画をこちらから確認することもできますので、是非ご覧ください。

https://www.museodelprado.es/en/whats-on/exhibition/a-botanical-stroll-through-the-prado/3f48df04-a1fb-d356-7ad5-56cbf5d3b2ce

国立プラド美術館 開館情報

住所:プラド通り無番地(Paseo de Prado, s/n)
最寄り駅:エスタシオン・デル・アルテ(Estación del Arte 1号線・水色) 、バンコ・デ・エスパーニャ (Banco de España 2号線・赤色)      
開館時間:月~土 10:00~20:00(最終入館 19:30)日・祝 10:00~19:00(最終入館 18:30)         
*1月1日・5月1日・12月25日は休館                                    入場料:一般 15€  65歳以上 7,50€ 無料-18歳未満、25歳未満の大学生(国際学生証必要)、教師(国際証明書必要)              

*バッグ、リュック、傘、かさばる物、荷物は、美術館のロッカーに預けなければなりません。

チョコレート物語-アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)

スペイン、カステージャ・イ・レオン州のレオン県に位置するアストルガ (Astorga) という街をご存じですか?人口1万1千人程の小さな街ですが、ここにはアントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」があるので、ガウディ建築のファンの方はご存じかもしれません。ガウディ建築のほとんどがバルセロナに集中していて、数少ないバルセロナ以外にあるガウディ建築の一つがこの「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」です。

アントニオ・ガウディの設計によるモデルニスモ建築の「アストルガ司教館 (Palacio Episcopal de Astorga)」(写真: 筆者撮影)

その素晴らしいガウディ建築から歩いて10分程の所に、今回紹介する「アストルガ チョコレート博物館(Museo de Chocolate de Astorga)」はあります。では一緒に博物館を訪れてみましょう!

神の食物

チョコレートの原料であるカカオは、南米オリノコ川とアマゾン川流域が起源の植物です。高い温度と湿度が成長の条件で、二つの大きな川の流域はカカオが成長するのに理想的な場所でした。

そして、最初にカカオを栽培し、飲み物にしたのは、メキシコ湾やジャングルに住むマヤ文明(紀元前1000年頃~16世紀頃)やオルメカ文明(紀元前1200年頃~紀元前200年頃)の人達でした。紀元前1750年頃の器にカカオの残滓が付いていたものが発見されていて、これが最も古いカカオの記録とされているようです。本当に長い長い歴史を持っていたことがわかりますね。これは、豪奢な品物の数々と共にメキシコで見つかっており、カカオの飲み物はマヤ文明社会において、高貴な階級の人達のみが飲める飲み物であったことを推定することができます。

というのも、カカオはマヤ文明やアステカ文明の人達にとっては、神の食物と考えられていたのです。カカオは神聖な食物だったのです。

カカオの花はカカオの木の幹から直接ぶら下がって咲いている(写真: Wikipedia Domain)

ケツァルコアトル (Quezalcoatl) という神の伝説

伝説によると、羽のある蛇ケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が、「ショコラトル(xocolotl)」と呼ばれていたカカオの植物を知恵を授けるために人間に贈ったのだとか。しかし、神の食物であるこの植物を、死すべき人間に与えたことにより他の神々の怒りを買い、ケツァルコアトル(Quezalcoatl)は神の国から追放される羽目になりました。

こちらには、カカオの植物を知恵を授けるためにケツァルコアトル(Quezalcoatl) という神が人間に送ったという伝説が説明されています。(写真: 筆者撮影)

カカオの用途

神の食物と考えられていたカカオには様々な用途やシンボルが与えられていました。この「チョコレート博物館」の中にあった説明書によると、鎮痛剤、奉納物、貢物、貨幣、滋養食、強壮剤、媚薬、祭儀用の道具、交換するための高価な品物、豊穣の象徴、権力の象徴、そして社会的特権の象徴等々。これを見ると、マヤ文明やオルメカ文明の人達にとって必要不可欠な存在であったことが容易に想像できます。

マヤ文明やオルメカ文明で貨幣としての価値があったカカオの種は、面白い事に贋金ならぬ偽種まであったそうで、ソラマメの中に泥などを入れてカカオの種に似せていたとか。これらの偽種のことを「カチュアチチウア(cachuachichiua)」と呼んでいたらしいので、偽種の名前まで付くほど出回っていたのかもしれませんね。

当時のカカオの値段について説明してあるパネル (写真: 筆者撮影)

スペインにやって来たカカオ

中南米でのカカオは、前述したように「神の食物」と考えられていましたが、基本的には、カカオを粉にしてトウモロコシの粉や唐辛子、バニラなどの香料と共に水や湯に溶かして、食べ物というより飲み物として食されていました。今のチョコレートドリンクとは全く異なり、甘くなく、辛くて苦い飲み物だったようです。

そして、スペインに最初にこのカカオドリンクのレシピを紹介したのは、アステカ帝国を征服したスペインの征服者エルナン・コルテスに同行していたヘロニモ・アギラル修道士だと言われています。このヘロニモ・アギラル修道士は、1534年スペインのアラゴン州にあるピエドラ修道院の修道院長にカカオドリンクのレシピを送りました。

ところが、中南米で好まれていたカカオドリンクの辛くて苦い味は、スペイン人の口には合わず、修道士たちの工夫により蜂蜜・バニラ・シナモンを入れて飲みやすくアレンジされていきました。

カカオの葉や美も展示してありました (写真: 筆者撮影)

チョコレートは飲み物?それとも食べ物?

さて、スペインの修道士たちによってアレンジされたカカオドリンク(飲むチョコレート)は、100年位門外不出のものとしてスペインでのみ飲まれていました。主に、修道院や貴族、王族等、特権階級の人達だけが飲めるとても貴重な飲み物でした。

ここで、特に修道院の中で積極的に飲まれていたというこのカカオドリンク(飲むチョコレート)の面白いお話があります。キリスト教では、イースター前の四旬節に断食する習慣があります。スペイン版カカオドリンク(飲むチョコレート)の発明は16世紀なので、この頃には初期キリスト教の時代よりもかなり緩い断食スタイルになっていたようですが、修道院内では一般家庭よりも厳しい断食が行われていました。しかし飲み物は断食の対象になっていなかったため、修道士の中にはカカオドリンクを飲み断食を乗り切っている人もいて、それが物議を醸したのです。一体、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物なのか、それとも食べ物なのかと!結局、ローマ法王庁は、四旬節の間、カカオドリンク(飲むチョコレート)を食べても断食を破ることはない、カカオドリンク(飲むチョコレート)は飲み物であって食べ物ではないとする勅令を出したことで四旬節の断食中にも飲むことが許され、これを機に、修道士の間での需要が高まったそうです。

アストルガの街とチョコレートの出会い

「チョコレート博物館」のあるアストルガ市とチョコレート製造の関係は、16世紀、エルナン・コルテスが中米を征服して帰還したときにまで遡ります。1545年、エルナン・コルテスの娘とアストルガ侯爵の相続人との間で結婚の合意がなされました。その後、アストルガ侯爵と君主カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の関係によって、カカオの導入が可能になりました。

アステカ王国を征服したエルナン・コルテスの肖像画(写真: Wikipedia Domain)

アストルガの街で何故チョコレート製造が盛んになったのか

当時、アストルガには、アストルガ侯爵家お抱えの荷馬車屋を営む組織がありましたが、この荷馬車屋の組織は、メキシコから送られてくるカカオを、港から内陸部へスペイン各地と取引し、カカオを含む海外産品の輸送を独占していました。彼らはまた、アストルガで作られたチョコレートをスペイン各地に流通させる役割を担い、アストルガの名声に貢献しました。

また、アストルガには、チョコレート購入者である病院、薬局、修道院、教会が広く存在していたこともの、アストルガでのチョコレート生産を決定づけた要因だそうです。病院や薬局では、チョコレートはお薬の役目を果たしていたようです。こんなおいしいお薬だったら、病気の人達も喜んで飲んでいたことでしょう。

そして、このアストルガの街は寒く乾燥した気候なので、チョコレートがすぐに冷えて扱いやすかったことも、この街でチョコレート製造が盛んになった要因といえます。

チョコレート製造に使用されていた様々な機械も展示されています (写真: 筆者撮影)

沢山のチョコレート製造メーカー

「チョコレート博物館」には、17世紀から始まったと言われるアストルガでのチョコレート製造について詳しく説明する展示室がありました。

カカオを焙煎する機械 (写真: 筆者撮影)

19世紀から20世紀初頭まで、最大のチョコレート・ブームが起こり機械が導入されました。記録によると、1925年には51のチョコレート・メーカーがあったらしく、2024年現在でのアストルガの人口が1万人ちょっとなので、この小さな街にこんなにチョコレート・メーカーがあったなんてビックリです。チョコレートの街としての歴史を通じて、アストルガには400を超えるチョコレート・メーカーが存在したそうなので、正しく「チョコレートの街」と呼んでも過言ではないでしょう。

この板は、出来上がったチョコレートを一定の大きさの板チョコにするためのもの (写真: 筆者撮影)

チョコレートにまつわる宣伝広告

こちらの展示室には、チョコレートの包み紙や、チョコレートが入っていた缶、チョコレートのおまけとしてついてきていたブロマイドやカード等、当時を思い起こさせる色んな物が展示してありました。

チョコレートの「おまけ」で付いていたブロマイド。スペインでは人気のあった闘牛士の絵などが描かれています (写真: 筆者撮影)
こちらは、チョコレートが入っていた缶。なかなかお洒落なデザインです (写真: 筆者撮影)

お土産にはアストルガのチョコレートを!

「チョコレート博物館」の最後の楽しみは、矢張りチョコレートを試食することです!お土産用の様々なチョコレートも売ってありますが、3種類のチョコレートの試食ができました。ナッツチョコ・ミルクチョコ・ダークチョコの試食をさせてもらい、私も我が家のお土産にダークチョコを一つ買って帰りました。味も濃厚な食べ応えのあるチョコレートで、とても美味しいですよ。

カカオ75%のチョコレート。昔に比べてパッケージはシンプルなもの (写真: 筆者撮影)

現在、日本国内でもアマゾンなどのネット販売で世界中の物が日本の自宅に居ながら手に入る時代ですが、アストルガのチョコレートは全く紹介されていないので、アストルガまでいらっしゃった方にはお土産にお勧めです!せっかく遠いスペインの地元で買い求めてお土産にした品物が、日本でも売っていたら残念ですよね!でもアストルガのチョコレートだったらそんなことはないですよ。

アストルガの「チョコレート博物館」情報

住所:エスタシオン通り16番地(Avd. de la Estación 16)
電話:(34)987 616 220 E-mail:museochocolate@astorga.es /reservasmucha@astorga.es    
開館時間:火~土 10:00~14:00(13.30まで入館) 16:30~19:00(18:30まで入館)  日曜日・祭日 10:30~14:30  *月曜日は休館/休館休館日: 12月24・25・31日、1月1日・5日・6日、5月22日                                     入場料:4€   11 ~18歳 3€   無料-10歳までの子供 

                       

参考

・アストルガ市役所の「チョコレート博物館」のサイト。

https://www.aytoastorga.es/turismo-y-ocio/MUCHA/index.html

・カステージャ・イ・レオン州のサイト。

https://museoscastillayleon.jcyl.es/web/jcyl/MuseosCastillayLeon/es/Plantilla100Detalle/1284811313457/Institucion/1284809941138/DirectorioPadre

ロマネスクへのいざない (19)- ガリシア州 (1)–ア・コルーニャのサンティアゴ教会 (Iglesia de Santiago de A Coruña)

スペイン西北部にあるガリシア州のア・コルーニャに行ってきた。大西洋沿いでローマ時代の灯台「ヘラクレスの塔」がある街。マリーナ通りは海が見える海岸沿いの通りで、海風が気持ちよく散歩するにはもってこいの通りだ。

白い枠にガラスの窓がある建物が並び建ち、「ガラスの街」とも呼ばれている(写真: 筆者撮影)

今回は、ア・コルーニャの中でも最も古い教会であり、1972年以来文化財に指定されているサンティアゴ教会(Iglesia de Santiago)を紹介する。

教会の歴史

ヴァイキングによるノルマン人の襲撃によって、ローマ時代以前からこの地に存在していたケルト人の居住地の全部または一部分から住民が減っていったことがわかっている。(arteguias より)

そして、12世紀から13世紀の頭にこのロマネスク様式の教会が建てられた。しかし、度々の火事に見舞われ何度も改修・改造工事が行われたため、ゴシック様式等、その時々の様式に建て替えられた。

1521年当時、この教会には2つの塔があり、一方には鐘と時計が、もう一方には証書、火薬、弾薬、その他市に属するものが保管されていた。サンティアゴ教会の役割は宗教的なものだけでなく、少なくとも1380年から市庁舎が建設される15世紀までは、その玄関の広間で議会が開かれていた。(Galicia Pueblo a Pueblo より)

元々は、海路で巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラを訪れた巡礼者達に捧げられた教会だった。

三廊から成るロマネスク様式の教会

ア・コルーニャから70km程離れたサンティアゴ・デ・コンポステーラは、キリストの12人の弟子の一人聖ヤコブの墓がある巡礼地であることから、この教会が建設された当時、多くの巡礼者が訪れていた。そして「コンポステーラ派(Escuela Compostelana)筆者訳」と呼ばれる人たちの手によって、ア・コルーニャのサンティアゴ教会は造られた。

建設された当時は三廊から成るロマネスク様式の教会だったが、15世紀には、スペインのロマネスク教会で多く見られたように、教会を3つの身廊で連結していたアーチと柱を取り除き、1つの大きな身廊にすることが決定され、現在の様な教会内部になっている。

三廊を広げて一つの大きな身廊になり、多くの信者がミサに参加できるようになった(写真: 筆者撮影)

しかし、教会から出て外から教会の後陣を見てみると、ロマネスク様式時代の姿が残存している。

ロマネスク様式の典型的な後陣の形をしている(写真: 筆者撮影)

持ち送りには、動物の頭や人間をモチーフにした具象的なものが残っている。そのうちの一つに保存状態の良い人間の頭部が彫られているが、ドリオと呼ばれた空気の塊を振動させることによって音を出す気鳴楽器を吹いている姿が見られる。このドリオは、中世時代にイベリア半島北部、特にガリシア地方で使用されていたが、その後使われなくなった楽器である。音の高低を変化させるシステムが無かったので、ドリオは短期間のみで使用され、その後は別の楽器、例えばガイタとよばれるガリシア・バグパイプに取って代わられていったという。(ウィキペディア参照)

ドリオを吹く頭部(写真: 筆者撮影)
持ち送りには、動物の頭や人間の姿も見える(写真: 筆者撮影)

ロマネスク様式の北側の扉口

何度も改装・増築が行われたにもかかわらず、北側の扉口は元のままの純粋なロマネスク様式である。

下の写真でも見えるように、二つのアーキボルトにはまるで沢山の指輪を通しているかのように環状に飾られた植物の葉が特徴的な装飾と、4枚の花弁がある大きな花の装飾とが施されており、とても印象的である。

北側の扉口からも教会に入れた(写真: 筆者撮影)

もう少しアップで見てみよう。700年以上風雪にさらされながらも、ほぼ当時のままの姿を見れることに感謝したくなるような美しい模様だ。

細かく植物の葉が描かれており、花びらの襞も美しい(写真: 筆者撮影)
対の雄牛が扉口の両側にまるで入ってくる人たちを見守るかのように私たちを見下ろしている(写真: 筆者撮影)

神秘の神の子羊「Agnus Dei(アニュス・デイ)」

この北側の扉口には、「神の子羊(アニュス・デイ)」が施されている。これは、ロマネスク様式によくみられる図像であるが、人間の罪に対する贖いとして、イエスが生贄の役割を果たすことを踏まえて、イエスを子羊として描いた視覚的表象である。

十字架が付けられた旗竿や旗を持ち、旗竿は子羊の肩にかかり、右前足で十字架の土台を支えるように曲げられている(写真: 筆者撮影)

興味深いのは、子羊の両側に施された二つの大輪の花。神秘の神の子羊の脇には、それぞれ7枚と12枚の花弁を持つ2つの花がある。何故花びらの数が異なる2つの花が施されているのかは調べてみても分からなかった。

正門について

西側の正門はゴシック様式である。14世紀末のバラ窓とサンティアゴが描かれたタンパンがある。先が尖ったアーキボルトはゴシックの特徴の一つである。

段差のある土地に建てられた教会の正門には、階段を上って教会に入る(写真: 筆者撮影)

柱頭にはロマネスクの伝統を図像的に継承しており、旧約聖書に書かれている「イサクのいけにえ」と「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」が彫られている。「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」と同じ場面中に、「天使に担がれたハバクク」も描かれている。

ハバククはユダヤの預言者とされ、バビロンのライオンの洞窟にいるダニエルのために天使に担がれて食事を届けたと言われ、ロマネスク以降の美術の世界でも「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」と「天使とハバクク」は対で描かれていることが多いようだ。ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にあるバロック様式のベルニーニの作品で、この二つのモチーフの彫刻があり有名である。

残念ながらダニエルの頭部が消失しているが、右端「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」の右側にはライオンが左側には天使に担がれダニエルに食料を届けるハバククが描かれている。左端は、一対のドラゴン(写真: 筆者撮影)
植物の葉をモチーフとした装飾(写真: 筆者撮影)

興味深いのは入口の両脇に、12使徒の聖ヤコブ(左側)と福音記者聖ヨハネ(右側)の像が施されていることだろう。

聖ヤコブ。頭の上には本と天使が載っている(写真: 筆者撮影)
聖ヨハネ(写真: 筆者撮影)

そしてタンパンには、13世紀から15世紀に施された馬に乗った聖ヤコブの浮彫がある。

アーキボルトに彫られている人たちには羽がある。天使だろうか(写真: 筆者撮影)

聖ヤコブの頭上のアーキボルトには、黙示録の24人の長老の姿が描かれていると言われているが、全ての人達に翼があるので天使の聖歌隊ではないかとも言われている。

教会内部

教会に入るとすぐに目を引くのが巡礼者の格好をしたイエスの12使徒の一人聖ヤコブの彫刻である。

これは、14世紀に石で作られたもので多色装飾されている。

長い長い道のりを歩く巡礼者が少し疲れて座って休んでいる姿と重ね合わされた聖ヤコブの顔は、とても穏やかだ(写真: 筆者撮影)

教会内の柱頭にはロマネスク時代の典型的な古風な動物が描かれているが、全てゴシック時代のものである。

同じ頭を持つ2匹のドラゴン(?)と女の頭を持つ鳥ハイピュリア(?)(写真: 筆者撮影)
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のシンボルであるホタテ貝(写真: 筆者撮影)

もう一つ目を引いたのが17世紀の説教壇。説教壇を支える部分には人魚が4人描かれている。アルベルト・ガルシア・ロルダン氏(Alberto García Roldán)のブログサイト「GALICIA PUEBLO A PUEBLO」によると、この人魚の2人は女性であるが、もう2人は男性の人魚だそうだ。男性の人魚は初めて見たので驚きであった。

今はもう使われていない説教壇は、教会の隅に置かれていた(写真: 筆者撮影)
左側の人魚には胸はなく男性の人魚、4人の人魚が腕組みしている姿も珍しい(写真: 筆者撮影)

最後に

後で知ったことだが、この教会にはスペインで唯一、身ごもった聖母の彫刻と、赤ん坊のイエスに授乳する彫刻の両方がある教会で、芸術的価値が高い(ウィキペディア参照)と言われている。赤ん坊のイエスに授乳する彫刻は17世紀のものらしい。

何世紀のものかは分からなかったが、半円アーチの模式的な柱を持つ小さな洗礼盤も保存されている。前述のアルベルト・ガルシア・ロルダン氏によると洗礼式を行う際に今も使用されているとのこと。

こちらも教会の隅っこに置かれていて詳しく見ることができなかった(写真: 筆者撮影)

今も多くの人が訪れ、ミサも行われている活躍中の教会の一つである。ロマネスクからゴシックへ、更にバロック等の彫刻も残存し、様式は変化しながら今も地元の人々に愛されている。ロマネスクの教会は、ともすれば忘れ去られてしまったり、教会がある所にもう人が住んでいない場合も多い。そういう中で、ア・コルーニャで一番古い教会でありながらも今も教会として、人々の心の支柱として活躍しているサンティアゴ教会は幸せな教会であると感じた。

参考

・サンティアゴ教会の住所・電話番号・時間帯等の情報サイト

https://www.coruna.gal/web/es/temas/sociedad-y-bienestar/ocio-y-cultura/equipamientos-de-ocio/equipamiento/iglesia-de-santiago/entidad/1149056044903?argIdioma=es

・「アルテギア」というロマネスクに関するサイト。

https://www.arteguias.com/monumentos/iglesia-santiago-coruna.htm

・本ブログで紹介したアルベルト・ガルシア・ロルダン氏(Alberto García Roldán)のブログサイト「GALICIA PUEBLO A PUEBLO」

https://galiciapuebloapueblo.blogspot.com/2015/05/iglesia-de-santiago-coruna.html

ロマネスクへのいざない (18)- アストゥリアス州 (5)–ルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)

3泊4日でアストゥリアス州のロマネスクとプレロマネスクを訪れた第2日目。中には入れなかったが、「ルガス(Lugás)」という村にある12世紀末に建てられた当時のロマネスク様式の正面玄関入口と南門が残るサンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)を訪れた。

ロマネスク様式が残存する教会の正面玄関入口(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この旅程を知りたい方はこちらをどうぞ。

このルガス(Lugás)村でお祝いされていた聖母マリア祭は、何世紀もの間アストゥリアス地方での重要なお祭りだったという。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道「サンティアゴの道(Camino de Santiago)」の一つである「カミーノ・デル・ノルテ(北の道 Camino del Norte)」と呼ばれる海沿いを歩く巡礼者たちが、ルガス村の聖マリア祭に訪れていた。中世を生きる人たちにとってここは巡礼と信仰を具体化する特別な場所、神聖な場所だったようだ。

ロマネスク様式が残る正面玄関入口と南口

サンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)は12世紀末に建設されたが、その後何度も改築・増築されてきた。特に1690年に行われた増築工事により、前述した二つの入口を除き、バロック様式の教会として生まれ変わっている。

正面玄関入口

正面玄関入口には3つの半円形のアーキボルトがあり、柱頭には美しい植物の装飾が施してある。

入口への床はまるでチェス盤の様な白と赤の石畳。その斬新さはお洒落な雰囲気を醸し出している(写真: 筆者撮影)

サンティアゴ巡礼の道の模様

一番外側のアーキボルトには、ここから500km以上離れたフランスとの国境に近い所にあるハカ(Jaca)という場所で最初に始まった「アへドレサード(ajedrezado)」と呼ばれる市松模様が見られる。この模様は、サンティアゴ巡礼の道沿いの教会等に多く用いられているものだ。この模様からもサンティアゴ巡礼の道を通して文化が伝わっていった証明を目にすることができる。

次のアーキボルトは大胆なジグザク模様で、私たちの目を引く。

向かって左側の柱頭に、下の写真に見られる一つだけ植物ではない装飾がある。

柱頭の上部のアーキボルト部分には、当時の青い色彩が残っている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

これは、旧約聖書のダニエル書に出てくる一場面「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」である。ダニエルはイスラエルの重要な預言者のひとりだが、ベルシア王が自分ではなく神を崇拝するダニエルに腹を立て、腹を空かせているライオンがいる洞窟の中でダニエルを一晩過ごさせた。翌朝ライオンに食われていると思っていたダニエルが、無傷で神に祈っていること見たペルシア王は驚いた。この話がサンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)の柱頭に描かれている。あまりライオンぽくないが、まるでダニエルに甘えるようにダニエルの両肩に前足を載せるライオンの姿が描かれている。

一般的なロマネスクスタイルの「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」では、ダニエルは両手を合わせるか両手を広げて上に揚げている姿で現され、そのダニエルの足元にライオンが描かれ、服従の意を表していることが多い。しかし、ルガスのサンタ・マリア教会では、確かにダニエルは両手を合わせて祈っている様子だが、前述のようにライオンがダニエルの両肩に前足を載せていて、珍しいスタイルの一つだといえるだろう。

教会の入口にあった説明書によると、「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」は、罪や悪霊や悪魔によって束縛されている人間の魂を象徴している。無実の罪によって死刑に課され復活したイエスと、ライオンに食われる刑を課され穴に投げ込まれたにもかかわらず食われることなく無事に穴から出てくるダニエルは、重ね合わされてロマネスクでは表現されていると一般的には解釈されているようだ。(「Iconografía y Simbolismo Románico」より)

柱頭には美しい植物の装飾が施されている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

様々なの影響を受けた装飾

南口のアーキボルトは2本あり、その装飾は興味深い。

シンプルな中にも存在感があるアーキボルトの模様(写真: 筆者撮影)

上の写真でもよく分かるが、外側のアーキボルトには、嘴のある鳥のモチーフが施されているのが見える。これは、入口の説明書によると、サクソン人からの影響を受けているらしい。サクソン人は北ドイツで形成されたゲルマン系の部族で、4~5世紀にはイギリスにわたってアングロサクソン人となった人たちだ。そして、この嘴のある鳥の模様は、イングランド・フランス・アイルランド等でもよく見られる模様で、アストゥリアス地方でも見られる模様だということ。これも北の巡礼の道を通って様々な文化が伝わってきた証拠の一つだろう。

内側のアーキボルトは、まるで小文字のオメガ「ω」が連なっているような模様だ。入口の説明書によると、「ロージョス・サモラ―ノス(rollos zamoranos)」と呼ばれる「サモーラの円筒状に巻いた形(筆者訳)」で、名前の通りカスティージャ・イ・レオン州のサモーラという街が起源のイスラム文化のオリエンタルな影響を受けた形だとか。

嘴のある鳥と円筒状の模様があるアーキボルト(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

グリーンマン

下の写真は、大きな口を開けて植物の茎や葉を出す擬人化された仮面を持つグリーンマン。

口の中から大きな葉っぱが飛び出してくる動きがある模様だ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

グリーンマンと呼ばれる植物を吐き出す仮面は、ロマネスクでは頻繁にみられるモチーフの一つであり、生命の無限の再生サイクルに関連する大地から生じた宗教に由来する。何故グリーンマンをロマネスク教会の装飾に多用したのだろうか。今も専門家たちの意見が分かれハッキリした意味は定説としては無いようだ。ただ、生命の無限の再生を表す、すなわち、「再び生まれる、よみがえる」という意味がキリストの復活に結びつけられたのではないかという説もあり、これは納得いく説だと思われる。

最後に

現在は小さな村でひっそりと佇むルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)。しかしその装飾を一つひとつ見ていくと、同じスペイン国内で始まったアへドレサード(ajedrezado)」と呼ばれる市松模様や、遠くドイツ北部のサラセン人を起源とする人たちがイングランド・フランス・アイルランド等へ渡りそこで使い始めた嘴のある鳥の模様、そして異教徒文化であるイスラム文化の影響を受けた模様など、距離・文化・宗教を超えてサンティアゴ巡礼の道を通して様々な交流が行われていたこと、伝達されていた証拠となる模様を見ることができたことはとても興味深く、貴重なものであった。

参考

・アルテギア(arteguia)のウエブサイト。スペインロマネスク美術と中世美術を紹介するサイト。本も多数出版している。

https://www.arteguias.com/santuario/santamarialugas.htm

・Youtube でもルガスのサンタ・マリア教会 (Iglesia de Santa María de Lugás)が見れます。

ロマネスクへのいざない (17)- ラ・リオハ州(1)-ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)

今回は、ラ・リオハ州にあるロマネスクを紹介する。ラ・リオハ州と言えば、まず最初にスペインワインを思い浮かべる方も多いだろう。スペインを代表する赤ワインとして有名なクネ(Cune)ワイナリーが造っているインペリアル(Imperial)もラ・リオハ州にある。

クネワイナリーに興味のある方はこちらもどうぞ。

今回紹介するビゲラ(Viguera)は、ワイナリーの街アロ(Haro)から東南に60㎞程、州都であるログローニョ(Logroño)からは20㎞程に位置する小さな村だ。

たまたまこの村に宿をとり、ラ・リオハ州の観光旅行をしようとしていたのだが、宿主から「ここからすぐ近くにサン・エステバンというロマネスク様式の礼拝堂があるから、訪れてみることをお薦めするわよ。」と言われて初めてその存在を知った。サン・エステバン礼拝堂を訪れるには、村の中心部にあるバルに寄って礼拝堂の鍵を借りてから行かなければならないとの助言もあり、正直言って、村のバルの人が礼拝堂の鍵を管理しているくらいなので、文化的価値はあまり高いものではないのだろうと高をくくっていた。まさかロマネスクの珠玉が隠されているとも知らずに・・・。

まるでイグルー!

ビゲラ(Viguera)を出て、急な斜面を登っていくと、まるでイグルーの様な不思議な建物が見えてくる。えっ、これが礼拝堂⁈ というのが最初の印象だった。普通、私がこれまで見てきたロマネスク様式の教会には、鐘楼部分があり、十字架があり、瓦屋根があり、入口はロマネスク様式特有の半円アーチがあり、一目でその建物が宗教的な建物であることが分かるようなものばかりだった。

しかし、サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)は、失礼を承知で敢えて言うならば、まるで避難場所、しっかりとした羊飼い達の雨宿り場所、という感じで、とても粗末で原始的なものだった。

とてもとても、キリスト教の礼拝堂とは考えられないような外観(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

そそり立った岩山の足元にひっそりと

写真を見ていただくとお分かりになるように、このサン・エステバン礼拝堂がある場所は、そそり立つ岩の穿った部分にあり、礼拝堂の横から見える景色も岩山やその側面にある洞窟の様な部分が多くある。

この礼拝堂の起源を示す文献が残っていないので、ハッキリとしたことは分かっていないらしいが、その起源は10世紀頃まで遡ると考えられている。この地方は、イスラム教徒支配を受けた後、再びキリスト教徒たちが奪回した(レコンキスタ)歴史がある。サン・エステバン礼拝堂は、レコンキスタ後にキリスト教徒によって建てられたロマネスク様式(11~12世紀)以前の建築物である。

多くの研究者たちは、この礼拝堂は建設当時、渓谷を構成する崖や岩山の多くの洞窟や窪みに定住していた、様々な隠遁者たちが集まって祈りを捧げていた修道院のような場所だと考えている。あるいは、長さ8メートル、幅4メートルほどの小さな建物であることから、修道院ではなく、隠遁者たちの祈りの場所、と同時に軍事的な要塞を兼ねた場所だったのではないかという説もある。

12世紀になり、この礼拝堂は改修工事が行われた。ロマネスク様式の特徴の一つである半円形ボールトに置き換えられ、プレ・ロマネスクによくみられる直線的なものから現在の半円形の外観になった。(ビゲラ市役所のウエブサイトより)

ビゲラの村から見た礼拝堂周辺のそそり立つ岩山(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

内部には素晴らしい壁画が!

ビゲラ村のバルから借りてきた鍵で入口を開けて中に入ってみた。初めは暗くてあまりよく見えず、教会とは思えないほど簡素な、ハッキリ言って何も無いような印象だった。

入口から左手の奥に祭壇や主要アーチが見える(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

入口のドアを開けたままにして光を入れ、少しづつ薄暗い光に目も慣れてきたその時、ビックリするようなものが目の前に広がっていた。

保存状態は決して良好とは言えず、また多くの壁画は消失してしまっているにもかかわらず、力強い壁画が描かれている。

入口の右側と天井部分に残る壁画(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この壁画はラ・リオハ州の中でほぼ唯一の貴重なロマネスク絵画であり、外観からの予想から大きく外れた嬉しい驚きであった。人里離れたかなり急な斜面を登って辿り着き、壮大な景色を見ることができる場所に建てられたこのとても粗末な建物の中に、魅力的かつ神秘的な壁画が待ち受けているなんて、だれが想像できるだろうか。

かなりの急斜面を見上げると、岩山にぽっかり空いた口に礼拝堂はあった(写真. 筆者撮影)

壁画のテーマは黙示録

壁面を飾るほとんどの絵画のテーマは、聖書の黙示録の記述に基づいている。「生ける者にエスコートされる玉座」、「神秘の子羊と香炉を持つ天使」、「琴と杯を持つ24人の長老」。さらに、「戦士の衣装をまとった騎士」、マンドラと呼ばれるアーモンド型の中で天使に囲まれて座っている「威厳あるマリア」、10世紀後半にこの辺りのイレグア渓谷とレザ渓谷に君臨したビゲラの君主の称号を持つラミロ・ガルセス夫妻と同一視する人もいる「王と王妃の像」などがある。また、イエスの12使徒と考えられる一群の人の姿も見える。(ビゲラ市役所のウエブサイトより)

「香炉を持つ天使」服には十字架が入った模様が描かれている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)
「神秘の子羊」十字架をもっている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

 上の写真「神秘の子羊と香炉を持つ天使」は、イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)と呼ばれるミサが行われる祭壇がある聖なる場所と信者達がミサに参加する場所を隔てる壁にあるアーチの内部に施されている壁画である。

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)は、前述したようにロマネスク様式以前のプレ・ロマネスク様式と呼ばれるものであるが、特にイスラム文化の影響を色濃く受け継ぐモサラベ様式の影響を受けている。

イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)はモサラベ様式の特徴の一つであり、この礼拝堂の重要な特徴でもある。当時、モサラベ式ミサでは、参加する一般信者たちはこの壁から先の神聖な領域には立ち入ることができず、祭壇から離れた所に居なければならなかった。

モサラベ様式の重要な特徴であるイコノスタシスまたは聖障(せいしょう)。この真ん中のアーチの内側に「神秘の子羊と香炉を持つ天使」は描かれている(写真. 筆者撮影)

イコノスタシスまたは聖障(せいしょう)の左側上部には、小姓の様な子供(?)、女性、そして中央には王冠を被り剣を手に持つ王の姿が見える。描かれている3人が一体誰なのか、何を表しているのか、調べてみたが分からなかった。

右側の女性の何か伺うような目つき、手には何か隠し持っているような仕草、どれも謎だらけ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

次に、マンドラと呼ばれるアーモンド型の中で天使に囲まれて座っている「威厳あるマリア」を見てみよう。「威厳あるマリア」の左側には女性、右側には王の姿がみえる。

下の写真ではよく見えないが、向かって左側の王の耳元に何やら不気味な黒い動物の姿がある。これは、「悪魔から助言される王」を表現している。(サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)への登り口の説明板より)

マンドラと呼ばれるアーモンド型の中にはマリアではなくイエスを描いたものが一般的だが、ここではマリアが描かれている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アップにした写真で見てみよう。確かに耳元に悪魔らしき生き物が何かをささやいているようだ。

「悪魔から助言される王」(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

モサラベ様式の影響

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)は、前述したように、その起源は10世紀頃まで遡ると言われている。10世紀のスペインは、南はイスラム教徒に支配されており、北部では盛んにキリスト教徒がイスラム教徒から土地を奪回するレコンキスタ(国土回復運動)が行われていた。そして、丁度アストゥリアス王国の首都オビエドからレオンへと遷都され、レオン王国が誕生していた。

アストゥリアス王国の簡単な歴史については、こちらを参照してください。

今はラ・リオハ州の中にビゲラ村は位置しているが、10世紀にはレオン王国に属していた。この頃レオン王国内では、イスラム教徒が支配するスペイン南部アンダルシアに影響を受け、キリスト教文化と融合した多様な芸術表現が現れた。これが「モサラべ様式」である。建築、絵画、銀細工品、象牙彫など、東方的装飾性が濃いのも特徴の一つである。

ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)の壁画は赤、黄土色、白、黒の4色で描かれているが、ある部分の背景は黄土色で、別の部分の背景は赤色で塗られており、太く黒い線描の人物像が生き生きと描かれている。

「戦士の衣装をまとった騎士」アーモンド型の目とくびれたウエスト、腰に巻いた服はエジプトの壁画を彷彿とさせる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

人間は細長く描かれ、動きだしそうな印象を見る人に与える。一人一人の顔は、どれもよく似た特徴を持ち、横顔は楕円形で、反対側の耳まで一直線に伸びている。目は2つの弧型で形成され、大きな丸い瞳孔は常に黒く、眉毛は鼻の直線で終わる2本の線である。また、太い黒の線描で人物を構成し、その上に彩色を施す方法がとられており、これらはモサラベ様式の影響を強く受けている。(アルテギアより)

「イエスの12使徒」の一部分。手が体に比べて大きいが、動きを表現しているようだ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

下の写真は「琴と杯を持つ24人の長老」。残念ながら24人全員の人物像は残存していないが、わずかにこれらの長老たちの頭上に残りの長老たちの足と服のすそ部分が見える。興味深い事には、この写真の長老たちの背景は赤色だが、上の層の背景は黄土色で色分けがしてある。何か意味があったのだろうか、それとも構図の工夫の観点から色分けしたのだろうか。今となっては分からない。

「琴と杯を持つ24人の長老」三日月模様の服は、イスラム文化の影響だろうか(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

長老たちは各々中世フィドル(Giga)と呼ばれる現代のバイオリンのような弦楽器をと軟膏や香水が入った球状のフラスコを手に持っている。

中世フィドル(Giga)(ウィキペディアドメイン写真)

最後に

興味深い事は、この礼拝堂は何世紀にも亘り完全に忘却の彼方に消え去っていたことだ。確かにかなり近づかないと礼拝堂の姿は見えない。更に、礼拝堂に近づくにはかなり急な傾斜面を登っていかなくてはいけない。しかし、ビゲラ村からはそう離れてもいないし、この礼拝堂近くを散歩していた村人たちはいただろう。ただ、あまりにもその粗末な外見から、中に入ってみようという興味をそそられるような人がいなかったのだろう。1950年代に「再発見」され、修復工事が行われたという話を聞いて驚いた。そして、その修復工事の際にこのフレスコ画が見つかった。それが前述したように聖書の黙示録の一説を描いたものである。

ビゲラの村から少し離れていて、かなり急な斜面を登らなければならないとしても、十分に訪れる価値があるもので、もっと大々的にアピールすればよいのにと、少し残念でもある。

サン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban)の素晴らしい壁画は、スペインプレ・ロマネスクの至宝といえよう。もしかすると、他の小さな村にも忘れ去られた至宝が眠っているかもしれない。

参考

・ビゲラ市役所のウエブサイト

https://aytoviguera.larioja.org/descubre-viguera/ermita-de-san-esteban

・アルテギアのウエブサイト

https://www.arteguias.com/ermita/viguera.htm

・ビゲラのサン・エステバン礼拝堂 (La ermita de San Esteban de Viguera)を扱った動画が幾つかあったのでこの場で紹介する。

ロマネスクへのいざない (16)- アストゥリアス州 (4)– プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)

宿泊していたビジャビシオサ(Villaviciosa)の街から車で20分とかからない所にサン・サルバドール教会はあった。

この教会は、1913年2月5日に国定史跡(Monumento Nacional)に指定されたが、2015年には、ユネスコが「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道である、フランスからの巡礼の道並びにスペイン北部経由の巡礼の道(筆者訳)(«Caminos de Santiago de Compostela: Camino francés y Caminos del Norte de España» 」に承認した際、海岸沿いの道の個別資産(参照番号669bis-013)の一つとして含まれた。(ウィキベテアより)

切り石建築ではなく、漆喰と塗装が施されている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

アストゥリアス文化(プレロマネスク様式)とは

10世紀末から12世紀にかけてヨーロッパ各地でロマネスク様式の教会や修道院が盛んに建設されたが、スペインにはロマネスク様式への架け橋となった西ゴード、アストゥリアス、モサラベの3種類のプレロマネスク様式がある。ここでは現在スペインのアストゥリアス州にのみ現存するその土地に根差したアストゥリアス建築を中心とするアストゥリアス文化の教会を見てみる。

アストゥリアス文化は、8世紀から10世紀の頭まで200年ちょっとの間に花開いた文化であり、それはアルフォンソ2世(Alfonso II)が統治していた791年から842年、ラミノ1世(Ramino I)とオルドーニョ1世(Ordoño I)が統治していた842年から866年、アルフォンソ3世(Alfonso III)が統治していた866年から910年までの3段階の発展があった。

プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、このアストゥリアス文化(プレロマネスク様式)の教会として、921年に献堂されたが、この年は既に首都がアストゥリアスのオビエドから現在のカステージャ・イ・レオン州のレオン市に遷都され、アストゥリアス王国ではなくレオン王国になっていたという時代背景がある。

後陣を外側から見た教会。窓はまだ小さいもので格子窓が使われているのはアストゥリアス文化の特徴の一つ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

色濃く残るアストゥリアス文化の特徴

この教会はアストゥリアス文化の特徴を兼ね備えた教会である。

バシリカ間取り、身廊(Nave principal)と身廊の両側の外廊(Nave)の3つから成り、教会の祭壇を含む頭部(Cabecera)は3つの部分に分かれ、その天井は半円形ボールトで覆われている。身廊は外廊に比べより高くより広くなっており、身廊と外廊は半円アーチの柱で区切られている。そして入り口のホール部分からトリビューン階上廊へ上っていく造りになっていた。これは、君主がミサに出席する際に二階にある席に座るためのものであり、そこには衝立等が置かれていて、ミサに出席している他の一般の信者たちからは見えないような配慮がなされていた。この部分は現在では焼失されてしまったのが残念だ。

プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、アストゥリアス文化最後の建築時代の最も興味深い例のひとつであると言われている。

手元にあるオビエド大学の美術史教授カルメン・アダムス・フェルナンデス(Carmen Adams Fernández)著「El Arte Asturiano Prerrománico・Románico・Gótico(アストゥリアス文化 プレロマネスク・ロマネスク・ゴシック)(筆者訳)」では、プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)は、「彫刻装飾はバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdediós)をモデルとしているが、建築の間取りについては、リージョのサン・ミゲル教会(Iglesia de San Miguel de Lillo)やバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdedós)といったより近い時代の建築よりも、バシリカ・サントゥジャノ(Santullano または Basilica de San Julián de los Prados) との類似性が確立されていることから、そのモデルはアストゥリアス文化の初期、特にアルフォンソ2世(Alfonso II)の時代にある(筆者訳)」と指摘している。

前述したように、この教会が献堂された921年は、910年にレオンに遷都されてから既に10年の歳月が過ぎていた。アストゥリアスの人々はアストゥリアス王国の繁栄時代を懐かしみ、復古主義的になっていたのだろうか。アルフォンソ2世(Alfonso II)の時代と言えば前述したように791年から842年なので、60年から100年近く時代を遡っていることになる。興味深いものだ。

半円アーチで区切られた身廊と外廊。今もミサがあげられるため長椅子が置いてある(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

モデルとなったバルデディオスのサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador de Valdediós)についてはこちらをどうぞ。

1000年の重みを感じさせられる内部

下の写真を見てお分かりになるように、後陣の祭壇部は半円アーチと柱にて3つの部分に区切られており、中央部分にはアストゥリアス文化の特徴の一つである格子窓が明り取りとなっている。原始キリスト教時代から「3」という数字には特別な宗教的意味が込められていた。それは、「三位一体」を具象化していたのである。「三位一体」とは、325年に開かれたニケーア公会議に始まり数回の公会議を経てキリスト教の正当教義となった、「神とキリストと聖霊の三者はそれぞれ別な位格(ペルソナ)をもつが、実体は一体である」という教義のことである。また、キリストが磔刑に処せられた時の年齢が33歳であったことや、その際午後3時に息を引き取ったということからも「3」という数字にキリストを重ね合わせたとも言われている。

薄っすらと幾何学的な絵の跡が見られる(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

こちらの写真は身廊の両側の外廊(Nave)に当たる後陣部分である。ここにもアストゥリアス文化の特徴の一つである格子窓があるが、これは10世紀当時のオリジナルなものだという説明を教会を開けて見せて下さった管理人の方から聞き、1000年以上の歳月に耐えられる当時の建築技術の高さを改めて感じさせられた。

こちらの天井にも幾何学模様が見える(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

次の写真は、後陣の祭壇部と身廊の両側の外廊(Nave)に当たる後陣部分を隔てている塞がった半円アーチと柱がある壁。これも大変保存状態の良いオリジナルの一つだ。

塞がれた半円アーチと柱によって後陣を3つに分ける壁(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

また、教会内部の床部分はコンクリートでできているが、これは中世初期スペイン建築の特徴の一つである。これもオリジナルだ。

見えずらいが、10世紀から1000年以上も多くの信者たちを迎えてきた床(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

不思議な窓とその小部屋

教会の外に出て、外から後陣を見てみると、前述の明り取りの格子窓の上に下の写真のような2つの小さな馬蹄形アーチを載せた窓がある。

スペイン建築の特徴の一つ、馬蹄形アーチ窓(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

実は、祭壇部分がある中央後陣の上には小部屋が設けられている。この小部屋は、アストゥリア文化の教会建築の特徴の一つである。不思議なことに、内部からこの小部屋に入ることはできず、外部からもこの2つの小さな馬蹄形アーチを載せた窓からしか入れないのである。しかも、この窓から入るための足場も何もない上に、この窓はかなり小さいので大人が一人やっと入れるくらいの幅しか無い。

中央の格子窓の下に足場があるが、格子窓の上にある2つの小さな馬蹄形アーチ窓までは到底届かない高さ(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この謎の小部屋についてアルテギア(arteguia)のサイトに、「この小部屋の起源や機能については、研究者の間でも意見が一致していない。構造的、美的機能を果たしていることは間違いないが、他の目的、おそらく聖遺物を保管する場所として、あるいは穀物貯蔵庫として使われた可能性もある。(筆者訳)」と説明されている。内部からも外部からも侵入が困難であったこの小部屋は、大切なものを保管する場所として使われていたのであろうが、謎が解決することはないのだろうと思った。それだけに色々な想像をかきたてくれる。

最後に

下記参考に、プリエスカのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Priesca)を訪れたい方のためにアストゥリアス州の観光サイトを紹介しているが、私が10月末に訪れた際には、教会の前の家に住んでいらっしゃる管理人の方が教会の入口を開けて見せてくれた。事前予約もなく無料で観覧できたが、やはり事前に連絡をして日時を予約して行った方が賢明であろう。

スペインの中でも特にアストゥリアス州でしか見れない-実際には、現在のアストゥリアス州以外でも数件残存するが-特殊なアストゥリアス文化、そして1000以上の気の遠くなるような長い年月をタイムスリップするかのような錯覚を与えてくれる教会を是非、訪れてほしい。

このアストゥリアスのプレロマネスクとロマネスクを訪ねた旅のルートを知りたい方はこちらをどうぞ。

参考

・アストゥリアス建築について、建築家丹下敏明氏が直截簡明に説明してあるお薦めのエッセイ。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53485769.html

・アルテギア(arteguia)のウエブサイト。スペインロマネスク美術と中世美術を紹介するサイト。本も多数出版している。

https://www.arteguias.com/iglesia/sansalvadorpriesca.htm

・アストゥリアス州の観光サイト。こちらには連絡先などの基本情報がある。

https://www.turismoasturias.es/descubre/cultura/prerromanico/iglesia-de-san-salvador-de-priesca

・スペイン中世初期美術友の会(筆者訳 Asociación de Amigos del Arte Altomedieval Español)のウエブサイト。アストゥリアス文化についても出ている。

https://www.turismo-prerromanico.com/home-b__trashed-2__trashed-2__trashed-2-2-2/monumento/san-salvador-de-priesca-20130116115217

スペインのワイナリー見学(3)-クネ(CVNE)

イースター休暇を利用してラ・リオハ州にあるクーネ(CVNE)というワイナリー見学に行ってきました。スペインワインと聞いて一番有名なワインの産地はやはりリオハワインだと思います。その中でも、クネ(CVNE)は1879年から140年以上も続く伝統あるワイナリーでまさしくスペインを代表するワイナリーと言えます。

ワイナリー見学はこちらから!(写真: 筆者撮影)

「クネ(CVNE)」ワイナリーの歴史

通称「クネ」と呼ばれているワイナリーの正式名称はコンパニア・ビニコラ・デル・ノルテ・デ・エスパーニャ(Compañía Vinícola del Norte de España )で、その頭文字を取って「C.V.N.E」です。日本語に訳すと「スペイン北部のワイン醸造会社(筆者訳)」となり、えらく抽象的な名前の会社だなというのが私の最初の印象でした。(笑) 「クネ(Cune)」と呼ばれている理由は、「V」を「U」にする方が呼び名として洒落た感じだったからだとか。上の写真でもワイナリーの名前「クネ(Cune)」の文字が見えます。

ワイナリーの敷地内は、ちょっとレトロな雰囲気が漂っていました(写真: 筆者撮影)

前述したようにこのワイナリーは、1879年リオハ州にあるアロ(Haro)という街にレアル・デ・アスーア兄弟(Real de Asúa)によって設立されました。もともとはリオハ州出身ではない二人でしたが、健康上の理由からこの地に移り住むことを決め、家族経営のワイナリーを始めることにしたとのこと。今も同じレアル・デ・アスーア家の人達の手により、質の高い、職人的かつ伝統的なワインを生産し続けています。

アロ(Haro)にはクネ(CVNE)以外にも有名なワイナリーが沢山あります(写真: 筆者撮影)

クネ(Cune)と言えばインペリアル(Imperial)!!

スペイン人にクネ(Cune)の代表的なワインは何?と尋ねると、必ず帰ってくる答えは「インペリアル・レセルバ(Imperial Reserva)!!」。このワインは、良質なぶどうが収穫され、優良なヴィンテージが期待出来る年にのみ造られる特別なワインです。

私の義母はリオハ州出身ですが、クリスマスプレゼントの定番がこの「インペリアル・レセルバ(Imperial Reserva)」。「このワインを嫌いな人なんていないわよ!」と言っている通り、地元の人達にも圧倒的な信頼を置かれているワインなのです。それもそのはず。このインペリアルワインはスペイン国王が毎年樽で購入しているプレミアムスペインワインなのです!

更に、「インペリアル ・グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」はアメリカのワイン専門誌『ワイン・スペクテーター』が選ぶ2013年世界のTOP100ワインランキングにて堂々【第一位】に輝き、スペインワイン初の快挙、まさに革命的な出来事となりました。

マグヌム (magnum) と呼ばれる1.5L入りのワインと3L入りの巨大ワインが売ってありました。うーん、3Lのワインを注ぐのはかなり大変そう…(写真: 筆者撮影)

スペインフェリペ国王とレティシア王女は2004年5月22日に結婚式を挙げられたので丁度今年は20周年という記念の年です。その壮麗な儀式の後で、披露宴の食事に振舞われた赤ワインがクネ(Cune)の「インペリアル ・グラン・レセルバ 1994(Imperial Gran Reserva 1994)」でした。前述のワイン・スペクテーター』が選ぶ2013年世界のTOP100ワインランキングにて堂々【第一位】に輝いた「インペリアル グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」は、奇しくもお二人が結婚された年のワインなので、今年5月22日の結婚記念日にはこの「インペリアル グラン・レセルバ 2004(Imperial Gran Reserva 2004)」でお祝いされるかもしれませんね。

ちなみに、結婚式に振舞われた白ワインは「テーラス・ガウダ(Terras Gauda)」でした。このワインのワイナリーについて興味がある方は、こちらもご覧ください。

エッフェル設計のワイン倉庫

樽詰めしたワインを寝かす倉庫は、伝説の建築家アレクサンドル・グスタフ・エッフェルのスタジオが設計したもので、1890年から1909年にかけて建てられました。建築家アレクサンドル・グスタフ・エッフェルと言えば、パリのエッフェル塔が有名ですよね。

約17mx47mの長方形の間取りで、その広さは800㎡というかなり大きな倉庫(写真: 筆者撮影)

上の写真を見てお分かりになるように、これだけ大きな倉庫に柱が1本もありません。屋根は壁から壁へと走る金属製のトラスで支えられ、革新的な固定方式を採用した堂々たる構造となっていて、空間革命となりました。

この大きく開放的な空間は、建物内の樽の管理を大幅に最適化し、ワインの棚入れ、メンテナンス、管理を容易にしました。エッフェルが設計した倉庫と整然と並べられた大量のワイン樽は必見の価値ありです。

「インペリアル(IMPERIAL)」ワインの樽(写真: 筆者撮影)

ワインの墓場(Cementerio)⁉

次に、ワイナリーの見学の最大のミステリーとなる「墓場(Cementerio)」と呼ばれる地下室へと誘引されました。ガイドさんの懐中電灯の明かりだけを頼りに「墓場(Cementerio)」へと入ると、まるでミステリー映画かヨーロッパの中世にでもタイムスリップしたかのような錯覚を覚えました。

まるでワインのカタコンベのよう!(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

ここには、ワイナリー創立以来最も古いワインから今日のワインまでを保管してあります。ここの暗闇・温度・湿度といった理想的な条件下で、生き物であるワインは瓶詰めされた後も熟成し続けるのです、という説明がありました。「ワインが生き物」ということを考えたこともなかった私にとっては、真っ暗で湿気のあるこの地下室でいつか栓を抜かれ外界の空気と触れ合うまで、この「生き物」は息をひそめてジッと横たわって待ち続けているんだ、という背筋がゾワッとするような想像をかき立てられました。

少なくとも8万本の瓶が横たわっている(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

この後、ガイドさんがこの「墓場(Cementerio)」のある伝説を語ってくれました。1979年、クネ(CVNE)の創立100周年を記念して、設立者のレアル・デ・アスーア兄弟の子孫たちは、1888年のワインや、スペイン市民戦争が始まった1936年のワインなど重要なヴィンテージのボトルを、閉ざされた立ち入り禁止の門の奥に保管するという協定に署名しました。そして伝説によると、1979年に門を閉じた鍵は川に投げ込まれ、次の100周年にあたる2079年に、その協定に署名したレアル・デ・アスーア兄弟の子孫たちが再び集まれば、門は再び開くのだそうです。

写真では見えずらいですが、閉ざされた立ち入り禁止の門のこの中に、100年間の重要なヴィンテージのボトルが保管されています(写真: アルベルト・フェルナンデス・メダルデ)

テイスティング タイム 

まるで小説にでも出てきそうな伝説と「ワインの墓場」を後にして、湿気のある肌寒い地下から再び光射す地上に戻ってきました。なんともホッしました。(笑)

そして、楽しみにしていた試飲タイム!ここでは、一般には市販されていない、限定ワインの試飲ができました。深い赤色、深い味わい、両方ともとても美味しく頂けました。ただ、インペリアル(Imperial)の試飲もあるのかなーなんて期待していましたが、残念ながら出てきませんでした。(笑)

ほのぼのとした絵が描かれているラベルも素敵!(写真: 筆者撮影)

ガイドをしてくれた可愛いマリア(María)のワイナリーへの愛情や誇りが私たちにも伝わってきて、とても楽しいワイナリー見学ができました。

もし、ワイナリー見学に興味のある方はラ・リオハ州アロ(Haro)に是非足を運んでみてください。この町には沢山の有名どころワイナリーがツアーを開催しているので、参加されるときっと旅の良い思い出になること間違いなしです。

テイスティングの説明をするガイドのマリア(María)(写真: 筆者撮影)

参考

・「クネ(Cune)グループ」の公式サイト。個人でワイナリー見学を予約される方はこちらからどうぞ。https://cvne.com/visitas-home/

・ラ・リオハ州のワインを楽しむスペイン観光公式サイト。https://www.spain.info/ja/supein-tankyuu/rioha-ekusuperientu-wain-tanoshimu

・同じラ・リオハ州のワイナリー見学の別の記事はこちらからどうぞ。

ロマネスクへのいざない (15)- アストゥリアス州 (3)– バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)

秋雨の降る中、訪れたサン・サルバドール教会は周りの風景ともピッタリ溶け合っていた。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

神の谷」に佇むアストゥリアス文化(プレロマネスク様式)の教会

サン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador)は、バルディオス(Valdediós)という場所にあるが、日本語に訳すと「神の谷」という意味である。その名にふさわしく人里から離れた神聖な場所にこの教会はひっそりと、しかし存在感をもって威風堂々と佇んでいた。「神の谷」全体が平安、調和、そしてその長い歴史や様々な記憶を喚起させるもので覆われていると感じさせられる、そんな場所である。

アストゥリアス王家の教会

アストゥリアス王国は718年から924年まで約200年間栄えた王国であるが、バルデディオス(Valdediós)のサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador)は、このアストゥリアス王国の王家の教会として最後の王アルフォンソ3世(Alfonso III)によって893年に献堂された。アルフォンソ3世(Alfonso III)の祖父ラミロ1世(Ramiro I)は、現在のアストゥリアス州の州都であるオビエド(Oviedo)近郊のモンテ・ナランコにサンタ・マリア・デル・ナランコ宮殿(Palacio de Santa María del Naranco)、そしてより大きな複合施設の一部として宮殿から100m程離れた場所にサン・ミゲル・デ・リージョ教会(Iglesia de San Miguel de Lillo)を建設したが、今回訪れたバルデディオス(Valdediós)のサン・サルバドール教会(Iglesia de San Salvador)は、これらの夏の宮殿群の神殿である。

当時イスラム教勢力がイベリア半島の大部分を征服していたが、アストゥリアス王国最後の王アルフォンソ3世(Alfonso III)は、イスラム教から解放されキリスト教勢力への奪回を目指すレコンキスタ(国土回復運動)を精力的に推進した王で良く知られている。しかし、晩年には3人の息子たちと対立するようになり、このバルデディオス(Valdediós)のサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador)がある修道院に幽閉される身となった。

アストゥリアス王家の教会を示すものとして、教会の入口の上に「勝利の十字架(Cruz de la Victoria)」が刻まれていることでもわかる。この「勝利の十字架(Cruz de la Victoria)」は、レコンキスタの出発点となったコバドンガの戦いでアストゥリアス王国の建国者ペラヨが掲げた木の十字架のことで、アルフォンソ3世はこれを王国の紋章としていた。

キリスト教の中で最も頻繁に用いられる十字架の形「ラテン十字(Cruz latina)」。万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエスを示す「アルファ(A)」と「オメガ(ω)」が刻まれているが、アストゥリアス王国の紋章「勝利の十字架(Cruz de la Victoria)」では、写真でお分かりいただけるようにオメガは「Ω」ではなく「ω」で表されている。 (写真: アルベルト・F・メダルデ)

昔もリサイクル活用!

この教会にはローマ時代の遺跡のリサイクルがなされていて興味深い。まず、入口の2本の柱は斑岩(はんがん-Pórfido)でできているが、この石はアストゥリアス地方にはない岩で、ローマ時代に使われていた物をリサイクル活用されているとのことだった。そして、この斑岩(Pórfido)という赤い石は、花崗岩よりも硬くどんな気候条件にも永久的に耐える事ができ、ローマ時代には大きな権威と真の品位の象徴であった。サン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador)では、王家の教会の入口の柱に使われていることは注目に値するだろう。

石の色が赤いローマ時代の物をリサイクルした2本の柱は、他の部分に使われている石の種類とは異なっていることが一目瞭然。 (写真: アルベルト・F・メダルデ)

祭壇に使われている柱は大理石(mármol)で、こちらもローマ時代の物をリサイクル活用したもの。柱頭は時代が下りロマネスク時代のもので、大きなシダの葉の模様が見られる。

教会内の祭壇部分の上部には、3つの十字架が描かれている。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

上の写真を見ていただくと分かるが、3つの十字架が描かれている。これは、キリスト教の原点と言われるキリストが磔刑に処せられたゴルゴダの丘に立った十字架を表している。キリストの左右には犯罪者が磔刑に処せられていて3つの十字架が立っていたのである。

そして、真ん中のキリストの十字架には、上の写真ではよく見えないが、万物の最初と最後を意味し永遠の存在者である神とイエスを示す「アルファ(A)」と「オメガ(Ω)」が描かれている。

また、祭壇の後部が窓になっており光が差し込む造りになっているが、光は神を意味し神を体現化していたのである。これら、キリスト教におけるシンボルがちりばめられていることは、非常に重要かつ興味深いものである。

教会の内部

バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)は、アストゥリアス文化(プレロマネスク様式)建築の好例であり、半円アーチ型天井で覆われた3つの身廊、東向きの3つの礼拝堂、同じくアーチ型天井の3部の玄関の上に位置するトリビューン(教会内の解放された二階部分で、階上廊とも呼ばれる)から成るバシリカ間取りである。

祭壇部分とは丁度反対側、教会入口の二階部分のトリビューンには王と王妃がミサに出席するための特別な場所が設けられていた。これは王家の教会だったことを思い出させてくれる。今も二人のために椅子が2客用意されていて、1000年もの昔、二人揃ってミサに出席していた姿を想像すると微笑ましい。

教会の正面玄関の真上にトリビューンがある。この窓の上にも3つの十字架が見える。今も椅子が2客置かれているのは心憎い演出。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

上の写真でもわかるように、身廊は半円アーチで区切られ、中央身廊の高い壁を支えている。これらのアーチは四角い柱の上にあり、スペイン式典礼に必要とされた扉が取り付けられた窪みが見られる。

側廊(El pórtico lateral)

教会のやや後方、南壁の横に建てられた側廊(El pórtico lateral)は非常に興味深い。

南壁の側廊は、透かし窓のある大きな切り石建築の建物。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

ガイドの説明によると、葬儀用又は典礼用に使われていたものと考えられている。この教会より後世に建てられたロマネスク様式の教会ではよく見られるようになり、集会所など他の目的にも機能性は拡張されていったとのことだった。

内部は思ったより大きく、透かし窓が美しい。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

この側廊(El pórtico lateral)の高さは、主身廊( La nave principal)、南側通路( La lateral sur)、そしてこの側廊(El pórtico lateral)から減少していく量感のバランスの取れた相互作用を生み出すために完璧に計算されていた。(arteguia参照)確かに、外から見た教会の全体像が見れる上の写真でよくわかるように、三層の高さの異なる建築により安定感や躍動感を見る人に与えてくれる。

多様な文化の融合

前述の側廊(El pórtico lateral)に施された透かし彫りの窓は、私たちの目を引かずにはいられない。

1000年以上、風雪に耐え忍んでなお美しい彫刻装飾に感動させられる。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

透かし彫りで彫られたこの窓は、スペインが当時イスラム支配に置かれていたこともあり(アストゥリアス地方は別)、イスラム文化やモサラベ文化、そして地元のアストゥリアス文化と、多様な文化の融合を垣間見ることができる貴重な証人だ。

「モサラべ文化」という名前を聞いたことがない方も多いだろう。これは、中世キリスト教美術・建築で用いられた様式の一つであるが、8世紀初頭以来イスラム統治下のスペインはイスラム教徒の治下に混在してキリスト教徒たちが暮らしていたが、イスラム文化の影響を受けながら独自の文化を形成したキリスト教徒(モサラべ)の文化が「モサラべ文化」であり、スペイン特有の文化である。

スペイン語では Celosía(セロシーア=格子窓)と呼ばれるこの透かし彫り入りの窓は、明かり取りや通気性のためにガラスをはめないタイプのものだ。

下の写真で見える屋根の上に凸型の突起のようなものがあり、これは、スペイン語では Almena(アルメナ=のこぎり壁、鋸壁(きょへき))と呼ばれるものだとのこと。そして、これはイスラム文化が華咲いていたスペイン南コルドバのメスキータにも見られるものだということだった。

主身廊( La nave principal)部分の屋根の上にはAlmena(アルメナ=のこぎり壁、鋸壁(きょへき))がみえる。(写真: アルベルト・F・メダルデ)

比べてみると確かに共通点があるようだ。

メスキータの建物の中でも最も古いものの一つ、サン・エステバン門。凸型の突起のようなAlmena(アルメナ=のこぎり壁、鋸壁(きょへき))が見られる。(写真: ウィキペディアドメイン)

そして、バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)の透かし窓、鋸壁等の彫刻装飾は、モサラべの巨匠によるものだろうということだった。

教会の建築物自体は前述の如くアストゥリアス文化(プレロマネスク様式)建築の好例であり、その細部の彫刻装飾にモサラべ文化を取り入れたハイブリッドなものになっており、その当時のスペインで定着していた多様な文化の融合を目の当たりにできる教会でもある

最新の研究

今回の訪問でとても興味深かったものの一つに、ガイドが説明してくれた最新の研究の説明があげられる。様々な研究が進み、建築当時の内部の想像図を再現したものをタブレットで見せてもらった。

基本的に、ロマネスク時代の教会内部は美しい色で装飾されていたものが多かったが、現在までその装飾が鮮明な形で保存されている例は数少ない。バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)も他のスペイン各地の教会・大聖堂等と同様に、ペスト時代に教会内部を石灰(Cal)で覆われた。それは、石灰は消毒剤の効果があると考えられていたからである。

しかしテクノロジーの進化に伴い失われた当時の姿を再現することができるようになっているのは、現代に生きる私たちの特権だなと感じた。

建築当時の教会内部装飾の想像図。赤褐色を基調とする幾何学模様が施されていたと考えられている。(写真: 筆者撮影)

現在の教会内部の写真と比べてみたいところだが、手元によく映っている写真がないので、こちらのサイトにある教会内部の写真を参考にして頂きたい。正面に見えるアーチの左側部分は現在も少し残っている装飾が見える。

https://www.arteguias.com/iglesia/sansalvadorvaldedios.htm

現在の教会内部とはかなり異なり賑やかな装飾に溢れていたようだ。

最後に

バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)の敷地内には、シトー会修道士達によるサンタ・マリア修道院(Monasterio de Santa María)が建っている。この修道院には、2020年までは少数の修道士たちが居たが、今は完全に観光のみとなり、ガイド案内が行われている。今後は、巡礼者のためのゲストハウスとして開かれることが考えられているそうだ。

サン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvado)から見えるサンタ・マリア修道院(Monasterio de Santa María) (写真: アルベルト・F・メダルデ)

バルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)並びにサンタ・マリア修道院(Monasterio de Santa María)がある「神の谷」と呼ばれるバルディオス(Valdediós)渓谷は、1000年を超えるオークや栗の木が生い茂り、川のせせらぎと鳥のさえずりが私たちの聴覚を刺激し、この世俗から離れた神聖な場所に1000年以上時が止まったがごとく建つ建物は、私たちの五感に特別な何かを感じさせてくれる。

参考

・サン・サルバドール教会の横にあるサンタ・マリア修道院の公式ウエブサイトは次の通り。サン・サルバドール教会とサンタ・マリア修道院の両方を見学できるが、このサイトから時間帯等を確認及び予約できる。

https://monasteriovaldedios.com/en/home-english

・ここで紹介したバルデディオスのサン・サルバドール教会 (Iglesia de San Salvador de Valdediós)は、アストゥリアス州のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。このルートを知りたい方はこちらを参考にしてほしい。

ロマネスクへのいざない (14)- アストゥリアス州 (2)– ビジャビシオサのサンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva en Villaviiosa)

ファサードだけを見るとゴシック様式の教会のよう(写真:アルベルト・F・メダルデ)

ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に建てられた教会

スペイン北部のビジャビシオサ(Villaviiosa)の街の中にあり、1270年に建てられたサンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)は、スペインでロマネスク様式がまさに終焉しようとしていた頃、かつ、既に他のヨーロッパ諸国やスペインの他の街ではゴシック様式が建築の新しい主流となりつつあった頃に建てられたものだ。上の写真をご覧いただくとお気づきになる方も多いと思うが、入口の門のアーチは純ロマネスク様式の半円アーチではなく、ゴシック様式の特徴である尖ったアーチで造られ、ロマネスク様式にはなかったバラ窓が施され、そのファサードは鉛直性が見て取れる。これらの特徴はロマネスク後期に見られるもので、完全なゴシック様式ではないもののゴシック様式の原型となるものであった。

このような、二つの建築様式が融合している教会は興味深いものがある。改築や増築されたために異なる建築様式を持つ教会とは違い、取ってつけたような印象はなく、調和のとれた安心感を与える美しい建築だ。

アストゥリアス芸術が残るプレ・ロマネスク

サンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)は、プレ・ロマネスク様式(アストゥリアス芸術)を受け継いだ正方形の祭壇を含む頭部 (Cabecera)を持つバシリカ間取りで、長方形の身廊と聖堂、聖具保管室、南壁に取り付けられた開口柱廊で構成されている。

祭壇を含む頭部 (Cabecera)部分が正方形なのは、この地方のプレ・ロマネスク様式(アストゥリアス芸術)の特徴の一つ(写真:アルベルト・F・メダルデ)

教会の内部の身廊は露出した木造建築で覆われ、尖ったアーチが聖堂の2つのセクションを隔ている。ゴシック様式への過渡期の尖ったアーチが見られるものの、全体的にはロマネスク様式の至ってシンプルな造りである。

祭壇を含む頭部 (Cabecera)へと導く主要アーチ(arco de trinumfo)はゴシック様式(写真:アルベルト・F・メダルデ)

プレ・ロマネスク様式(アストゥリアス芸術)とは、一般的にはロマネスク様式が伝わってくる以前にアストゥリアス地方で造られてきた教会や修道院などの建築様式で、この地方独特の特徴を持っていた。11世紀にはいるとロマネスク様式がスペイン北部全域そしてアストゥリアス地方でも席捲し始め、それまでの様式に取って代わられた。それ故、プレ・ロマネスク様式(アストゥリアス芸術)は11世紀以前に造られた建物が殆どだが、この教会は13世紀後半という後期ロマネスク様式時代に造られたにもかかわらず、まるで数世紀前の自分たちのアイデンティティーを懐かしむがごとく、プレ・ロマネスク様式(アストゥリアス芸術)の特徴である正方形の祭壇を含む頭部 (Cabecera)が造られたりしていて興味深い。

オリジナルなモチーフが施された柱頭

自分たちのアイデンティティーを再確認するようだと思わせる他の例として、ファサードの出入り口にある柱頭の彫り物のモチーフが挙げられる。

・アストゥリアスで初めてのバグパイプ奏者(Gaitero)

「バグパイプ」と聞くと日本では真っ先にスコットランド・バグパイプが思い浮かぶが、実は「バグパイプ」は中世ヨーロッパではポピュラーな楽器の一つで、スコットランドだけではなく各国で演奏されていた。スペインでは「ガイタ(Gaita)」と呼ばれ、現在でもアストゥリアス州やガリシア州ではお馴染みの楽器の一つだ。キリスト教三大巡礼地の一つガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステーラという街では、今でも「ガイテーロ(Gaitero)」と呼ばれるバグパイプ奏者がストリート・ミュージシャンとして活躍していて、その音色を気軽に楽しむことができる。

アストゥリアスの「ガイタ(Gaita)=バグパイプ」は、旋律を演奏する主唱管(チャンター chanter)の他に、1本の通奏管(ドローン drone)が付いている。ちなみに、日本で知られているスコットランド・バグパイプはこの通奏管(ドローン drone)が3本付いている。

下の絵はアストゥリアスの「ガイタ(Gaita)=バグパイプ」である。スコットランドのものよりシンプルな形をしている。

1吹口管 (ブローパイプ Blow pipe)2 主唱管(チャンター Chanter)3 通奏管(Bass drone) 4 バグパイプの袋(バッグ Bag) (絵: Wikipedia domain)

欧州では、14世紀~15世紀にかけて最も盛んにこの楽器が用いられていたらしいが、今回訪れたサンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)のファサード出入り口の柱頭には、この「ガイテーロ(Gaitero)=バグパイプ奏者」の姿を見ることができる。地元のガイドであるアナ・マリア・デ・ラ・ジェラ氏によると、これはアストゥリアス地方の教会の装飾として初めて施されたものだという。教会は1270年建設なので、かなり早い時期から「ガイタ(Gaita)=バグパイプ」がアストゥリアスではポピュラーな楽器だったことが推測される。ロマネスク様式では珍しい図像である。

アストゥリアスの「ガイタ(Gaita)=バグパイプ」を引く人「ガイテーロ(Gaitero)=バグパイプ奏者」(写真:アルベルト・F・メダルデ)

・豚の屠殺(とさつ)行事(Fiesta de Matanza de cerdo)

 こちらの図像もアストゥリアスならではのもので、前述のガイドアナ・マリア・デ・ラ・ジェラ氏によると、この柱頭の彫り物は豚の屠殺(とさつ)行事を表現している。中央の女性はアストゥリアス地方の代表的な飲み物「シードラ」と呼ばれるリンゴ酒(Sidra)を飲み、左側の女性はタンバリンをたたいてお祭り気分を表し、右側の男性は大きなナイフを持って豚をつぶそうと身構えている。

中央の女性の左手の下にはシードルが入った樽があり、樽からシードルが流れ出している。右側の男性は豚の屠殺(とさつ)の目的である保存食のハムやソーセージを作るという美味しい行事の始まりの期待感を感じさせる顔つきだ。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

この豚の屠殺(とさつ)行事(Fiesta de Matanza de cerdo)は現在も行われており、特に地方の村々では11月末から2月にかけてこの「マタンサ(Matanza)」が開催されており、村を挙げての行事でありお祭りでもある。村のみんなが集まり共同して豚をつぶし、1年分のハムやソーセージを作ったり、肉を焼いて村人みなで食べたりして、食べ物が少なく貴重だった当時は、豪華な食べ物にありつける有難いお祭りだったのだ。

・妊娠姿のマリア像

次に紹介するのは、お腹が大きいマリア像である。教会の石像等でマリア像は沢山あるが、妊娠中のお腹が大きいマリア像は殆ど見ることができない貴重なものである。

左から2番目の像がマリア像。お腹が膨れているのがわかる。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

その他のさまざまな図像

狩りをした後に城へ帰る騎馬の姿も見られる。

左側には城、右側には騎馬で狩りをした後に帰城する姿が見られる(写真:アルベルト・F・メダルデ)

こちらは、教会南側出入り口の柱頭に施されている図像で、子羊または豚を殺そうとしている場面である。

左側は化け物が鳥を食べている(写真:アルベルト・F・メダルデ)

怪物が人間を食べている場面も見られる。一般的に、ロマネスク様式の柱頭では「善」と「悪」を表現していることが多いが、これらは「悪」を表していた。

哀れにも下半身を怪物に食べられ、頭が下向きになっている姿が見て取れる。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

最後に

既述の「妊娠姿のマリア像」の写真でお気づきになった方もいらっしゃると思うが、ファサードの8本の柱に施された人物像全ての首が失われている。これは、正確に言うと失われたのではなく、首を切り取られてしまったのである。

スペインでは、1936年から3年間にわたって左派の共和国人民戦線政府と右派の反乱軍が戦った、今もスペイン人の心の傷となって深く残る、スペイン内戦があった。同じ国の同士達がイデオロギーの違いによって、場合によっては親子や兄弟で敵同士となり戦った悲しい歴史だ。その内戦中、左派の社会労働党や共和主義者達は暴力革命志向が強く、そのためカトリック教会の施設破壊や略奪が公然のこととして横行した。アストゥリアス地方は、左派勢力が強かったため、前述したような教会のファサードに施された聖人像などの首が全て恣意的に切り落とされたのである。

中央のマリアと幼子イエスの像も破壊されたが修復されている。しかし、幼子イエスの首とマリアの手は今も失われたままだ。(写真:アルベルト・F・メダルデ)

一度、破壊された歴史的建造物を破壊される以前の姿に再現することは難しい。ここでもその例を見ることができる。そして、戦争の愚かさ、無意味さを考えさせられた。イデオロギーの違いを超えて、自分たちの祖先が築いた文化を守ることの大切さも考えさせられるものとなった。

顔や首のない石像たちの声なき声を聴いたような気がした。

参考

・デジタル版のビジャビシオサ(Villaviciosa)の街のニュースなどを提供している「ビジャビシオサ・エルモサ」の中に、今回登場したガイドアナ・マリア・デ・ラ・ジェラ氏によるサンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva)の説明動画がある。残念ながら映像と音響の質がいまいちでスペイン語しかないが、興味がある方はこちらをどうぞ。

・ここで紹介したビジャビシオサのサンタ・マリア・デ・ラ・オリーバ教会(Iglesia de Santa María de la Oliva en Villaviiosa)は、アストゥリアス州のロマネスクを訪ねたルートの中の一つだ。このルートを知りたい方はこちらを参考にしてほしい。

情報

ビジャビシオサ(Villaviciosa)ウエブサイト。教会が見れる時間帯などの情報が得られる。

https://www.turismovillaviciosa.es/iglesia/romanico/santa-maria-de-la-oliva/villaviciosa